第2部 ④
――――その日も、時が経つにつれ勢いを増した太陽は、飛行場の彼方をその熱気で歪めていた。
攻撃任務に就いてはや二週間目。その日三回目の出撃を終えたぼくに偵察機がもたらして来たのは、金門島の対岸西方に新たに造営された砲台が稼動を始めたという情報だった。
「行けますか?」と言う伝令の表情は、もはや哀願に近いものとなっている。
「行かなきゃなるまい」と、立ち上がろうとして上げる脚腰には、力が入らなかった。
それでもぼくは歩く。重いブーツを引き摺って。
前に進み出た柴田兵曹、そして蔡一空兵の二人にぼくは目を凝らす。二人とも心なしかやつれて来たように見える。
柴田兵曹など、無精髭もそのままに苦笑を浮べている。今の自分の置かれた苦境に、自嘲めいた何かを感じていたのだろう。
蔡一空兵などは、その細い目の下にクマなど作っている。げっそりした蔡君なんて、見れたもんじゃない。主計科のやつら、ちゃんと精の付くものを食べさせているのだろうか?
「――――命令は以上だ……さあ、行こうか」
トボトボと、そして小走りにぼくらは愛機のもとへ走り寄る。始動を始めた九六艦戦の翼下には、何れも六〇kg爆弾が一発。設計上は六〇kg爆弾をもう一発積めるのだが、それをやってしまうと爆弾の重みで回避機動すら覚束なくなる。
二人には休みを取らせて遣りたいところだが……そうだ、休みが欲しい……そう思いながら、ぼくもまた、始動を終えた「グレートヒェン」の元へ歩く。
頬を、額を……そして背中を、やけに冷たい汗が滑り落ちる。汗とはいっても単に暑さによるものではないものが混じっているような気がする。主翼に飛び移ろうとして主翼に手を触れた瞬間、刺す様な灼熱感にぼくは思わず手を離し、顔を歪めた。台湾の夏は半端ではなく暑い。実際、この主翼で目玉焼きを焼いて皆に振舞っていた搭乗員もいたっけ……そいつは一昨日前に、「斬り込み」に出たっきり未だ還らない。
整備員に手伝ってもらい、漸く操縦席の傍まで登る。おかしいな……前は一人で上れたのに。操縦席に腰を下ろせば、また整備員が勝手にバンドを締めてくれる。その間、ぼくは酸素マスクを首に掛ける。先週になって急速に普及が始まったマスクは、三〇〇〇m以上の高度を飛ぶ際の必需品だ。
攻防戦初日に、我が軍の攻撃で大打撃を受けたはずの泉州の飛行場群は瞬く間に復旧し、今では毎日のように爆撃機が長駆台湾に押し寄せてくる。それも、いままでのように二〇〇〇~三〇〇〇m級の低高度ではなく三〇〇〇m以上の中高度を飛んでくる。
また、奥地や東北部の基地からは、新手の戦闘機部隊が泉州飛行場および金門島対岸より五〇kmほど内陸の章州に続々と進出。それらが度々金門島上空まで飛来しこちらの任務飛行を妨害し始めている。
従って、空戦域は横方向だけではなく縦方向にも広がった。酸素マスクが必要な高度まで機体の性能を目一杯使わないと、生き残れない戦いに変りつつある。
未帰還機もまた、ここ一週間で目に見えて増えている。その何れも「斬り込み」―――金門島対岸の砲台攻撃―――で失われている。「斬り込み」を始めてからというもの、一日に最低二機は還ってこない。
そうした未帰還者の遺品整理と遺族への手紙の作成は、すでにぼくの日課となっていた。誰もやりたがらないから、下士官兵を統御する士官としては一番ジャクのぼくに全てが押し付けられることとなったのだ。
「――――○月○日某日、御子息は名誉の戦死を遂げられ――――」
「――――貴方様の御主人は、立派な軍人でありました――――」
「――――貴方様の御尊兄は、実に勇敢に戦い――――」
――――そんなぼくが、遺族への手紙を書く指揮所で……
「こいつも死んだか。こいつも……こいつも……」
ぶつぶつ呟きながら搭乗員名簿に横線を引く司令も、かなり憔悴しきっている。「頼んだぞ」の一言で搭乗員を死地に送り出し、死地から還ってきた搭乗員の報告を話半分で聞き、次の瞬間には「明日も頼む」と搭乗員を地獄に突き落とすかのようなことを言うだけの職務の何処に、精力を使い果たす局面があるというのだろう?
チョークを外すや否や、傍に立つ整備員が敬礼でぼくを送り届ける。
それに応えてぼくも敬礼……スイスイと誘導路上を進む「グレートヒェン」は、乗り始めたときより大分従順になっていた。ぼくの腕が上がったのか。それとも、乗り手に少しでも楽をさせてあげようと色気を出しているのだろうか?
強まる日差しに、ぼくは逸る心で「グレートヒェン」を滑走路上に滑り込ませる。飛ぶんなら、さっさと上昇したい。灼熱地獄の地上と違い、空の上は若干凌ぎやすいだからだ。
国府軍は砲台周辺に文字通り針山のような対空砲火を敷き、砲台を潰しに来るこちらを待ち構えている。対空陣地はドイツ人軍事顧問の指導の下で造営され、各銃座が相互にカヴァーし合い、濃密な対空砲火を形成するのだ。
さらには砲台自体、狭隘な窪地や低地など水平爆撃では到底撃破が期待できない地点に巧妙に配置されており、照準は対岸に設置された前身観測所からの連絡によって行われる。勿論その周囲も対空銃座で固められており、低速の艦爆、艦攻では暖降下~急降下での攻撃に成功したとしても強固な対空砲火からは到底逃れ得ない。
従って、速度も出、爆弾を搭載した状態でも射弾回避に十分な運動性を持つ(とされる)戦闘機に、掃討任務のお鉢が回ってきたのだった。
――――高度は四五〇〇m。
金門島の南岸に達したところで、ぼくら三機は暖降下に移る。
爆弾を積んだ九六艦戦は重く、加速が付きやすいのでスロットルの操作にはいやでも慎重になる。
絞り気味にしたスロットル。
徐々に撥ね上がる速度計……二〇〇……二四〇……二七〇……三〇〇! この速度域に達すると、機体がガクガクと振動を始める。これ以上の加速度に機体の構造が耐えられないのだ。当然このような状態で正確なあたりなど期待できないのだが、それぐらいの速度で突っ込まないとあの対空砲火は突破できない。
眼下の金門島は、降り注ぐ砲弾の雨で一面見渡す限り穴だらけになっていた。その光景はまるで子供の頃、科学読物で見た月面の様子そのままだ。そんなこの世のものとは思えない場所で、味方の将兵は未だに頑張っている。
その金門島の一角に、翩翻とはためく日章旗……引っ切り無しに降り注ぐ砲弾を前に、一歩も引かないという味方の決意を表すようで、胸を締め付けられるような思いである。地上で敵の反撃に晒されている味方を救うのにこれ位のことしかしてやれないぼくらの微力さに、言い様の無い悔しさが込み上げてくる。
「戦艦部隊は何をやっているんだ!?」
搭乗員達は、誰もがそう憤っていた。
金門島では陸戦隊の将兵が連日の砲撃に怯えながらも、必死の思いで防戦している。そしてぼくらは金門島の仲間を守るために連日烈しい対空砲火を掻い潜り、何時終るとも知れぬ砲台潰しに連日命を削る思いでいる。台湾方面の敗北は国防の根幹に関わる重大な局面であること位、ここでは「取るに足りない」一空兵でもしっかりと認識しているというのに、そんな時、連合艦隊の主力は内地で何をしているのか?
金門島の対岸から台湾海峡までは、金門島を隔てているとはいっても三〇kmもない。戦艦の艦砲射撃で十分届く距離ではないか?
それに戦艦は飛行機のように一々爆弾と燃料を補充するために台湾海峡を往復する必要も無い。こんな時に戦艦を使わずして何時使うのか?
……だが、現場の声はいつもトップに届くかと言えばそうではない。特にその声がトップにとって都合の悪いものであるのなら尚更だ。
――――高度は、すでに三〇〇〇。
ぼくらは金門島の対岸に達していた。
ぼくらの姿を認めたのか、対岸上空を旋回する九四式水偵が色付きの発煙弾を投下する。対空砲火の及ばない上空から対岸を常時監視し、攻撃するぼくらに砲台の位置を報せる役目だ。
眼前を炸裂する砲弾……激しい振動……青空を背景に幾重にも重なる黒い花。目標を睨むぼくの眼前には、垂直にそそり立つ阻塞気球。
くそっ……あんな邪魔なものを!
しかも目標はその下……回避できるかどうかは、もうどうでもいい!
「斬り込み」はすでに始まっている!
再び降下角一五度で暖降下に転じ、加速の付いた機体は一層その振動を増している。揚力がありすぎるが故に、必死で操縦桿を前に押さえておかないと突っ込まない戦闘機……こんな機体で地上目標への突撃とは!……九六艦戦がこんな任務に向いていない機体であることをつくづく痛感させられる。そして三〇〇ノット/時オーバーの加速に撓る脆弱な主翼は、何時起こるとも知れぬ空中分解への恐怖にぼくらを駆り立てる。
周囲を入り乱れる真黄色の弾幕! 至近で砲弾が炸裂する度に機体に破片がぶつかり、擦れ合う。その度に機体の振動が増す。
爆弾の投下把柄を握る手に脂汗が篭る。
コンクリートで根元を固められた巨大な大砲に思わず目を見張る。
かの日露戦争の際、乃木第三軍が旅順要塞攻撃に使ったという巨砲と、見目形ともにそっくりな大砲である。ここ二週間の内にぼくらは何基この大砲をぶっ壊したことだろう? それでも……幾ら壊しても、壊しても、大砲は雨後のタケノコのように幾らでも出来上がってくる。あたかもぼくらが壊しに来ることを計算に入れているような順調さで、砲台は破壊から回復し、数を揃え続けている。
それを、ぼくらは毎日のように壊しに行く……!
砲台の周囲を行き交う青い服、ドイツ式のヘルメットを纏った複数の人影……それがはっきりと見えた時、ぼくは爆弾の投下把柄を引いた。
一瞬にして軽くなった機体……一瞬嗅いだ大陸の土の匂い……静寂の内にそれらを押し殺すようにして、ぼくは阻塞気球を間一髪で避け、スロットルを全開にし、「グレートヒェン」を上昇させる。弾幕もまた、獲物を追う猟犬宜しくぼくと「グレートヒェン」に追い縋る。
背後に被弾の衝撃!……大丈夫、魔神の豪腕に揺すられるような衝撃に襲われながらも、機は上昇を続けている。十分な高度に達したところで機首を翻し、再び金門島上空に逃れる。
酸素マスクを剥ぎ取り、風防を開けた。身を乗り出して周囲を確認するぼくの眼前に、酷く撃たれた九六艦戦が一機。
接近してみると、それは蔡一空兵だった。ぼくと眼が合った瞬間、彼はばつ悪そうに頭を掻いて微笑んできた。彼の機体は相当撃たれている。垂直尾翼なんぞ、その機番が確認できないくらいに外板の殆どが千切れ飛んでいた。
『大丈夫?』
『何とか……』
手信号での遣り取りの後、蔡一空兵には先に帰るよう指示を出す。それから、ぼくはさらに視線を廻らせる。
柴田兵曹は……?
目標上空で個々の砲台に突入して以後は、帰投針路に入るまで列機の姿を確認できないのが常だった。投弾を終えると、金門島を出た辺りで合流するのがぼくらの作戦後の大抵の予定だったのだ。
だが……合流し、今頃共に銀翼を連ねているはずの柴田兵曹の姿が見えない。
接近して来る機影に気付き、柴田兵曹かと目を凝らす……違う、他の攻撃隊だ。ぼくらに続き、新たに砲台へ「斬り込み」を行う小隊。
「柴田……?」
ぼくは必死で彼の姿を追った……はじめは、頭の天辺を少しだけ擡げていた不安が、次第にその嫌らしい顔を、ぼくの心の中で上げて来た。
燃料切れ寸前まで、ぼくは何時までも周辺の空を旋回し続けていた……見ること叶わぬ僚友の機影を追って。
微かな望みと共に降り立った台中飛行場で、エプロンに燃料切れ寸前の機を滑り込ませたぼくを、蔡一空兵は悲しげな顔をして待っていた。
「少尉殿……柴田兵曹は……?」
「…………」
操縦席から蔡君を見下ろし、ぼくは黙って首を振るしかなかった。
太陽は、その下端を地平線の彼方へと触れかけていた。その眩しい黄色を背景に、夜間攻撃任務に就く艦爆隊が、エンジン音も重々しく今日も飛行場の上空を航過していく。
その光景に、ぼくは軽い安堵を覚える。
今日の仕事は終った。
これで明日の朝方まで、またゆっくり眠っていられる……
だが……明日もまた、「斬り込み」は待っている。
昭和一三年の夏を、ぼくはそうやって過ごした。




