第四部第一話:天王界の欺瞞と、黒髪の義賊
第四部第一話:天王界の欺瞞と、黒髪の義賊
地王暦元年。
地王界の大地が新緑の祝福に沸いていたその頃、タルカ地方の遥か西、すなわち「天王界」の東端に位置するルガーラ王国は、かつてない熱狂に包まれていた。
その年、ルガーラ王国のフリスト王子と、隣国セルバ王国のエレナ王女の婚礼の儀が執り行われた。
大聖堂の広場を埋め尽くした数万の国民は、手にした純白の聖花を掲げ、若き二人の門出を盛大に祝福した。
だが、その光景を真に異質なものにしていたのは、空を舞う「天使」たちの存在であった。
背中から透き通るような白い羽を羽ばたかせ、頭上に光輪を浮かべた天使たちが、祝福の鐘の音に合わせて天空から舞い降りてくる。
「おお、神の使徒よ……! 我らの祈りをお届け契います!」
国民や聖職者たちがひざまずき、一心不乱に祈りを捧げると、その肉体から目に見えぬ清らかな精神エネルギーが立ち昇った。それらは「聖王力」となり、国中に建てられた聖なる塔の頂へと、濁流のように吸い上げられていく。
空中に滞留する大勢の天使たちは、至福の表情を浮かべてその聖王力を自らの肉体に吸収していった。
そして、その見返りとして、人々へほんのわずかな「天王力」の恩恵――病を遠ざけ、作物を実らせる奇跡の端切れ――を分け与える。
天王界においては、日常的に繰り返される「等価交換」の光景であった。
特に王族や貴族、高位の聖職者の結婚式となれば、集まる聖王力の規模は桁違いに大きい。
それゆえに、天上から天下る天使たちの数も、空を白く染めるほどの大軍勢となるのだ。
これらの天王族のほとんどは、地上ではなく、遥か雲上の彼方に浮かぶ天空の島「ヴィトーラ」に居を構えていた。
彼らは本来、地上の人間たちの生老病死や国家の興亡などには冷淡であり、関心などこれっぽっちも持ち合わせていない。
それでも彼らが人間の祈りに応じ、時に「守護天使」を地上へ派遣するのは、偏に自らの力の源泉である聖王力を維持するためであった。
善良な人間が戦火や飢餓で失われれば、搾取できる聖王力が減少してしまう。
天使たちが人間を守るのは、彼らにとって人間が「よく肥えた家畜」であるからに他ならなかった。
しかし、そんな都合の良い神の本性を知る由もない人間たちは、今日も天使たちを絶対の信仰の対象として崇め奉っているのだった。
天王界という清廉な名がついてはいるものの、その実態は決して楽園などではなかった。
美しき聖林の奥深くや険しい霊山には、ゴブリンやコボルト、さらには巨躯を誇るオーガといった獰猛な亜人種がびっしりと棲みついており、領土を巡って日々、人間との血生臭い生存競争を繰り広げていた。
幸いにも、デルージャのような「魔王」と呼ばれる大物こそ入り込んではいなかったが、それでも多種多様な魔王族が、聖なる大地の裏側で確実に蔓延っていた。
だが、この世界で何よりも恐ろしいのは、魔物ではなく「人間」そのものであった。
心の隙間に闇を抱えた人間たちが魔王族の依代となり、その肉体から禍々しい「邪王力」を放って悪事を働く。彼らこそが、天王族にとっての天敵であり、同時に地上を生きる人間たちにとっても最大の脅威であった。
フリスト王子とエレナ王女の政略結婚は、両国の軍事力を強固に結びつけ、集まった莫大な天王力の加護によって、一時的にこれら魔王族の勢力を辺境へと退けることに成功した。
こうして、天王界の東端には、かりそめの平和な時代がもたらされた。
――地王暦九年。
平和の平穏を切り裂くように、テルセイ魔導帝国から亡命してきた「七人の魔導士」が国境を越えて侵入した。
彼らは各地の抑圧された民衆や、光の信仰に疑問を持つ者たちを扇動し、一斉に大規模な反乱を起こし始めた。
彼らの組織の名は、【AAA(Anti-Angel-Army:対天使軍)】。
魔王母メルフェレーンの影を感じさせるその組織は、高度な魔導技術と血王力を駆使し、一時は聖なる塔をいくつも破壊するほどの勢いを見せた。
しかし、天空の島ヴィトーラから直々に派遣された天王族の圧倒的な軍事的助力の前に、AAAの表立った勢力は瞬く間に瓦解した。
……かに見えた。
実際には、七人の魔導士をはじめとするAAAの幹部たちの多くは、死んではいなかった。
彼らは巧みに法衣を纏って聖職者に成りすまし、あるいは深い森の地下へと潜り、天王界の各地に毒を仕込むように不気味に潜伏し続けていたのである。
それからさらに歳月が流れた、地王暦二十一年のことである。
新緑の地王界から遠く離れたこの天王界の国境線に、妙な二人組の旅人が足を踏み入れていた。
「おい、アレ……いや、アルよ。わざわざこの様な、頭の固い神様気取りがウジャウジャいる地まで、足を運ばんでも良かったんじゃないかのぅ」
長い白髭を蓄え、すっかり丸めた己の頭をパシパシと面倒そうに撫でながら溢したのは、半冥王族のブルドであった。20年前と変わらぬ、どこか世間を食ったような飄々とした佇まいだが、その手にある黒い錫杖は、大気のわずかな邪気を敏感に察知してチリンと冷たい音を立てている。
彼の問いに答えたのは、その隣を歩く、漆黒の髪を無造作に揺らした若き青年――アルであった。
「何度も言わせるなよ、ブルド。地王界の連邦は平和になりすぎてつまらんと、いつも言っていたではないか。あそこの空気は、俺にはちっとばかり綺麗すぎるんだよ」
アルは不敵な笑みを浮かべ、腰に帯びた短剣の柄を親指で弄んだ。
その鋭い双眸には、若き日のレイスを彷彿とさせる揺るぎない意志と、それ以上の危うい野性が宿っている。
「やれやれ。天下の大地王の息子ともあろう者が、故郷を飛び出してやることが『盗賊の紛いごと』とはな。リーヴィス様が知ったら、それこそ地王教の破門騒ぎじゃぞ」
「おいおい、人聞きが悪いな! 俺は悪い奴からしか金は盗まない主義だ。それに、盗んだ財宝の多くは、あそこのスラムの貧しい民たちに配ってやっているじゃないか。立派な義賊さ」
アルは肩をすくめ、ルガーラ王国の美しい王都の、その影に隠された貧民街の方向を指差した。
天王界の華やかな光の裏には、聖王力を差し出せず、天使の恩恵に預かれない貧困層が溢れている。
「まあ、確かにそれはそうじゃがの。お主のその妙な義侠心だけは、あの頑固な父親譲りというわけか」
ブルドは苦笑しながら、王都市街の中心にそびえ立つ、純金で装飾された大聖堂の尖塔を見上げた。
「それにしても、あの天王界の聖職者ども、神の代弁者を気取っている割には、随分と裏でドス黒い財宝を溜め込んでる様じゃないか。民には施しを説きながら、自分たちは純金の食器で飯を食うとは、ヘドが出るぜ」
アルの言葉に、ブルドは目を細め、いたずらっぽく口元を歪めた。
「ふむ……。ならば、いっちょ、あの強欲なハゲネズミどもを懲らしめてやるかの」
「ははっ! おお、ブルドもなんのかんの言いながら、やる気満々ではないか!」
「民草のためじゃ、しかたあるまいて。これもまた、冥王界の理に適う善行よ」
若き黒髪の義賊アルと、百戦錬磨の半冥王族ブルド。
地王界の最高機密たる血脈を継ぐ少年が、欺瞞に満ちた天王界の光を暴くための新たな冒険が、いま、この地から始まろうとしていた。




