少女は竜と言葉を交わす
木立の奥へと目を凝らしたヴィレは、次の瞬間、「え……」と大きく目を瞠る事となった。
枯れ枝や落ち葉を踏んでこちらにやって来たきたのは、いかにも高そうな服に身を包んだ大層きれいな青年であったからだ。
年は十七、八と言ったところだろうか。
鼻筋はすっと通っていて、瞳は太陽をそのまま映したような金色だ。鮮やかな金髪は肩につくかつかないかといった長さで切り揃えられ、さらさらとした前髪が額にかかっていた。
背はすらりとして、無駄な贅肉は一切ない。均整の取れた優美な肢体は、しなやかで雄々しい獣を思わせた。
ヴィレは思わずその容姿に見惚れてしまったが、非の打ちどころのない麗しい外見とは対照的に、その青年の機嫌は最低最悪であるようだった。
どこかうんざりとした眼差しで小さなヴィレを見下ろし、何一つ言葉を発しようとしない。
「あの、えっと……、お兄さん?」
気詰まりな沈黙に耐えられなくなって、ヴィレはおそるおそる声を掛けてみた。
お兄さん、と呼んだのは他にどう呼び掛けていいかわからなかったからだ。もうちょっと年がいっていたら遠慮なくおじさんと声を掛けるのだが、さすがに成人もしていないようなこの青年にそれは失礼だろう。
ヴィレなりに気を遣って声を掛けたつもりだったが、呼ばれた青年の方はあからさまに嫌な顔をした。
「変な呼び方をするな」
取り付く島もなかった。
げんなりと吐き捨てた青年は、そのまま値踏みをするような目でヴィレをじっと見つめてきた。
うわあ、おなかをすかせた肉食獣の目みたい……とヴィレは心の中でこっそりとびびった。
眼差しはどこまでも荒々しく、今にもこちらを食い殺しそうな獰猛な殺気に満ちている。
外見はこんなに優雅なのに、この落差は何なのだろうか。
そんな事をつらつらと考えているうちに、ヴィレは唐突に気付いてしまった。
目の前にいるこの青年こそが、昨日、自分の喉に牙を立てようとしたあの黄金竜だという事に。
竜が気紛れに人間に化ける事は、五つの時に自分を人攫いから買った男達から聞いていた。彼らは法術師と呼ばれる集団で、ヴィレの他にも多くの子ども達を金で買い取り、狭い小屋に監禁して法術の訓練を受けさせていたのだ。
法術師が有する力は、竜の持つ魔力とは違って後天的なものだ。幼い頃からの厳しい訓練によって培われ、十までに才能を開花させないと一生身に付かないと言われている。
だが、血反吐を吐くほど訓練に耐えたとしても、修行をした者全てが法術師になれるという訳ではなかった。体に術路を開けるのはせいぜい三、四十人に一人であり、後の者は数年単位で脱落していった。
ヴィレは攫われて半年ほどで術を扱う感覚を手繰り寄せたが、これは極めて稀な例だった。それに気付いた法術師達はヴィレが使い物になりそうだと知り、訓練を次の段階へと進めていった。
それまでさせられていた汚水掃除や炉の灰掻きから解放され、ヴィレは文字を学ばされるようになった。そしてある程度書けるようになると、今度は体を巡る術力を使って綿布に字を刻むという奇妙な訓練が開始されたのだ。
それは過酷な鍛錬だった。
体内の術路に集中しなければ染みの一つさえ浮かび上がらず、浮かび上がる染みを文字の形にするのは更に困難を極めた。途中で集中が途切れると、染みは端から崩れていき、そうなるともう元の形に戻す事はできなかった。
一日中、綿布と向き合った後は激しい頭痛に襲われ、ひどい時には吐いていた。
今思い出しても、いい思い出など一つもない。
けれどこの度ばかりは、あの法術師達が植え付けてくれた竜の知識をありがたいと思った。
この青年があの時の黄金竜である事は間違いない。
牙を立てられた瞬間に感じた荒ぶる魂の音色を、ヴィレは今も鮮明に覚えていた。だからこそヴィレは、目の前に立つこの青年があの時の竜だと確信できたのだ。
それにしても……とヴィレは心の中で呟いた。
この竜は一体自分に何をしたのだろう。
牙を立てられた時に感じたあの不思議な酩酊を、どう表現すればいいのかわからない。
過去に揺蕩い、未来に堕ちていくような、とらえどころのない感覚だった。
霧散しそうになる記憶を留めようと我知らず手を伸ばして体を密着させれば、流れ込んできた鮮やかな光の奔流が一気に体の中を駆け抜けた。
その残照が、今も体の中にほんのりと残っている気がする。
「じゃあ、何て呼べばいい?」
大人げなくそっぽを向いている青年に、ヴィレは辛抱強く尋ねかけてみた。
もしかしたらこの竜にとってヴィレを助けたのは単なる気まぐれで、人間の小娘と仲よくしようなどという考えはこれっぽちもないのかもしれない。
けれどヴィレにとっては、今、この竜に見捨てられる事は命に関わる一大事だった。
森には凶暴な獣がたくさんいる。あの時一気に殺ってくれたらまだ覚悟のつけようもあったが、今は無理だ。こんなところに一人置き去りにされたら、ヴィレは寂しくて恐ろしくてどうしていいかわからなくなるだろう。
「ねえ、名前を教えてよ」
だからヴィレは食い下がった。
だが、青年は何を考えているのかわからないような目でちらりとヴィレを一瞥し、それから急激に興味を失った様子で森の方へ目を向けた。
どうやらヴィレの無事を確かめた時点で、責任は果たしたと結論付けたかのようだ。
ヴィレは焦った。
青年はそのまま踵を返し、すたすたと森の方へと去って行く。
このまま置いていかれるなど冗談ではなかった。助けるなら助けるで、最後まで面倒をみてもらわないとヴィレの方が困るのだ。
木立の奥に消えようとする青年を追おうと、ヴィレは慌てて立ち上がった。急に動いたために軽い眩暈に襲われたが、それを気にしている余裕はない。
「ねえ、教えてよ。じゃないと勝手に呼んじゃうから……!」
何か興味を引く事を言わないと、青年はこのままどこかに逃げてしまうだろう。竜に変化して空に飛んでいかれたら、ヴィレはもう後を追いかける事もできない。
「待ってったら……! ねえ!」
歩く度に肩で揺れる黄金の髪。
それはある光景を思い出させ、ヴィレはかつて何度も呼んでいたその名前を、思いつくままに舌で転がしていた。
「アンジュ……!」
その瞬間だった。
ヴィレの唇から放たれた言葉は力を大きく孕んで一気に膨れ上がり、背を向けて遠ざかる青年の体の中へとまっしぐらに吸い込まれていった。
「え」
ヴィレはその場に立ち竦んだ。
一瞬ヴィレの見間違いかとも思ったのだが、それはどうやら現実であったらしい。
名が青年の体を貫いた瞬間、青年は雷に打たれたように体を仰け反らせ、驚愕を張り付けた面でヴィレの方を振り返ってきたからだ。
彫像のように整った顔から、見事に血の気が引いている。
「お前よくも……!」
「へ……?」
ヴィレは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「えっと、あの……、本当にアンジュっていう名前だったの?」
「ッ……!」
何か言いかけようと青年は口を開いたが、結局言葉にはならなかった。
嘘だろうというように大きく天を仰ぎ、青年はゆっくりと片手で顔を覆った。そして脱力したように傍の木に寄り掛かり、そのままずるずると草むらに座り込んだ。