WAKE-UP 前編
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「殺されるかもしれない」
男はそう言って、煙草に火をつけた。
新宿三丁目。雑居ビルの裏手、路地に面した重い木の引き戸。表には小さな行燈が一つ灯っているだけで、店名はない。知っている人間だけが来る、そういう造りの店だ。
引き戸を引くと、煙草の煙とウイスキーの甘い匂いが漏れてきた。磨き込まれた一枚板のカウンターに八席。奥の棚に、ラベルの剥がれた古いボトルが並んでいる。客は一人しかいなかった。カウンターの一番奥、壁際の席に背を丸めて座っている男。その前にグラスが一つと、吸い殻が山になった灰皿。
男は、すでに酔っていた。私が来る前から、かなりの時間、一人で飲んでいたのだ。
私の名前は神崎悠一。四十二歳。ノンフィクション作家。かつて暴力団の内部告発者の証言をまとめたルポでベストセラーを出したが、その後は鳴かず飛ばずで、出版社の編集者にも「もう一発当てないと次はないですよ」と言われている中年だ。十五年前に弟を病気で亡くしてから、大切な人間と向き合うことが下手になった。妻には三年前に逃げられた。一人息子の蓮司は妻が引き取った。月に一度会える約束だが、最後に会えたのは二ヶ月前で、蓮司は終始スマートフォンの画面を見ていて、私の顔を一度も見なかった。
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この男――本名は伏せる。仮にA氏としよう――が接触してきたのは、三ヶ月前だった。
知人のジャーナリストを通じて、手紙が届いた。便箋一枚に、万年筆で。
*「事実を書ける人間を探している。あなたの暴力団の本を読んだ。情報源を守り抜いた人間に話したい。連絡方法を指定する」*
差出人の名前を見て、驚いた。A氏と言えば、元・某国立大学の研究者。専門は神経科学。半年前までは国際学会で基調講演を行うほどの権威だったが、突如として学会からも大学からも姿を消した人物だ。現在は公的な所属がなく、学術論文のデータベースからも名前が消されている。そんな人間が、なぜ私に。
A氏が私を選んだ理由は、後になってわかった。あの暴力団の取材では、出版後に組の事務所から繰り返し嫌がらせを受けた。情報提供者の名前を出せ、と。ある夜、帰宅途中に見知らぬ男に腹部を刃物で刺され、緊急搬送された。一命は取り留めたが、それでも情報源を明かさなかった。その一件が業界で少しだけ話題になった。A氏はそれを知り、自分の正体を絶対に明かさない人間として私を選んだのだ。
それから三ヶ月。指定された連絡手段で何度もやり取りした。日時を決めては直前でキャンセルされ、連絡が途絶え、また突然メッセージが来る。A氏は「ここ一ヶ月ほど、監視されている気がする」と言った。尾行なのか、盗聴なのか、具体的には語らなかった。だが声の緊張は本物だった。
ようやく今夜、この店で会える。
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A氏は煙草の煙を天井に吐いた。
細身で、五十を過ぎたばかりだろうが白髪が目立つ。だが目だけが異様に若い。こちらの思考を透視するような、圧のある目だ。研究者というよりも、何かの修行を積んだ人間の目に見えた。ただし、その目は充血していた。グラスの底に残るわずかなウイスキーと、さっき見た灰皿の山が、この男が今夜どれだけの覚悟でここに座っているかを語っていた。
「話す決心がついた。今夜を逃したら、次はないかもしれない」
声は低く、落ち着いている。酔っているはずだが、言葉は正確だった。酔いの上に理性を被せている、そういう話し方だ。長年酔い続けている人間だけが身につける、独特の制御術だと感じた。
「人類の生存戦略に関わる話だ」
正直に言えば、大袈裟だと思った。人類の生存戦略。ノンフィクション作家として十五年、この手の大言壮語を何度聞いたかわからない。
だが、A氏の目は笑っていなかった。
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「二〇二五年の今、人々はオピオイドで肉体の痛みを消し、それでも埋まらない魂の空洞を、我々の研究領域に手を突っ込んで埋めようとしている」
我々の研究領域。
A氏はそこで言葉を切り、残りのウイスキーを一息で干した。空のグラスをカウンターに置く。
沈黙のあと、A氏はゆっくりと、その言葉を口にした。
――デジタルドラッグス。
白状すると、私はその瞬間、記事のタイトル候補としてしかその言葉を受け取らなかった。スマホ依存、SNS中毒。編集者が好みそうなバズワードの亜種だろう、と。
A氏は私の目を見た。見透かすように。
「その顔。"またその話か"という顔だ。スロットマシンの心理学。通知バッジのドーパミン。その程度の話だと思っているだろう」
図星だった。
「いいか、神崎さん。あれは前世紀の遺物だ」
A氏がバーテンダーにグラスを差し出した。おかわり。今夜何杯目かわからない。注がれたウイスキーを一口飲み、グラスを置いて言った。
「デジタルドラッグスは、脳の神経伝達物質を――直接――操作する」
「直接」に力が入った。
「神経生理学的ハッキングだ。心理トリックじゃない。脳の化学反応そのものを、映像と音で書き換える」
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A氏の説明は、そこから精密さを増した。
特定周波数の光の明滅――フリッカーと呼ばれる技術。バイノーラルビートを数世代進化させた音響設計。そしてAIが、ユーザーの瞳孔反応と心拍変動をリアルタイムで読み取り、その個人だけに最適化された視聴覚パターンを生成する技術。
私はレコーダーの赤いランプを確認しながら、手帳にメモを取っていた。ペンを走らせる手が、いつの間にか速くなっていることに、自分では気づいていなかった。
「それを"視聴"すると、脳は二つの反応を強制される」
A氏は指を二本立てた。爪が短く切られた、研究者の手だった。
「一つ。前頭前野の機能低下。つまり、理性の消灯だ。批判的思考が止まる」
一本目の指を折る。
「二つ。過剰なドーパミンとセロトニンの放出。薬物の静脈注射に匹敵する多幸感が、画面を見るだけで起きる」
二本目の指を折る。拳が残った。
「一番恐ろしいのは――」
A氏は声を落とした。バーテンダーが洗い物をする水音だけが、かすかに聞こえた。
「摂取している自覚がないことだ」
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*第1話中編に続く*




