竜は仕方なく番の面倒をみる
何とも言えない重い沈黙が木立の中に落ちていた。
「勘弁してくれ……」
ややあって、そう呟いたのは彗主の方だった。片膝を立てるように地面に座り込み、がしがしと行儀悪く頭を片手で掻く。
『噛み』を行ったという事は、その相手の人間に眞名を呼ぶ権利を与えてしまったという事だ。
だが、『噛み』という行為自体を承服できていない彗主はその事実をうっかり失念していた。
間抜けと言えば、これほど間の抜けた話はないだろう。彗主だってこれが他の竜の話ならば、腹を抱えて大笑いしているところだ。
「……どこからアンジュなんて名を思いついた」
ぎりぎりと奥歯を噛み締め、その顔を睨めつけてやると、ヴィレはびくりと体を震わせた。
「アンジュっていうのは女の名前だろうが。なんで俺の事をそう呼んだ」
「あー……」
ヴィレは気まずそうに瞳を泳がせた。
「人攫いに攫われる前にしばらく住んでいた家で、優しくしてくれた隣のおば、じゃなくて、お姉さんが……」
飼っていた琥珀色のチャボです、とは到底ヴィレには言えなかった。
それ以上言えば、今度こそこの竜に噛み殺されそうな気がしたからだ。
因みに鶏冠を持った立派な雄鶏であったのに女の子の名前を付けたのは、そのおばさんの単なる趣味だ。
「そいつの名か……」
その不自然な間は気になったものの、それ以上深く考える事なく、彗主は納得した。文句を言いたいのはやまやまだが、今更どうしようもない。
「で、お前の名は?」
命名された以上は無視もできず、彗主は不本意ながら子どもの名前を聞いてみた。
「ヴィレ。春生まれだから、あたし」
秋の豊穣の女神がヴァンプなら、生命の息吹を意味する春の女神の名前はヴィレである。それに因んで名づけられたのだと、ヴィレはたどたどしく彗主に説明した。
それを楽しそうに教えてくれた母は、今はもうこの世にいない。ヴィレは鼻の奥がつんと痛くなるのを呑み下し、無理やり笑顔を作って彗主に向き直った。
「ねえ、アンジュ」
「……何だ」
渋々と言った口調で彗主は返事をした。
誓約者に名前を呼ばれると、今まで覚えた事のない感覚が魂を揺さぶる。大地から力をもらう以上に、身の内に力が漲るような不可思議な感覚だった。
「アンジュって、昨日の竜でしょ?」
変化を見破られたとわかって、彗主は呆然と目を見開いた。
「何でわかった」
「わかるよ。何と言うか、魂の輝きが同じだもの。もしアンジュが熊に化けたって、ヴィレにはすぐにわかると思う。魚に化けられたら、ちょっと自信ないけど」
「……化けるって言うな」
彗主は思わず舌打ちした。竜は魔力で人間に変化しているだけで、化けたなどと言われるのは心外だ。
うんざりと空を見上げていたら、不意に右手の袖の端をヴィレに掴まれた。
反射的に振り払おうとしたが、その途端、泣き出しそうな顔で見上げられて彗主はたじろいだ。
泣かれるのはごめんだ……と咄嗟に思った。
小さな顔に、大きく潤んだ青い瞳だけが大きく見える。
「……お前、いくつだ」
「七つ。この四月で七つになったの」
「そうか」
放っておけば、この日の内にも息絶えてしまう命だった。
わかっていたから、わざわざ水辺近くまでこの少女を運んだのかもしれないなと、今更のように彗主は気が付いた。
体や服についた血の匂いを流さないと、野生の獣を引き寄せてしまう。
長く生きられては自分が面倒なだけなのに、すぐに死なれるのは気に食わないと、心のどこかでそう思ってしまっていた。
「……そのどろどろの顔を洗ってこい。体も洗え。ああ、そうだ。ついでに服の血も落としておけ」
言われたヴィレは不安そうに彗主を見た。
「あたしが水浴びをしている間に、アンジュはどっかに行ったりしない?」
「ああ」
置き去りにしたいのは山々だが、どうも気が乗らない。この子どもが体を洗い終えるまでは、とりあえず傍にいてやるつもりだった。
ヴィレは尚も躊躇う素振りを見せていたが、
「いいからさっさと洗ってこい」
彗主が苛々と声を掛けると、渋々頷いた。
「アンジュ、どっかに行っちゃ嫌だよ」
「わかっている。何度も言うな」
ヴィレはちらちらと彗主を窺いながら、川辺で服を脱ぎ始めた。
まだ子どもなので、彗主の前で裸になるという事に全く抵抗を見せない。
その様子を眺めながら、少しは恥じらいを見せろ……と彗主はついそんな事を思ってしまった。何となく面白くなかったが、何故そう感じたのか自分ではわからなかった。
それにしても……と彗主は苛々と眉間の皴を揉んだ。
この娘は知らないのだろうが、眞名を呼んでお願いされた言葉に、竜は弱い。勿論逆らえない訳ではないのだが、本能で言葉に従いたくなってしまうのだ。
その事が余計に彗主を苛立たせた。
夏とはいえ、山間を流れる川の水は冷たい。
ヴィレはおそるおそる川の中に足を突っ込み、それから観念したようにじゃぼんと体を沈めた。
「うー……、冷たいよぉ」
血がこびりついて固くなった髪を水の中で丁寧にほぐし、ヴィレはその後で体の汚れや血を落としていく。最後に岩に置いた服のところまで戻ってきて、バシャバシャと川の水で服を洗い始めた。
勿論その間、ちらちらと彗主の方を盗み見る事は忘れない。ここで置き去りにされたらえらい事になるとわかっているのだろう。
服についた赤黒い染みは水洗いだけでは完全に落ちなかったが、色だけは何とか薄らいだ。ヴィレは濡れた服を固く絞り、そこらにあった岩の上に広げた。
そして真っ裸のまま、彗主の許に駆けていく。
「川の水、冷たかったよぉ」
ヴィレの唇はすっかり紫色になっていた。仕方なく自分の上衣で裸の体を包んでやったところで、彗主は「ん?」と眉間に皴を寄せた。
竜は浄化の魔法が使える。わざわざ川で洗わせなくても、浄化の魔法をかけてやればそれで良かったんじゃないかと思い出したからだ。
普段、息をするように浄化の魔法を自分にかけていたためすっかり忘れていた。
ま、いいか……と彗主は思った。
取りあえず血の匂いは消えて、当初の目的は達成された。
彗主はヴィレの体から水分を飛ばし、ついでに岩の上にあった服も乾燥してやった。
「おおおおお!」と驚いているヴィレに、「服を着ろ」と声を掛ければ、ヴィレはもぞもぞと服を着始めた。
それでも体が芯から凍えていたためかヴィレはぶるぶると震えていて、彗主は仕方なく懐に抱き込んで自分の体温を分けてやった。
「この服どうしたの?」
すっぽりと彗主の腕の中におさまったヴィレは、彗主の絹の服をちょんちょんと引っ張ってみる。
「どうもしない。人の姿になっていた時の格好に戻っただけだ」
「じゃあこれ、アンジュの服なんだ。でもこれってすごく上等な織物だよね。もしかしてアンジュって、人間の世界で言うお金持ちなの?」
「金に困っている竜などいないぞ。竜の鱗は高値で売れるからな」
何と言っても竜の鱗は万病に効く。
だからこそ人間どもは目の色を変えて欲しがるのだが、実際は鱗の部位によって効能に大きく違いがあり、ある特殊な鱗以外は他の生薬でも十分代用できる程度の薬効しかなかった。
その特殊な鱗は『逆さ鱗』と呼ばれていて、竜の首の後ろに一枚だけ逆向きに生える。この部分に魔力の残滓が凝り、その容量が限界を迎えると自然に抜け落ちて新しいものと変わるのだ。
普通の鱗とその特殊な鱗を人間が見分ける事はできなかった。鱗の色は竜種によってさまざまだし、形や大きさも均一ではないからだ。
違いは魔力が凝っているかどうかという一点であり、それは魔力をもつ竜にしかわからなかった。
因みに、この鱗だけを使った散薬の効き目はすさまじい。魔力の残滓が人間の持つ自然治癒力を爆発的に増幅させるらしく、あらゆる傷や病気に対応した。
大怪我で死にかけていたけが人が息を吹き返しただの、寝付いていたよぼよぼの年寄りが女の尻を追いかけ始めただの、その逸話には事欠かない。
ただし、不老に対しては一切効果がなかった。思い違いをしている人間も多いようだが、わざわざ本当の事を教えてやる竜はいなかった。
だって、勘違いしてくれた方が竜鱗に高値が付く。
つまるところ、竜は人間界の金が大好きだった。
せっかく人型がとれるのだ。要らない鱗を売って贅沢ができるなら、それに越した事はないと考えるのが人情(竜情?)である。
「ふうん」
一方、金儲けに興味がないヴィレはどこかおざなりに相槌を打った。
お金はあったら嬉しいけれど、何に使ったらいいのか小さなヴィレにはわからなかった。一番欲しいのは美味しいご飯かなあと思ったところで、ヴィレのお腹がくうっと小さく鳴った。
「あ……」
ヴィレは自分のまっ平なお腹を見下ろした。
よく考えれば、皆で野営をしていた最後の晩に干し肉の入ったおじやを口にしてから、まともな食事をとっていない。木の実をつまんだり、花の蜜を吸ったりして何とか空腹を紛らわせていたのだ。
ヴィレはお腹に手を当て、上目遣いにアンジュを見た。
「アンジュ、あたし、お腹が空いた」




