03話『アウフヘーベン』-1
「フェアリーサークル?」
雨の降った深夜、鬱蒼と茂った深く静かな森。
夜露に濡れた舞台で透き通る羽根の妖精たちの宴は続く。
わずかに零れる月明かりの下で天からの恵みを喜び踊る。
その跡が円状になって、人はそれを妖精の輪と呼んだ。
「鬱蒼と茂った森に月明かりが見えるわけないでしょう?」
そこじゃない。
このアンチロマンチストお嬢様め。
思いついた一番の悪態を、『目の前で静かに紅茶をたしなんでおられる金の髪の貴族様』に心の中でついてはみるが、僕は口を閉ざしていた。
「まあ、魔女の集会所であるという考えもあって魔女の輪と呼ばれるのが一般的じゃないかな」
横から言葉を出したのは、さっきからチョコレートを頬張り続けている少年。
身長も年齢もまだまだ低いのに、横の太さだけは僕以上にある眼鏡をかけた幼馴染みだ。
「そう、この子が幼馴染みね。精神年齢的な幼馴染みかしら」
先輩は少し考えたようにしてはいるが、多分全く何も考えていないようなことを言う。
「ロルフ、それはお兄ちゃんにあげたものでしょ? ロルフのチョコはちゃんと用意しているんだから自分のを食べなきゃダメよ」
キッチンからポットを運んできたもう一人の幼馴染みが優しく語り掛ける。
「だぁーって、だって! 兄ちゃん全然手を出さないよ!」
「いいです、大丈夫です。ロルフの好きなように」
狭いアパートに四人。
ようやく全てから解放されたはずの年末への連休は僕に安息の時間を与えてくれはしなかった。
「でも、お兄ちゃんに大学で彼女が出来たなんて少し安心しているの。群れを出ても外で家族ができるなんて」
「この人は彼女じゃないです。ただの大学の先輩で、僕が狼種族と知っているだけです。イルザさんも出てきて怒られませんでしたか?」
お兄ちゃんと呼ばれてはいるが、彼女の方が一つ年上だ。
「大丈夫よ。いくらお兄ちゃんが群れを飛び出したからって、家族関係が無になるわけではないもの。家族に会いに行くのに怒られることはないと思うから」
思うってことは、無断か。
「幼馴染みなのに家族?」
先輩は僕とイルザさんの会話に疑問を持ったらしく呟く。
「だいたい貴方、幼馴染みの女の子は一つ年上と言ってたわよね? お兄ちゃんって呼ばせてるのはおかしくないかしら」
「そういえば、貴女のお名前を聞いていませんでしたね。わたしはイルザ・ステイマーと申します。狼種族の長の娘です」
「よろしく、イルザ。私はリース。リース・リアーネ。誇り高き女王の国の貴族よ」
灰の髪、紫の瞳のイルザさんは静かな動きで先輩の空になったカップを下げて新しい紅茶を出した。
「イルザの紅茶は美味しいわ。長の娘だけあって」
紅茶は最初に僕がいれたけど、不味いの一言で泣きながら自分で飲んだことがもう過去の出来事のようだ。ほんの三十分前だけど。
「僕は群れの今の世代の中で最初に生まれた男なんです。群れというのは大きな家族のようなもの。だから群れの中ではお兄ちゃんと呼ばれてますね。といっても結局僕らの世代ではこの三人しか生まれませんでした」
「ということは貴方とイルザが次世代の種の存続を担うのかしら」
「いいえ、イルザさんには婚約者がいます」
イルザさんは優しく笑い、先輩に写真を見せた。
赤毛の少年と二人で立っている写真は本当に恋人のように見える。
「へえ、この子もオオカミ? でも貴方と違ってみんな耳も尻尾もないのね」
「それが、僕が出来損ないとされてる所以でもあります」
僕は自分の耳に触れた。
柔らかくつややかな毛並みと、良く聴こえる耳は自慢でもあり、残念なところでもある。
「狼種族といえど、基本的には外見は人間と同じなんです。むしろ狼のような尻尾や耳があれば『狼種族の忌み子』と呼ばれ、退化、出来損ない、災いを招くなんて言われてだいたいは生まれてすぐに殺されてしまうそうです。僕の場合は最初の男でもあり、その後群れの規模が小さくて新たな子が見込めないから死を免れた感じですね」
「案外ダークね」
先輩はさらりと言い、また写真を見た。
「本当にこっちの赤毛は狼なの?」
「いいえ、ヴァンパイアです。両親は何故かわたしが幼い頃から婚約者はヴァンパイアにするようにと言っていたんです」
ふーんと先輩は写真をイルザさんに返した。
「ヴァンパイアは敵だもん、嫌いー。でもこいつは嫌いじゃない」
空になったチョコの皿をふくれっ面で見つめながらロルフは机を叩く。全体重でもかけているのか一打ごとに床が揺れた。
アパートの二階だが、階下に人が住んでいないことだけが幸いだ。
「狼とヴァンパイアは犬猿の仲と言うものね。それなのになぜかしら」
先輩は少し首をひねっていたが、まあ今はどうでも良いわと思考を放り投げた。
「それよりロルフ、フェアリーサークルがどうしたのかしら?」
さっきロルフが呟いたその言葉を再び先輩が口に出す。
何かに興味を示し始めた先輩ほど厄介な物はない。
僕は「あーあ、レポートやらなきゃ」なんてわざと声に出して机の上の本を開いた。
まあもちろん僕のことは無視して話が進められるわけだけど。
「ここから近い森でかなり大きなフェアリーサークルが出現したって話題になってて。俺の学校でも妖精が本当にいたんだとか、魔女の集会だとか騒がしいんだ。ただの自然現象なのに」
ロルフの言葉に先輩は反応する。
「自然現象?」
「そうだよ、知らないの? フェアリーサークル、ヘクセンリングなんて呼ばれてる菌輪はただの自然現象だよ。これはキノコが地面に円を描くように並んで生えてるんだけど、地中で放射状に伸びた菌糸が――。菌糸くらい分かるよね?」
「知識自慢はいいから説明をしなさい。体型だけじゃなく態度まで全く可愛くない子ね」
先輩の言葉にロルフはふてくされ、もういいやと横になった。
「ごめんなさい、ロルフはすぐにへそを曲げてしまう子で。甘やかせてしまったわたしにも問題があるんです」
イルザさんはほらロルフ、と少しだけ、本当にほんの少しだけ言葉を強くロルフを起こした。
と言っても先輩の言い方にもずいぶん問題があると思うけど。
「菌糸っていうのはキノコなんかを構成してる糸。それが見えない地中で放射状に伸びて中心部分は死滅する。残った周りにキノコが生えてほら出来上がり。全然ファンタジーでもなんでもないし、妖精とか笑える」
「体型も存在もファンタジーのくせに何言ってるのかしら」
先輩はロルフに冷ややかに言い、また少し物思いにふけっていた。
まただ。
この流れは絶対に良くないことが起こるに決まってる。
「あ、僕、ちょっと買い出しに」
「成り立ちはまあ分かったわ。放射状に伸びた後にサークルができるのね。確かに自然現象だけれど」
だけれど、とかもうそれ以上聞きたくない。
ロルフやイルザさんを見ると先輩の言葉に耳を傾けている。
「妖精が踊ったからサークルが出来たのではないとしても、じゃあその自然現象を舞台に妖精が踊らないなんて誰が決めたのかしら?」
言い切ってからいつもの笑顔を僕に向けてきた。
「確かめに行くわよ」
休日なんて名前だけなんだ、きっと。
誰にでもある権利じゃないんだ。