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第3部 ②



 古谷中尉は、商船学校を出て海軍に入った。ぼくに先立つこと四年も前のことだ。飛行経験の方はやはりぼくより三年ほど長く、そして戦闘機乗り、ひいては戦闘機隊指揮官としての経験と実績もまた、ぼくよりも遥かに上だった。


 中尉の乗機の垂直尾翼に描かれた「八重桜」―――撃墜マークは、すでに二〇を越えていた。


 「どうだ……!」


 と言わんばかりの表情で、中尉は驚くぼくらの反応に満足したものだ。主脚の根元に凭れるようにして中尉は微笑んだ。気取った素振りではあったが、変に自慢する風でもなく、子供っぽい茶目っ気を感じさせる。


 「俺は船乗りになるはずだった……」


 というのが中尉の口癖だった。


 「船乗りになって、世界各地のありとあらゆる美女の尻を追い掛け回すのが俺の夢だった。だが……今じゃあ俺は、空の上で●○×やチ●○●ロ(中国人の蔑称)の戦闘機の汚ねえケツばかし追い掛けてる。最初は面白かったが、最近あることに気付いて全くつまらなくなった」


 「あること……?」


 「戦闘機を操縦しているやつは……女じゃない。皆男だってことさ。俺にはそういう趣味はないからな」


 皆はどっと笑った。その和やかな笑いから、彼が部下から相応の信頼と敬意を得ていることをぼくは確信する。


 話の腰を折ることに不安を持ちながらも、ぼくは発言を求める。


 「あのう……戦況は今どうなっているのでありましょうか?」


 「戦況だぁ……?」


 中尉は、ぼくを睨み付けた。取って食われそうなその迫力に、仰け反りそうになるぼくの反応を十分に確かめた後で、彼はニヤリと笑った。


 「どちらとも言えんね。今俺らがやってるのは半島南岸への『斬り込み』だ。海峡を越えてしょっちゅう手を出しには行くが、最近は滅多に飛んでいる敵さんには会わん。上からの温存命令が徹底しているんだろう。だが、俺らのアシが届かん京城や金浦、さらに北の平壌には、北からやってきた戦闘機やでっかいやつ(爆撃機)が続々と集結しているらしい……そろそろ(敵の攻勢が)始まるだろう。


 大きな空戦は……去年陸さんが一辺やったきりじゃねえかな……その次が、今年の一月に釜山上空で一度俺らがやったな。俺らは二機墜とされて六機墜としたが、陸さんの方は散々な負け戦だったらしい。


 貴様らも横空で教えられたと思うが、敵さんは滅多にコチラの手に乗ってこなくなった。要するに、お前らが一番やりたいと思っている格闘戦にお目にかかる機会はもう殆どない。その空戦自体、小競り合い程度にしかやってないんだ。もしやったとしても前みたいに一方的な勝ちはもうない。だから皆慎重になる。


 大体、海軍うちはこっちよりでかい編隊にカチ合ったら逃げるよう言われてるのに空戦なんて起こるわけが無いだろう。捕虜の話じゃあ、向こうもそう命令されているそうだ。お互い様さ。陸さんは攻撃精神が足りんと海軍うちのお偉いさんをどやし付けてるそうだが。できないもんはできねえ。


 その陸さんは対馬より北には滅多に行かねえ。なんてったって……あいつら方向音痴だからな。何時の事かは忘れたが、築城と間違えて釜山に着陸しちまった馬鹿もいたみたいだし……」


 その話は大村航空隊に赴任し立ての頃に聞いたことがあった。対馬上空の哨戒に出た陸軍の九五戦が、折からの悪天候で機位を失い、そのとき前方に現れた巨大な黒雲を発見。それを目印に飛んだところに陸地を見出した。


 だが、九州上空に到達したと考え、安堵した操縦士が滑り込んだ飛行場は、こともあろうに釜山だったのだ。


 「搭乗員はどうなったのでありますか?」


 「さあ、知らん」


 一説に拠れば捕虜になったとも言うし、自決したとも言う。ただ、このことに関しては後述することとして、その頃から皆が知っていたのは、敵軍に囚われれば「死ぬよりも辛い目に遭う」ということだった。


 「貴様らもこういう目に遭わん様に、航法の訓練は真面目にやっとけよ」


 教官は、この話をよく聞かせてくれてはぼくらを脅し上げ、ハッパをかけた。これは実話ではなく、航法を軽視する者に対する訓話めいた作り話だと言う者もいたが、少なくとも、多くの新人に訓練に熱を入れるカンフル剤的な効果を果たしたことは確かである。


 「ああそうだった……少尉たちは台湾で『斬り込み』をやったことがあるんだったなあ」


 「はい!」


 ぼくらは揃って返事をした。ガッシリとした顎を撫でながら、中尉は言った。


 「よし!……明日貴様らも『斬り込み』に連れて行ってやろう。当然、行くよな?」


 休日を前に、子供を遊園地にでも連れて行くことを約束するような口調で、中尉は言ったものだ。




 ……果たして、翌日の朝。


 「今日は釜山の予定だったが、大邱までアシを延ばす」


 小学校の講堂を転用した集会所に搭乗員を集め、古谷中尉はそう言った。


 黒板の上に掛けられた朝鮮半島の地図の大きさは、畳一畳分ぐらいはある。地図の各所に点在する、飛行機の機影を模した指標は、これまでの情報収集活動の末に判明した敵飛行場の所在地だ。


 半島南端の釜山からさらに北へ内陸に入ったところに、大邱の飛行場はあった。その位置が、講堂に集る皆を否が応にも緊張させる。任務の概要を説明したところでその様子に気付いたのか、中尉は緊張を解す様に笑った。


 「そう怖がることはないさ。行くのは俺たちだけじゃあない。築城や大分からも一中隊出る」


 もとは小学校の校舎だった宿舎から飛行場までの道程を、トラックの荷台に煽られながらぼくらは行く。その間ぼくらは、ぼくらの進出によって学び舎を移さざるを得なかった小学生達と行き会うのだった。


 「あっ、兵隊さんだ」


 「違うよ、海軍さんの操縦士だよ」


 戦争とはいえ、学び舎を取られて辛いだろうに……子供達は健気にも笑顔で手を振り、ぼくらを迎えてくれる。


 「おいっ……女がいるぞ」


 一人が指差した先に、全員がどっと集った。


 ぼくらの視線の先には、お下げ髪も眩しい女学生の一群。一向に現れない敵機のことなど全く気にしないぼくらでも、女日照りには叶わない。


 荷台から見下ろすむさ苦しい男どもの視線に気付いて赤面し、抗いきれないかのように俯く少女達のうなじが、さらにぼくらの胸の奥を掻き乱すのだった。


 「コラァ! 貴様ら片側に寄るなぁ! 引っくり返るだろうが!」


 助手席に座る先任搭乗員の黒田一空曹が怒鳴った。空のつわもの達も、こう言われてはまったくの形無し、である。




 基地の朝は早い。飛行場では、整備員の手で増槽を搭載された九六艦戦の列線が、ぼくらの到着を今や遅しと待っていた。


 ぼくの「グレートヒェン」を見上げ、古谷中尉は感嘆したように呟く。


 「二号一型か……こいつでまだ飛んでいるとはなあ」


 「自分の恋人であります」


 「恋人……?」


 「ええ……そんなもんです」


 中尉はまた笑った。薄い口髭が、皮肉っぽく歪むのをぼくは見た。


 「大事に乗ってやれよ」


 「はい……!」


 午前一〇時に離陸……中隊は基地上空で編隊を組み、一路北西へと針路を取る。


 高度三〇〇〇を維持したまま壱岐上空に達したとき、先に「斬り込み」を仕掛け、帰投していく隊と擦れ違う。


 「…………?」


 八機で出撃したはずだが、七機しか見えない。残りの機の中にも白煙を噴いているもの、主翼を揺らしながらヨタヨタと飛んでいるものもある。


 これから戦場に向かうのだ……という、忘れかけていた感を強くする。


 『――――古谷より全機へ、各機の間隔を取れ。間も無く半島――――』


 緩やかに上昇を続けた結果、飛び上がったときには森のようにぼくらを取り巻いていた雲雲は既に、遥か眼下にあった。対空砲火を避けるべく、高度は十分に取られている。


 頭がガンガンする。酸欠か……生温い酸素の供給量を増やし、なんとか誤魔化す。酸素マスクは視界を妨げるし、酸素で喉を傷めるのでぼくは余り好きではない。


 計器類に目を凝らす……高度は六〇〇〇m。九六戦のエンジン出力では動きづらい高度だが、迎え撃つ敵もまた、容易に接近できない。

 

 更に飛ぶこと三〇分余り――――薄い雲に遮られた半島の大地をぼくは眺める。敵地上空を飛行するのはこれが初めてではなかったが、この時は不思議な感慨がぼくに湧き起こっていたのだ。


 大陸への架け橋としての半島。八試特偵の偵察飛行によりそのずうっと奥地―――半島北部の狼林山脈、そして大陸東北部は撫順――――に存在するとある施設を上空より撮影した写真は、程なくしてあらゆる報道媒体を通じて公表され、国内世論を激昂させていた。


 その写真とは、強制収容所の全貌だった。


 規則正しく並ぶ矩形の居住区は、周囲を頑強な鉄条網に囲まれ、そこに隣接して各種の工場施設が立ち並んでいる。居住区の中には峻険な鉱山、または荒涼たる採石場に付随するように造られたものもあり、その居住環境の劣悪さは六~七〇〇〇mを隔てた高高度からも容易に想像できた。


 その中に大陸から、そして半島から逃げ遅れ、又は不法に拉致連行された同胞が詰め込まれ、言語に絶する苦しみを味わっている……! それを想像するだけでぼくの胸は痛む。


 それら同胞は、今こうしてともに銀翼を連ね、半島の空を飛んでいる隊員達の親類縁者の中にもいるのだ……!


 彼らの存在こそが、ぼくらがこうして半島上空を飛ぶ理由だった。はるか北辺の地で絶望の中に呻吟し、苦境に喘ぐ同胞に希望を持たせるべく、ぼくらは飛び続ける。


 『――――全機へ、降下、降下せよ。雲の下に出るぞ―――』


 命令一下、一斉に空を滑り落ちるように銀翼を廻らせる九六艦戦。


 同じく降下に転じながら、ぼくは背後を仰ぎ見る。蔡君は?――――ちゃんと付いてきている。


 三〇〇〇……二五〇〇……二〇〇〇。

 急速に下がる高度と著しい加速は、ぼくらを目指す大邱飛行場まで導いてくれる。


 『――――斬り込めっ!』


 言われるまでも無い。

 低空まで舞い降りたぼくは、すでに眼前の軍道を走る一台のトラックを射程に収めていた。


 機を右に滑らせながら、ぼくは機銃の発射把柄を握った。

 吐き出される光弾が曲線を描き、眼前の哀れな目標に突き刺さる。噴出す炎、立ち上る土煙……走っていたところを狙われ、一連射で急激にスピンしたトラックは載せていた荷物を撒き散らし、ぼくの眼前でその鼻先から倉庫に突っ込んだ。


 蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う地上の人々を眺めながら、ぼくは「グレートヒェン」を上昇させた。周囲では列機が上昇と下降を繰り返し、飛行機、格納庫、車両、そして人間……飛行場を構成するありとあらゆるものに射弾を浴びせかけていた。


ぼくの新たな目標は、飛行場の隅に佇む、エンジンカウルを取り外したホークだった。胴体と主翼には、朝鮮空軍所属であることを示す大極のマーク。ぼくが接近してきたのを察したのか、さっきまで飛行機に取り付いていた整備員とも搭乗員とも付かぬ人影が、四方八方、何処かへ駆け出していく。


そうだ、逃げろっ!……地上に対する同情を、ぼくは射撃と共に吐き出した。弾幕の粒が着弾して機の周囲で火花を咲かせ、機の各所からは着弾を示す百雷の如き破片が飛び散った。


 『――――隊長より各機へ、上昇し、敵機の奇襲に備えよ――――』


 攻撃を終えて見上げると、隊長の小隊はすでに飛行場の遥か上方に占位している。


 そのときぼくは思い当る。隊長は自ら上空に残り、敵機の迎撃に備えていたのだ……と。彼がいる位置の方が、下で攻撃に取り掛かっている部下の指揮監督がしやすく、また、味方が危機に陥れば容易に助けを出せる位置に、彼はいる。

 

 『――――任務終了。さあ、家に帰って飯でも食おう―――』


 今から帰路につけば、帰還する頃にはすでに午後一時。昼食を取るには遅い時間だ……そんなことを考えながら、ぼくは二七〇〇まで上昇。隊長の小隊に追従する。

 

 海軍流に言えばホームスピードと言うのだろう、帰路につく編隊の動きが、ことの外速いような感じがする。制空権を握っているとはいえ、敵地奥深くに入り込んだという緊張がぼくにそう思わせたのも知れない。


 そのまま鎮海を抜け、巨済島上空に到達。

 敵地上空にいるという緊張がぼくの胸から抜けかけた一瞬――――


 「…………?」


 はるか前下方。

 眼下の雲の間を蠢く三つの機影に気付いたのは、ぼくだけだった。


 南下するにつれ、それは三機のホークの明確な輪郭を持ってぼくの目に迫って来る。


 敵機……!


 逸る心を抑え、ぼくは三機に目を凝らす。三機は後上方からやってくるぼくらに気付く風でもなく、能天気なまでに雲の間を行ったり来たりしている。


 そのまま真っ直ぐ飛んで墜とすべきか、皆に知らせるべきか……逡巡ののち、ぼくは叫んだ。


 「敵機!……」


 ぼくが言いかけた瞬間、信じられないことが起こった。


 今まで編隊を組んで飛んでいた各機がいきなり四方八方に散らばり、来る筈も無い敵機から逃れるかのように勝手に回避機動を取り始めたのだ。


 唖然とするぼくと蔡君を尻目に急旋回、急上昇、降下を繰り返す各機にぼくらが気を取られる余り、上空の騒がしさに気付いた三機はいち早く遁走したのか、次に目を向けたときには、機影はすでに消えていた。ぼくはといえば、この時初めて自分がとんでもない失敗をしでかした事に気付いたのだ。


 ホームスピードは、一転して重い足取りとなった。






 操る銀翼も重く、ぼくは一番最後に板付に滑り込んだ。先に着陸した搭乗員はすでに指揮所に集合していて、古谷中尉が嶮しい眼つきで面々を睨みつけている。集る隊員たちの背後から、ぼくは忍び込むように足を忍ばせて入った。


 「さあ、話を聞こうか。半島の真っ先でオオカミ少年みてえに叫びやがったのは誰だ?」


 「…………」


 返事は無い……それもまた当然。そして、ぼくには自分を偽る意思も、必要もなかった。ぼくは無言のまま、真っ直ぐに中尉の前に進み出た。その様子を見て取り、中尉は軽く頷いた。


 「ようし、他は解散」


 ドアが閉められ、二人っきりになったところで、中尉は言った。


 「横空で習わなかったか? 敵機を発見した時の手順を言ってみろ」


 その言葉からは、荒々しさはだいぶ消えていた。


 「先ず、敵機の方位を告げ、次に機種、機数を報告すること、であります」


 「判ってるじゃねえか」


 中尉は、ニヤリと笑った。


 「初っ端から『敵機』を使っていいのは、こっちよりでかい編隊が、こっちより優位な位置から向かってきたとき。ただそれだけだ。新聞の提灯持ち記事じゃないんだから、派手な表現は必要ない。あくまで見たままを教えればいい。いいな」


 「はい……!」


 俯きながら、ぼくは内心では中尉に感謝する。


 失敗は仕方が無い。


 だが、それを繰り返さないことにぼくらの任務の成否が掛かっている……特に、敵が侮れない力を持ち始めた昨今では。




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