竜は命を繋ぐ
翔威の先導で捜索に出掛けた雄竜達が森から帰ってきたのは、夜も随分更けてからだった。
法術師に狩られるのではと不安に怯えながら竜の帰りを待っていた番達は、一頭も欠ける事なく無事に帰還した皆の姿を見て、一様に安堵の色を顔に浮かべた。
だが、竜達は全員無事だが、誰も幼い子どもを連れ帰っていない。
凛主は小さな風呂敷を手に持っており、見覚えのあるそれに獅枇が一歩前に進み出た。
獅枇がヴィレのために揃えてやった風呂敷包みだった。
その中に竜笛が突っ込まれているのを見て、獅枇は唇を噛み締めた。
「あの子は殺されたのか?」
重い沈黙を破るように獅枇は口を開いた。
何があっても彗主を信じてやってくれないかと、幼いヴィレを深い森へとやったのは獅枇だった。
もしあの子が死んだのであれば、その罪は自分にあると獅枇は思った。
「死体はなかった」
凛主は疲れたように答えた。
「ヴィレがいた辺りに、ヴィレと彗主の血の匂いが残っていた。
彗主が先に襲われたか、あるいは二人一緒のところを襲われたのかわからない。
だが、竜を狩ろうとして法術師達は失敗した。挙句に仲間の死体を捨てて逃げて行ったんだ」
「では、ヴィレは法術師達に連れて行かれたと?」
「ああ。あの辺りに狼や他の大型獣の痕跡はなかった。連れて行ったのは、十中八九、法術師どもだろう。
彗主を狩ろうとした法術師がヴィレを見つけて、子どもの竜と間違えて連れて行った。真相は大方そんなところはないか。
でなければ、足手纏いにしかならない子どもを、あいつらがわざわざ攫って行く訳がない」
「竜と間違えられて……」
ぞっとしたように桜姫が口を手で覆った。
「でも法術師達はいずれ、ヴィレが竜でないと気付くわ」
「そうだな。時を見て、あの子も自分の口からそう言う筈だ。
法術師らは怒り狂うだろうが、手間暇かけて連れ帰った子どもを今更殺しても、一文の得にもならない。命だけは助かる筈だ」
ただ、それが幸運だとは凛主には思えなかった。
役に立たぬ子どもは奴隷としてどこかに売られる事になるだろう。そして一生、搾取されて生き続ける事になる。
「……彗主の具合はどうだ」
獅枇に問うと、獅枇は柔らかな吐息をついた。
「仮死状態に入りました」
翔威の言った通り、彗主の魔力は封じられていなかった。
大量に出血し、毒に侵された体を守るために、彗主は本能のままに深い眠りに落ちた。極限まで生命活動を落とし、貪欲に大地のエネルギーを吸収している。
体内の毒が完全に浄化されるまで、彗主は目覚める事はないだろう。
「そうか。ならいい」
ヴィレがいた場所まで案内してくれた翔威の労を改めて労い、凛主はそのまま踵を返した。
彗主の目が覚めれば、もっと詳しい事情を聞く事もできるだろう。だが今の時点ではする事は何もない。
それにしてもとんでもない竜だ……と凛主は回廊を歩きながら独り言つ。
残された足跡から、二十人近い法術師が森に入り込んでいた事がわかった。竜一頭を捕獲するのに、十人の法術師がいれば足りると言われている。その倍に近い人数に包囲されながら、あの黄金竜は見事逃げおおせたのだ。
……ただし、誓約者は守れなかった。
重い澱のような哀しみが凛主の心を抉った。
目覚めた時、あの竜は自分が誓約者を守れなかった事を知るだろう。
あの子どもがどれほどかけがえのない存在であったのかを魂に刻み込まれた直後に、力づくで奪い取られた。純血種にとっては耐え難い喪失の痛みとなる。
自邸に帰った凛主は、疲れ切ったように床榻に腰を掛け、肘置きに右手をついて掌に顔を埋めた。
自分が下した決断が間違っていたとは思わない。けれど時期が悪過ぎた。
同胞は危うく命を落としかけ、竜の番は無残にも奪い去られた。
誰かが隣に腰をかける気配がして、凛主はのろのろと顔を上げた。
「桜姫……」
あの子どもを我が子のように慈しんでいた妻にも深い傷を負わせた。だから何と言葉を掛けて良いかわからなかった。
静かに視線を逸らせた凛主の膝の上に、桜姫はそっと手を置いた。そして労わるように凛主の瞳を覗き込んだ。
「ヴィレを探しに行って下さってありがとう」
その声音に、咎めるような響きはなかった。
「……抱きしめてもいいか?」
凛主が躊躇いがちにそう問うと、すぐに柔らかな腕が凛主の首に回された。
もうずっと、桜姫を抱き締めていなかった。ほっそりとした桜姫の体を、凛主は骨も折れんばかりに強くきつく抱きしめる。
凛主に抱擁された桜姫はひと筋の涙を零した。
「嫌な事は全部貴方にさせてしまってごめんなさい」
彗主に自覚を持たせなければ、あの子が不幸になるとわかっていたのに、桜姫にはその決断ができなかった。
だから凛主が泥を被った。この度の事はそういう事だった。
法術師達さえ入り込んでいなければ、今頃ヴィレは彗主の腕の中にいた。覚悟の決まった竜に愛されて、ヴィレは何の屈託もなく笑っていただろう。
つい一昨日まで腕に抱いて眠っていた子どもが、今は生死すらわからぬ状態にある。叫び出したいくらい苦しいのに、それを誰にぶつける事もできなかった。
凛主の腕の中で、桜姫はひっそりと小さなヴィレを想う。
どうか無事にいて……とそう祈る事しかできなかった。
そこは混沌の世界だった。
自分の名前も生い立ちもすべて忘れた深い闇の中で、竜は一つの夢を追っていた。
肩口で揃えられた金髪が地面に広がり、小さな子どもが地面に転がされている。
その左小指の爪は無残に剝がされ、子どもは後ろ手に手を括られてぐったりと地面に転がっていた。
怒りのままに咆哮すると、子どもははっとしたように目を開き、声を追うように自分を見た。歓喜の色がぱあっと子どもの瞳を染め上げ、救いを求めるように首が伸ばされる。
額には竜の魔力を封じる忌まわしい呪字が張り付いていて、更には殴られたような跡が頬に残っていた。
そこからの記憶は曖昧だ。
神経が焼き切れるような激しい怒りに駆られ、男達に向かって急降下した事は覚えている。
矢を射かけてきた男に火を吐き、尾で人間どもを蹴散らせた。
向こうも死に物狂いで反撃してきて、避けきれなかった矢が翼や腹を焼いた。
やがて矢がまともに突き刺さり、矢尻に塗られた毒が体に回ってくるのがわかった。
一刻も早く子どもを助けたいのに、思うように体が動かない。苛立ちと焦りで、冷静さを完全に失っていた。
体にねばりつくような詠唱をかけられていると知ったのはいつ頃だっただろうか。
竜の魔力を捻じ曲げる呪言が頭の中に響き渡り、生きながら魂の核を炙られるような凄まじい苦痛に襲われた。体の中に目に見えぬ触手が伸びてきて、体に溢れていた魔力を力づくで封じ込んでいく。
気付けば無理やり人間に変化させられていた。
時を置かず、額や手首に捕縛紐を掛けられ、呪が直接、肌から染み込んでくるのがわかった。
純血種の持つ膨大な魔力はまだ体に残されていたが、それを貪欲に食らい尽くそうとする呪が竜の核に絡み付いき、甚振られるままに悶え苦しんだ。
言葉が閃光のように闇を切り裂いたのはその時だった。
「アンジュ、竜の姿に戻って……!」
子どもから眞名を呼ばれた瞬間、体にみるみる力が漲った。
枷となって魔力を封じ込めようとしていた呪字が引き千切られ、力が暴発する。自分を捕縛しようとしていた人間どもが弾き飛ばされ、自身の体は誓約者の命に従って竜へと変化した。
すでに意識は朦朧としていて、自身で何かを判断するような力は残されていなかった。魂が恋う誓約者が命じたから竜に変化しただけで、一切の感情も思考もそこには存在しなかった。
そこに再び命が重ねられる。
「アンジュ、逃げて!」
眞名に縛られた体は、命じられるままに空に向かって飛翔した。痺れかけた翼を大きく広げ、高みへとひたすら翔け続けた。
そうして唐突に夢は終わる。
夢は力を失って凪いで行き、揺蕩うような薄闇に意識はひっそりと沈み込んだ。
それを何度繰り返しただろう。
目覚めた時、彗主の目に映ったのは高い天井だった。明るい日差しが窓から差し込み、優しい静けさに包まれたまま、彗主はゆっくりと体を起こした。
ヴィレに渡されていた客殿の寝所だと彗主は気が付いた。
一度だけ、ヴィレにせがまれて一緒に寝てやった事がある。
目が覚めると掛け布団の中にヴィレはおらず、何故かベッドの隅の方で寒そうに丸まっていた。風邪でも引かせたかと慌てた事を、今でも鮮明に覚えていた。
ふと思いついて右の肩を回してみた。矢で射られていた筈だが、痛みは一切感じない。体内の浄化が終わり、ようやく目覚めが来たのだろう。
箪笥の上に畳まれていた衣装に着替えて、部屋を出た。
体は軽く、不調は一切感じなかった。純血種としての莫大な魔力が体に漲っている。ただし心はどこまでも虚ろだった。魂を裂かれたような深い喪失の感覚が心を重く覆っていた。
回廊に出たところで、同胞の桂姫と会った。
彗主の姿を認めて一瞬瞠目した桂姫が、足早に近付いてくる。
「体の具合は……」
そう聞きかけて、桂姫はすぐに口を閉ざした。彗主の瞳に浮かぶ焦慮に気付いたためだ。
「ヴィレはどこだ」
彗主の問いに桂姫は静かに首を振った。
「わからない。貴方を殺そうとした法術師が攫ったみたい。皆で探しているけれど、今のところ手掛かりは何もないわ」
「……俺はどのくらい眠っていたんだ?」
「三か月よ」と桂姫は答えた。
「思ったよりも目覚めが早かったわ。同胞の血も飲めないほどに弱っていたから、後、一、ニか月はかかるかと思ってたのだけど」
「そうか……」
彗主は押し黙った。途方もない無駄な時間を過ごしてしまったという後悔が胸に湧き上がる。誓約者が行方知れずとなっていたというのに、自分はのうのうと眠っていた訳だ。
「ヴィレが法術師どもに連れ攫われたのは確かなのか?」
改めてそう問うと、桂姫は小さな吐息をついた。
「あの晩、夜の闇に紛れて凛主達と現場に行ったの。場にはヴィレの血の匂いがあったけれど、姿は見つからなかったわ。狼の匂いもなかったから、連れて行ったのは法術師で間違いはないと思う。
凛主は子どもの竜に間違えられたのだろうと言っていたわ。
仲間の死体ですら平気で置いていくような人間達だもの。ヴィレに価値を見出したのでなければ、足手纏いになるような子どもをわざわざ連れて行く筈がない」
「凛主はどこにいる」
「多分部屋だと思う。私も一緒に行くわ」
そう言って桂姫は歩き出した。
「聞きたい事があるの。貴方がどうして法術師から逃げおおせたのか、皆、事情を知りたがっている」
「事情だと?」
意味がわからずに眉宇を潜めた彗主に桂姫は僅かに微笑んだ。
「ええ。貴方も、自分がどうしてこの隠れ処にいるのか知りたいでしょう。それと会わせたい竜もいるの。その竜は貴方が知りたい事も教えてくれる筈よ」




