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第一章 少女アルベルタ

 この町には人魚が棲んでいる。人魚は滅多に海から出てこないが、一度顔を覗かせると誰もが目を奪われる美しい容姿をしている。長く、ほつれのない髪を濡らし、お気に入りの貝殻で身を覆い、宝石のように輝く鱗を持っている。そして、人魚は不老不死であった。美しいままで、変わらない時を過ごし、気まぐれに人間の前に現れる。人魚を見た者には幸運が訪れる、などという噂が出回るのも時間の問題だった。

 人魚は美しいだけではない。その体にも、その血肉にも価値があった。どの絹糸よりしなやかな髪は、貴族が着るドレスの刺繍に使われた。光り輝く鱗は、装飾品の材料になった。そして何より、その血は、その肉は、不老長寿、万能の薬となった。

 彼女たちは、海から出てくることがなくなった。当然のことだろう。しかし商人たちは血眼で探した。探した末、一人の人魚が海面に顔を出した。慈母のように微笑み、高波にも負けない歌声で商人を誘い、あまりの美しさに惚けた商人へ、口付けをした。舌を噛み、血を滲ませた口付けを。

 最後の人魚は、商人が血を飲み下した瞬間を見て、笑った。それは、まるで、悪魔のように。


 *


 その、少女──アルベルタは、嵐に濡れた服を、暖かな暖炉で乾かしていた。豪奢な作りの応接間は、舶来の織物が敷かれている。一つあるだけで働かずとも暮らせるであろう調度品たちがずらりと並んでいた。石造の壁は厚く、嵐の雨音も聞こえない。まるで箱庭の天国のようだった。

 かたりかたりと体を震わせるアルベルタへ、館の主人がティーカップを差し出した。金に縁どられ、花の模様が繊細に描かれたそれは、一目で高級品だとわかる。中には湯気を立てる紅茶が赤く揺らめいており、同時にシュガーポットとミルクピッチャーが隣に置かれた。

「こんな嵐の日に、災難だったね。森で迷ってしまうなんて」

「ええ……けれど、貴方様の……ハンス様のお陰で、助かりました」

「いいや、気にすることはない」

 館の主人、ハンスは鷹揚に答えた。アルベルタは何かを言いたげに目線を彷徨わせている。ハンスはそれを察して、はっは、と豪快に笑った。

「意外に思っているんだろう。まさか、異形館の偏屈主人が、人間に優しくするなんて、と」

 アルベルタはぎくりと肩を強張らせた。否定はしない。図星であった。この館は、この主人は有名なのだ。曰く、黒魔術に没頭している。曰く、幻想生物にしか興味がない。曰く、人魚を探し求めている。どれも、いい噂でないことは確かだ。

「確かに、人間に興味はないさ。けれど今にも凍えて死んでしまいそうな少女を見捨てるほど薄情ではないよ」

「……ええ、そのようですね」

 やっと、そのように、中身のないありきたりな返事をすることができた。本来であれば、アルベルタはハンスのような身分の者と対等に話せはしないのだ。今こうしていられているのは、ハンスが変人であるが故だろう。

 せっかく出されたものだ。飲まねば不作法になろう、と紅茶に手をつける。まず、香りを嗅いだ。腐臭や、泥水とは比較にならない、今までにない、豊かな香りがする。恐る恐る、一口飲んでみた。暖かい。美味しい。

 視線を感じる。はっとしてハンスを見ると、穏やかにこちらを見つめて、砂糖とミルクを勧めた。試しに、砂糖を一つ入れてみる。ティースプーンでくるくると回す。ミルクピッチャーを傾けて、赤色が白く濁っていくのを見つめる。ハンスの視線に刺されたまま、気を紛らわせるようにかき混ぜた。一口、飲む。甘い。まろやかだ。これは、世界で一番の、幸福の味だ。そう思った。

 アルベルタがティーカップを置いたあたりで、ハンスが切り出す。

「それで、どうしてこんな森の中に? この辺りは、僕の屋敷しかないだろう」

「……いいえ、貴方様に御用がありました」

「ほう?」

 そうだ。アルベルタは無意味に森へ入り、偶然招かれたのではない。全ては必然だった。人魚を追うために、人魚伝説を追うためには、この男の存在が有用だった。

 アルベルタは、人魚のことを知る必要があった。人魚伝説を調べる必要があった。であるから、異形館とも呼ばれる屋敷の主人に取り入るほかないのだ。

「ここで、働かせていただけませんか」

「……ということは、知っているんだね? うちの使用人が、逃げたばかりだということを」

「はい」

「それでもいいのかい? どうやら、僕のコレクションは純粋な女性には酷らしい」

「私は、そのために来たのです」

 真っ直ぐに、ハンスを見る。嘘はない。真実だ。だが、打算がある。ハンスは、ふぅむ、と顎髭を摩り、アルベルタへ問いかけた。

「と、言うと?」

「私も、人魚を探しているのです」

 暗に、貴方もそうであろう、と言い含ませる。主人と使用人、という立場でありながら、共謀者になろうとしていた。このようなことは、外では話せない。口に出せない。気狂いだと思われるからだ。人魚は、伝説の、幻の生き物である。そういうことになっている。そうではない、と知っているのは、アルベルタ。それから、ハンスであるはずだ。

 ハンスはしばらく黙っていた。そして、右手を差し出す。

「いいさ。この屋敷は広くてね、掃除も大変なんだそうだ。人手があると助かる。君を歓迎するよ、アルベルタ」

 差し出された右手を、アルベルタは両手で受け取った。ありがとうございます、と頭を伏せる。隠した表情は、見せられない。このように歪に吊り上がった唇を、昏い目を、見せられない。

「顔を上げておくれ、アルベルタ。君の瞳を、僕は気に入ったんだ」

 伊達男のような台詞を吐き、アルベルタのまだ濡れている髪を梳く。夕日を溶かした水面のような髪、若葉より透き通ったペリドットの瞳。アルベルタは奥歯をぎちりと噛み、うっとりとした表情を作り上げた。忌まわしく、悍ましくある髪も瞳も、利用するだけだ、と。

 鏡を見る度に、誰もが見惚れるであろう髪を、宝石より輝くであろう瞳を見る度に、飢えを思い出す。喉が渇く。

 ああ、お腹が空いたな、などと考えながら、アルベルタはハンスの手を握っていた。


 *


 アルベルタは、多くの者がそうであるように、貧しい家庭に生まれた。父親はおらず、病気の母が一人でアルベルタを育てた。貧しい身で病院代も薬代もろくに賄えるはずもなく、町医者に診てもらうことで精一杯だった。アルベルタは物心ついたときから働いていた。その日のご飯を食べるためなら何でもした。病気の母を見捨てられるはずもなく、アルベルタは自分と母の二人を養うために働いた。

 ふと、貧民街の外を見て羨ましくなることは多くあった。鮮やかな色のドレス。焼きたてのパンに、バターをたっぷり使ったお菓子。香油を塗った髪は風に靡いて、ドレスと揃いのリボンが結えられている。あのように生まれていたら。そう思うことは何度もあった。それでもアルベルタはアルベルタの人生から逃れることはできず、泥まみれになって働き、硬いパンを齧るばかり。

 そんな折だった。母の病状が悪化した。呼吸もままならず、やたらに冷たい水を欲しがり、脚ががたがたと震えて立てやしない。なけなしの金を叩いて、医者へ連れて行った。医者は隅々まで母の体を診た後、悲しげに首を振った。それから、言うのだ。これは、遺伝するものかもしれない、と。

 人魚病。そのような病があるのだ、と。


 

 嵐が止んだ翌日から、アルベルタはハンスの屋敷で使用人として働くことになった。もう少し休んでもいい、とハンスは言ったが、大人しくベッドに腰掛けているのは落ち着かなかった。そう言うと、制服と、上等な下着に、寝巻き、使用人用の部屋を与えられた。珍しいことに、個室であった。水だって井戸から汲んでこなくてもいいようになっている。部屋を持て余しているのだとのことだが、屋根があり、椅子があり、机があり、ベッドまである。ベッドには破れてもいないシーツが張られている。随分な好待遇だ。

 アルベルタは初めて風を浴びずに夜を明かした。心地いい眠りから目が覚めると、一人の女性がアルベルタの顔を覗き込んでいた。わあ、と悲鳴を上げて飛び上がる。

「あんたが、新しい使用人の子?」

 語調のきつい聞き方だ。声もなく、首肯する。すると、シーツを引き剥がされ、ベッドから落とされた。思わず尻餅をつく。そのまま寝巻きまで脱がされそうになったので、流石に抵抗した。女性は眉を寄せて、吊り目がりの眦をさらに吊り上げる。

「寝こけてる暇はないのよ、新人。あたしはあんたの先輩、ジェーン。ほら、早く起きて、顔を拭いて、着替えて、仕事!」

 女性──ジェーンは容赦なくアルベルタの尻を叩いた。洗面器と共に、上からタオルと制服がばさりとかけられる。紺色のワンピースに白いエプロン、キャップのシンプルなものだ。まさか目の前で着替えろと言うのだろうか、とジェーンの方を見る。出ていく気配はない。見張られながら、洗面器に水を張り、タオルを絞って顔を拭く。まだ出て行かない。仕方なくアルベルタは寝巻きを脱ぎ、下着姿になって服を着替えた。その間も、ずっとジェーンはアルベルタを見ている。否、睨んでいる。まだアルベルタは何もしていない。これが初対面だ。失礼なことも言っていないはずである。ジェーンは特徴のない顔立ちであるが、中々の美人で、美人が意味もわからず怒っていると恐ろしい。アルベルタは怯えながらキャップを被った。支度が整ったところで、ジェーンが目と鼻の先まで顔を寄せた。

「いい? ちょっとハンス様に気に入られたからって、調子に乗らないこと。身を弁えなさい」

 ああ、と納得が行った。要するに、ジェーンはハンスを慕っているのだ。出てきたばかりのアルベルタが「気に入られた」ように見えるのが癪なのだろう。アルベルタはしおらしく見えるように眉を下げ、はい、と頷いた。


「ハンス様は、自分は貴族ではなく、財産があるだけだからと気取られないの。食事だって使用人には勿体無いものを与えてくださるし、休暇だって自由に取らせてくださる。でも、私たちは所詮使用人。あなたみたいな、いかにも貧民街育ちの子はすぐに舞い上がっちゃうから嫌になるったら、もう」

 ジェーンは仕事を教える傍ら、絶え間なくお喋りをしていた。他にも使用人が数名いるようだが、まだ顔を合わせていない。女性陣はジェーンとアルベルタの二人だけだということもお喋りの中で聞いた。アルベルタたちの主な仕事は洗濯に掃除、買い出しになるらしい。ジェーンの細腕では、女一人ではこの大きな屋敷を磨き上げることは難しいだろう。そう思っていたが、ジェーンは仕事が丁寧かつ早かった。アルベルタが階段の一段目を掃いている間に、手すりを全部磨いている。シーツを一枚干している間に、他の衣類を干し終わっている。呆気に取られていると、金貨の入った袋を渡された。

「後はあたしがやるから、あんたは買い出しに行って。これ、メモね」

 買い出しリストを渡され、あれよという間に追い出される。口調や態度はきついところがあったが、仕事ができて、面倒見がいい。ジェーンはそのような女性のようだ。



 母が眠ったのを確認し、一人になると、途端に不安が押し寄せた。定められた絶望に抗えるほどいい人生ではなかった。人魚病とは、と医者が説明してくれたが、耳に入ったようで入っていない。曰く、人魚の呪いなのだと、初めに呪われた者から受け継がれていった病なのだと言う。どうして子を成してしまったのか、と初めの者を恨みたくなる。それが遺伝するものということも、不治の病であることも、最近になってわかったものだと医者は語ったが、恐らく貴族が罹っていないものだからそうなったのだろう。下々の人間には金もかけられない。情けもない。そういった仕組みになっているのだ。

 いい人生ではない。けれども、死にたくはない。母のように弱り、苦しみ、死を待つだけの体になりたくはない。本当ならば、とびきりおしゃれをしてみたかった。食べきれないほどのご馳走を食べたかった。見たことのない景色を見たかった。恋だってしたかった。誰かに愛されてみたかったし、誰かを熱烈に愛したかった。それも、死んでしまっては希望すら抱けない。

 行くあてもなくふらふらと家を出て歩き、海辺に辿り着く。水面の鏡が映すのは、見窄らしい、生気のない己の顔。ぱたり、ぱたりと雫が落ちて水面を揺らす。わあ、と声を上げて泣くこともできなかった。疲れていたのだ。こんな徒労の末、待ち受けるのが死の病だった。泣きじゃくる力も残っていなかった。

 どれほどそうしていただろう。頬も涙の跡で引き攣れて乾いた頃に、静かに、けれど確かに何かが泳ぎ寄ってきた。ざぶん、ざぶん。ちゃぷ、ちゃぷ。海の奥に見える影は次第に大きくなっていき、そして、顔を出す。

 思わず、目を奪われた。太陽より燃える髪が、月明かりに照らされて、水滴を反射して、煌めいている。長い睫毛に縁取られた瞳は、萌えた葉の色をしている。真珠のように白い肌は形のいい貝殻を纏って、高価なレースに細やかな刺繍を施したような鰭が海面から覗いていた。

 人魚だ。正真正銘、本物の、人魚だ。この街に棲むという、御伽話では有名な、けれど御伽話でしかない存在がそこにいた。目を、合わせる。あまりにも綺麗な瞳だったから、見つめられることに耐えられす、逸らす。すると、人魚はどの小鳥よりも軽やかで美しい声をして、言った。

「貴女、綺麗ね」

 アルベルタは、驚いた。自分の声ではない。人魚の声だ。けれど、それはアルベルタが言うべき台詞であった。目を見開いて、思わず返事をする。

「何処が? こんな、髪も瞳も、燃え尽きた灰の色をしているのに。煤けて、ほつれているのに」

「いいえ、貴女の色は、世界が真夜中になっても変わらない、素敵な色だわ。暗い暗い闇の中でも、見つけられる」

 それは、アルベルタが生まれて初めて受けた祝福だった。人魚の純粋で純真な言葉は、嘘がない。裏切りがない。きっと、単純なことだった。些細なことだった。それでも、生まれた意味すらわからなかったアルベルタを心の底から肯定してくれたのは、この人魚が初めてだった。アルベルタは目尻に残った涙を拭い、水に濡れることも厭わず人魚に近づく。至近距離で見る人魚は神様が特別に作った芸術品のようだった。そうであるから、アルベルタの特別になったことも当然だろう。

「本当に、そう思う?」

「ええ。私、たまにこうして、宝物を探すのが好きなの。貴女は今日見つけた宝物。今までの何よりも綺麗!」

 人魚は、アルベルタの特別になった。そして、人魚もまたアルベルタを特別にした。アルベルタの胸は歓喜していた。これが、生まれた意味なのだとすら思った。誰だって、誰かにとっての一等大事な宝物になりたいのだ。宝箱に入れられて、大切にされたいのだ。アルベルタはその喜びを知った。血の気のなかった頬が色づいていく。世界が明るく見える。今日、この夜、人魚に出会ったのは偶然ではない。運命だった。

「ねえ、私たち、お友達になれない?」

 人魚は無垢にそう誘う。害意も悪意も、飢えも貧しさも知らぬ瞳で、アルベルタを見つめる。醜い感情は抱かなかった。この綺麗な存在は傷がないからこそ綺麗なのだ。差し伸べられた手を固く握って、アルベルタは頷く。

 そして、薬毒じみた高揚から突き落とされた。

「嬉しい! 陸のお友達が『二人も』できるなんて。ああ、あの人にも教えてあげなくっちゃ」

 人魚は語る。目尻を、頬を、薔薇色に染めて。恋に蕩けた瞳をして。それは、死への恐怖より、アルベルタの胸を切り裂いた。



 買い出しから戻り、屋敷の門を潜る。すると、何かにぶつかった。人だ。よもや主人に粗相をしてしまったかと慌てて頭を下げると、見知らぬ男がそこにいた。枯葉色の短い髪をした、若い男だ。しばらく互いに無言でいると、男が、ああ、と思い至ったかのように声を上げた。

「お前があの新人か。俺はキード。この屋敷の料理番をしてる」

「は、初めまして。アルベルタ、です」

 ジェーンの他にもいる使用人らしい。軽く紹介をしてくれてもよかったものを、ジェーンは何やら言いにくそうにしていたのでこれが初対面だ。気さくな、人の良さそうな青年である。ジェーンが口籠っていた理由がわからないが、使用人同士仲良くしておいて損はないだろう。挨拶と自己紹介を済ませると、キードはアルベルタが抱えていた荷物を軽々と持ち上げた。礼を述べながら、裏口からキッチンへ入る。荷物の仕分けを手伝おうとしたが、キッチンは彼の領域のようで、てきぱきと棚に調味料や食材をしまっていくのを見ているしかできなかった。

 一通り片付け終え、キードが振り向く。

「丁度昼時だ。腹減っただろ? ハンス様の食事は出し終わったから、俺たちも飯にしよう。ジェーンも呼んでくれ」

「はい、ありがとうございます。けど、私は少しで大丈夫です」

「何だ、新人だからって遠慮してんのか?」

「いいえ、そうではなくて……」

 買い出しの途中、どうにも空腹が収まらなかったので、食事をしたのだ。人気のない森の中で、いきのいい、若い果実を食べた。滴る果汁まで飲み干して、腹を満たした。その旨を伝えると、キードは愉快そうに笑った。

「やるなあ。初仕事でつまみ食いとは。わかった、お前のは少なめにしとくよ」

 フライパンを出し、調理に取り掛かるキードの背後を横切って、キッチンを出た。扉を閉めてから、裾の匂いを嗅ぐ。買ってきた香辛料の香りしかしないことに安堵し、アルベルタはジェーンを呼びに駆け出した。



 母が死んだ。最後まで冷たい水を飲みたいと呻いていた。足はすっかり動かず、ボロ布を纏って泳ぐばかりだった。貧民は、肉親の死を嘆く暇もない。死体が腐らないうちに焼却場まで運ばなくてはならないのだ。そう理解していても、なかなか動けないでいた。精神的な理由もある。だが、肉体的な理由もあった。足が、思うように動かない。そして、異様に喉が渇く。水が飲みたい。冷たい水が。それが意味することを、アルベルタは知っていた。人魚病だ。人魚病に、罹ったのだ。そうすればどうなるかは、目の前の物言わぬ母が語っている。

 自分も、ああなる。自由に歩くこともできず、水ばかりを欲しがり、それを与えてくれる誰かもおらず、渇きも癒えることなく、哀れに、惨めに死ぬ。そんな最期が、決まっていた。到底受け入れることはできない。しかし、それ以外に結末はない。アルベルタは、そのように死ぬほかない。

 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。泣いて、暴れ出したい気分だった。当たり散らして、嘆いて、叫びたかった。そうしても何にもならないことを知っている。妙に冷静な自分がいるのだ。可哀想なアルベルタ。こんな、欠けた器で生まれて、注がれる僅かな幸福すらも取りこぼして、満ちることを知らぬまま朽ちる。それが運命だった、と。奇跡も起きない。誰も助けてはくれない。眼前が暗闇に包まれた。

 闇。黒。色のない世界。ああ、そういえば、そんな世界でも私の色を見つけられると言った誰かがいた。

 冷静な自分がいる。冷徹な自分がいる。冷酷で、残酷な自分が、いた。

 彼女ならば、自分を見つけてくれるだろう。探す手間が省ける。死が待っている。けれど、死にたくない。では、どうすればいいか。死を回避する方法がある。不死になる方法がある。それがあるならば、そうしよう。どうせ、アルベルタには道がないのだから。

 アルベルタは母を床に寝かせ、錆びたナイフを手に取り、歩き出した。揺らぐことなく、真っ直ぐに、彼女の元へと。狂い出したのか、元から狂っていたのか、わからない。後者であればありがたい。初めからまともな人間ではなかったのなら、これから怪物になろうともさして変わりはないだろうから。



 三人でテーブルを囲み食事をした。無論主人に出す食事より質素なものではあるが、既に腹を満たしていた自分には十分だった。それに、貧民街で暮らしていた頃よりずっと豪華である。黴のないパンに、味のあるスープ。果物まで。舌が痺れるほど美味だった。料理人であるキードの腕前もあるだろう。少なめで、と申し出た手前恥ずかしいが、次から次へと平らげてしまった。その様子を見て、キードが笑う。

「何だ、よく食べるじゃないか。お代わりはいるか?」

「い、いいえ……大丈夫です」

「本当に? それだけで足りるの?」

 横からジェーンが聞いた。心配そうに眉を下げている。やはり面倒見のいい女性のようだ。ジェーンの半分ほどの量で足りるのかとずっと心配そうにしていた。

「森で、果物を少々頂いたので」

「まっ。あんた、意外と図太いわね。でも、それならいいわ。またお腹が空いたらキードに言いなさい」

「はい。ありがとうございます。キードさんも、ご馳走様でした」

「おう、お粗末さん」

 キードは歯を見せて笑い、それから、大きな欠伸をした。瞬間、ジェーンの表情が強張る。その様子を、不思議に思った。ジェーンはハンスを敬愛している上に、規律に厳しい。主人の前で使用人がそのような仕草をしていたら、怒るだろう。だが、そうではない。ここには使用人しかおらず、ジェーンの感情も怒りより怯えに近かった。それを問う暇もなく、ジェーンが追い立てられるように席を立つ。

「ご馳走様。私は、もう行くわ。あなたも着いてきなさい」

「え? は、はい」

「もう行くのか? じゃあ、俺は仮眠でも取るかな」

 キードは何も感じていないのか、ごく普通の態度でジェーンとアルベルタを見送った。振り返り小さく頭を下げる。その時間すら惜しい、と言わんばかりにジェーンはアルベルタの手を強く引いてキッチンから逃げ出した。

 小走りで逃げた先の、廊下の隅で止まる。ジェーンはほっと一息吐いて、手を離した。

「あの……」

「いいわ。聞きたいことはわかってる。あのね、キードはいいのよ。取り立てて言うことのない男というか、可もなく不可もなく、一般的な、普通の……でも、あいつはだめ。ジルハはだめなのよ」

 本人が聞いたら困ったように笑いそうな悪口が挟まれていた気がするが、それはさておき。ジルハ、というのは、誰だろうか。もう一人の使用人なのだろう、と予測はつくが、関連性が見えない。未だピンと来ていないアルベルタに詰め寄り、ジェーンはさも恐ろしげに語った。

「ジルハは、キードの別人格。一見温厚そうに見えるけど、気が狂ってるわ。なるべくなら、関わりたくないの」

 アルベルタは、目をぱちくりとさせた。純粋に驚いたこともある。そのような人間を雇うなど、ハンスは変わり者なのか寛容なのか判別つかないと思うこともある。やや残念に思う気持ちもある。ジェーンがそれほど怯える人物とは一体どのような男なのだろうと考える。ジェーンとしてはアルベルタに忠告しているのだろうが、気が狂っている、と聞いても、特段思うことはなかった。そうなのか、と流す程度である。

 アルベルタがそのようであるから、ジェーンは加えてジルハについて語った。

「あいつに会ったら、拍子抜けするでしょうね。何だ、普通じゃないか、って。でも私にはわかるの。あいつの本性は、猟奇的で、残忍。この世の何にも関心がない。それでいて、狂ったように何かを信仰してる」

 それでも、アルベルタはふうんと聞き流すだけだった。二重人格である。即ち、一人分である。ならば、アルベルタの方も関心がない。曖昧に頷くだけのアルベルタに、ジェーンはやきもきしているようだった。



 呆気ないものだった。海辺にアルベルタを見つけて、人魚は嬉しそうに近づいた。その胸を、ナイフで貫く。人魚が人間と同じように死んでくれるのかわからなかったので、何度も刺す。人魚は悲鳴を上げる。

 痛い、何で、やめて、どうして。それに、アルベルタはこう答えた。

「だって、一番で唯一の特別じゃなきゃ、意味がないじゃない。貴女にも、私にも」

 ナイフを振り上げるたび、付いた血が振り落とされ、海に、浜に落ちる。悲鳴は次第に言葉にならなくなり、ぁ、ぁ、と意味のないものになっていった。それも、消えていく。泡のように。人魚の目が見開かれ、動かなくなった。あれほど美しかった瞳も濁り光を映さない。こんなものか、とナイフを海に投げ捨て、死体を海から引き上げる。

 アルベルタの体を蝕むのは、人魚の呪いだ。ならば、人魚を薬にするのが道理だろう。血肉は万病の薬。不老不死の秘薬。それ喰らえば、死なずに済むに違いない。短絡的で、安直な考えだった。アルベルタは必死に人魚だったものを食べた。初めに目玉を抉り出した。口に入れ、噛み、飲み込む。とても食べられたものではない。ぶにゅり、と気味の悪い感覚が消えそうにない。だが、手を止めず肉を食う。血を啜る。永遠のようだった渇きがなくなっていくのを感じた。成功だ、そう確信したアルベルタは時に笑顔を浮かべながら人魚を食べた。

 無惨な食い残しがあるところで流石に満腹になった。ふう、と口元の血を、脂を拭う。

 仕方がなかった、と呟く。だって、だって、欲しかったものをちらつかせたくせに、くれなかった。死にたくなかった。幾重にも理由があった。だから、仕方がなく、こうした。

 血塗れの手や顔を海水で洗い流す。水鏡を覗き込んで、気が付いた。髪の色が、目の色が、彼女そっくりになっている。尚のこと、アルベルタは思った。仕方がなかった。正しかった。何も、問題はない。何故なら、彼女は自分の中にいる。二人は、一つになった。それは、とても喜ばしいことだ。

 浮き足だって、ステップを踏みながら海を去る。これで、大丈夫だ。安心だ。安全だ。アルベルタを苦しめるものはない。月明かりも、アルベルタを祝福しているようだった。

 その影、その裏で。捨てられたナイフを拾う誰かがいたことには気が付かなかった。



「君が新しい子?」

 最近知ったばかりの声だ。それと同じだった。しかし、違う、と思わされた。気さくなようでいて、不信感も、疑念も、無関心さも全てある。振り向くと、そこにいたのはキード……ではないのだろう。ジェーンの語った、ジルハだ。顔立ちは同じであるのに、面持ちは彼とは違う。ジェーンが言うには拍子抜けするだろうとのことだったが、ジルハはアルベルタに対し取り繕う様子も見せていない。君を疑っている、君を信じていない、と、言外に匂わせている。

 この男がそのような態度を見せる理由は不明だったが、ひとまず差し支えのない返答をした。

「はい。アルベルタ、と言います。よろしくお願いします」

「僕はジルハ。ああ、でも話は聞いてるよね?」

「……ええ、まあ」

 嘘を言う必要はない。それに、誤魔化したとして見透かされただろう。ジルハは愉快そうに笑って、聞いてもいないのにぺらぺらと喋り出した。

「彼女は僕を嫌っているようだけどね、本当に狂っているのは副人格……キードの方さ。何せ、自分が副人格だと認めたくなくて、二重人格ではなく双子なんだと言い張ってる。君も、あまり副人格の言うことを鵜呑みにしないでね」

 ジルハは言い慣れたようにそう語った。アルベルタにはキードが狂っているようには見えなかったが、狂人というのはそのようなものなのだろうか。どちらかと言えば、ジルハの方が胡散臭い。アルベルタとしては本当は双子である、という説を信じたいところだが、何を信じたところで真実は変わらない。

 ジルハはアルベルタと仲良くするつもりはなさそうだ。アルベルタとて、ジルハに興味があるわけではない。そういった者同士で顔を合わせていても無駄だろう。足早に去ろうとするアルベルタの背中に、いつまでも視線が纏わりついていた。


 今日は食事をしたために、まだ腹は保つだろう。しかしいつかは空腹が訪れる。飢餓感に襲われる日が来る。まだ食料はありそうだが、油断をしては気が変になりそうなほどの飢えがアルベルタを蝕む。その前に、それより早く、見つけなければならない。呪いの正体。人魚伝説の真相。人魚が持つ力。だからこそ、この異形館に来たのだ。どうやらハンスはアルベルタのことを悪く思っていないようであるから、利用できるものならば利用させてもらおう。愛であれ、恋であれ、情であれ。それがどの色をしていても、アルベルタには躊躇いがない。切り捨てることも、甘い汁だけを啜って捨てることにも。

 思うに、アルベルタは人魚を食べた日に生まれ変わったのだ。新しい自分は、叶わない希望に想いを馳せるなど不毛なことはしない。暗い闇しかない未来に絶望などしない。己の欲は己で叶えるものだ。己を満たせるのは己だけだ。であるから、それを邪魔する存在は排除する他ない。だって、それは、アルベルタに要らないものであるから。不必要なものは捨てる。簡単なことだ。貧民街でも慣れ親しんだ行為だ。ゴミは、ゴミ捨て場に。死体は、焼却場に。そう、当たり前のことをするだけ。

 正しく、当然で、健全な生を全うしている。

 アルベルタの行く道は明るく照らされている。

 それを疑うことなく、アルベルタは足取りも軽く館へと戻っていった。



 人魚を見ることは珍しいことである。しかし、アルベルタは人生で二人目の人魚を見た。流石に目を丸くし、驚いた。わあ、と歓声をあげ、近寄った。無邪気に、無垢に。美しい髪、人形のように整った顔立ち、小鳥の囀りより可憐な声。しかしそれらを憎悪に濡らし、その人魚はナイフを掲げて言った。

「これに覚えはあるか」

 はて、と首を傾げる。相手が人魚であれ人間であれ、初対面の者への第一声として相応しい台詞ではない。それに加え、ナイフにも覚えがない。覚えがない、というより、あまりにもありふれたものであるから、特別記憶に残るものでもなかった。アルベルタの返答を待たず、人魚は叫ぶ。怒りを乗せて。不慣れに、喉奥を尖らせながら。

「あの子を、殺しただろう。あの子を、食べただろう」

 それで、そうやっと得心がいった。それならば、覚えがある。怒りにも、恨みにも頷ける。さりとて、それらはアルベルタに罪悪感を抱かせることはなかった。仕方のなかったことであるから。アルベルタにとって、正しい行いであったから。それが人魚にとっての災いでも、それを礎にアルベルタの幸福は成り立っているから。

 人魚は、一つ、二つ、息を呑んだ。燃え盛る怒りの炎を揺らがせ、痞えながら言葉を紡ぐ。可憐な声を引きちぎりながら、呪う。

「愚かな人間め! 哀れな人間め! 分不相応な願いは、大きな代償を生む! 満たされぬ飢えに怯えるがいい。恐ろしい欲に躊躇うがいい。不死でありたくば、共食いをしろ! それ以外ではお前の飢えは満たされない! そうして共食いをしたお前は、化け物に成り果てるのだ!」

 人魚は、高らかに笑った。泣きじゃくるように笑った。最後にアルベルタを強く睨んで、波と共に消えた。

 ぽつんと、一人取り残されたアルベルタは、可笑しくて声を上げた。大きな代償と言った。恐ろしい欲と言った。挙げ句の果てに、化け物になるのだ、と。そんなことが、何だと言うのだろう。

 ただ、人間を食べればいいだけの話ではないか。この街では、人が死なないことがない。焼却場には山のように死体がある。おまけに管理も杜撰だ。つまり、飢えることなどあり得ない。死なずいるためには食べるしかない。至極当然のことだ。

 そう、考えて、ふと腹を撫でた。空腹を感じている。それならば、早速腹を満たそうではないか。生きるために。死なずいるために。

「子供はあるかしら。骨ばかりは嫌だわ。柔らかい肉がいいもの」

 アルベルタは、歌うように独り言を呟きながら、焼却場へと急いだ。何せ、選び放題、食べ放題のディナーなど生まれて初めてであったからだ。

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