長は決断を下す
凛主はその後、彗主と話し合うために客殿へ向かったが、生憎、彗主は朝一番でどこかに出掛けていた。
獅枇の番のアヴィがヴィレに文字を教えていて、獅枇は部屋の片隅で書物に目を通している。
凛主が目配せすると獅枇は小さく頷き、読んでいた書を卓子の上に戻してそっと立ち上がった。
自分の書斎に着くと、凛主は書棚の傍の肘掛け椅子を獅枇に勧め、自分はその斜め向かいの長椅子に腰を下ろした。
「困った事をしてくれたものだな」
開口一番、凛主がそう言い、獅枇は黙って頷いた。
「子どもはこの隠れ処に馴染んでいると聞いたが、そうなのか?」
「ああ」と獅枇は頷いた。
「女達は皆、ヴィレを歓迎している。あの子が来て、この隠れ処は賑やかになった。子どもの笑い声が聞こえる今のこの暮らしを、皆は存外気に入っているようだ」
「子どもの笑い声……か」
凛主は疲れたように眉間を指で揉んだ。
どことなく歯切れが悪いのは、桜姫の心情を慮っているせいだろうと獅枇は推測した。
桜姫は毎晩ヴィレに添い寝をしてやっていて、一番情が移っている。ヴィレを手放す事を悲しんでいる桜姫の姿を見れば、冷静な決断も鈍るというものだろう。
かくいう獅枇も、凛主の姿を認めたアヴィから縋りつくような視線を向けられて、つい心を乱してしまった。
「彗主は全く誓約者を構っていないと聞いたが……」
「日に一回は声を掛けてやっている。後は、あの子のために獲物を毎日狩ってくるくらいかな。今日も獲物を一頭仕留めれば、ここに帰って来るだろう」
「それだけか」と凛主は苦い顔をした。
「彗主が本気であの子を伴侶とする気ならばそれでもいい。だが未だに、あいつは人間を厭っているのだろう?」
「そうだな。ヴィレを噛んだのもただの気紛れだと信じ込んでいる。
あれほど嫌悪していた人間の子どもを殺せずに、結局はこの隠れ処にまで連れてきたというのに、鈍感だと言うか何と言うか……」
獅枇は小さく首を振り、考え込むように視線を落とした。
「俺としては、このまま隠れ処で育てるのもありかと思っている。
女達もあの子を可愛がっているし、あの子もここでの暮らしを喜んでいるようだ。ヴィレをこのまま住まわせると、いっそ皆に宣言してみては?」
凛主は、正気かというように獅枇をちらりと見た。
「俺がそう決断すれば、あいつは子どもを置いてここを出て行くぞ」
獅枇は思わず息を呑んだ。彗主ならやりかねないと思ったからだ。
彗主は自分が人間に囚われている事を認めたくない。
だからヴィレの事は心配要らないとわかった途端、名を呼ばれて何かを命じられる事のないように、そそくさとこの場から逃げて行くだろう。そしてあの子どもの寿命が尽きるまで、この隠れ処には近付かない。
「それではあの子どもが哀れだろう」
凛主が呟くようにそう言った。
「どの人間にも守るべき竜が傍についているというのに、あの子はずっと一人ぼっちだ。それに……番に見捨てられた人間は、いずれ老いていく」
獅枇は「あっ」と小さく声を上げた。その可能性をすっかり失念していた。
「その問題もあったな……」
子どものうちはいいだろう。周囲の大人達にかわいがられて何の不自由もない。
だが恋を知る年齢になっても、あの子の周囲には伴侶となりうる竜も人間もいない。死ぬまでずっと一人で過ごさなければならないのだ。
そして、自分の竜に愛されない限り、あの子は日々老いていく。隠れ処に住まう番らは皆若さを保つのに、自分だけはどんどん年を重ねていくのだ。それはどれほどの孤独をあの子に与えるようになるだろうか。
獅枇は唇を噛み締めた。
彗主が面倒を見られないというのであれば、あの子がここでの生活に馴染む前に人間の世界に戻してやるべきであったのもしれない。
「あの子はこの隠れ処の事情をかなり知ってしまった。今更人里に戻すという訳にも……」
困り果てた声で呟いた獅枇に、「いや」と凛主は首を振った。
「人間どもが隠れ処の存在を知ったとしても、場所を特定する事は不可能だ。だからそれについては心配しなくていい」
「では、ヴィレを人里に戻すと? 確か人間の世界には、親のいない子の面倒をみる施設があったと覚えているが」
「それについては俺も聞いた事がある」
凛主は肘かけに肘を置き、掌を頬に当てた。
「ではその施設にヴィレを預けた場合、彗主はどうすると思う?」
獅枇は変な顔をした。
「どうするも何も……きっと安心するだろう。
あいつは誓約者が死ぬ事を微塵も望んでいない。弱ったあの子が死ぬのを恐れて、この隠れ処に連れてきたくらいだから」
「その通りだ。彗主は安心するだろう。そしてもう、あの子どもには見向きもしなくなる」
凛主は静かに言葉を続けた。
「なあ、獅枇。竜にとっての十年、五十年はあっという間だ。
その間、彗主は好き放題に生きていくだろうが、竜の本能は決して番を忘れる事はない。
ある日彗主は唐突に思い出すだろう。自分が刻印を授けた誓約者は元気に暮らしているだろうかと」
獅枇ははっとしたように凛主を見た。
「あの子が皴だらけの老女となっていても、彗主は別に気にしない。生きているだけで竜の本能が満たされるからだ。
けれど百年が過ぎた頃、彗主にもだんだんと現実が見えてくる。人間の寿命などせいぜい七十年か八十年だ。あの子がどれだけ長生きをしたとしても、その頃にはとうに寿命を終えているだろう。
番がこの世にいないかもしれないと知った彗主は、死に物狂いであの子を探し始める筈だ。探しても探しても生きていたという痕跡すら見つからず、いずれ彗主はあの子が死んでしまったという事実を認めなくてはならなくなる。
番は竜の半身だ。特に彗主は気性の激しい黄金竜で、純血種でもある。誰よりも大事な誓約者を永遠に失ってしまったと知った彗主は、その時どうなると思う?」
残酷な問いを喉元に突き付けられて、獅枇は喘ぐように喉を震わせた。
彗主はおそらく喪失に耐えられない。
衰弱して死ぬか、狂い死ぬかのどちらかだ。
「彗主を失いたくないならば、誓約者が己にとってどれだけ大切な存在であるか、あいつにわからせなければならない。
あの子どもにとってもそれが最善の道である筈だ。あの子は身寄りを持たぬ子だ。孤児院とやらいうところに置いてくれば、当面はそこで面倒をみてもらえるかもしれない。
だが、理由を告げられる事のないままいきなりここを放り出されたら、あの子は深く傷つくだろう。
自分のどこが悪かったのかと己を責めるかもしれないし、この世界やあるいは竜に対して強い憤りを覚えるようになるかもしれない」
「では……、どうすればいい」
獅枇は唇を噛んだ。
「彗主はプライドが高く、束縛を嫌う奴だ。俺が説得したところで、あいつ自身が納得しなければ、決してあの子を誓約者だと認めない筈だ。
勿論、眞名で縛るという方法もない訳ではないが……」
『自分の傍にずっといて』と誓約者が眞名を呼んで命じれば、竜は従わざるを得ない。
「だがそんなやり方で彗主を束縛すれば、あいつは誓約者を憎むようになるだろう。それではあの子も幸せにはなれない」
獅枇の言葉に凛主も頷いた。
「方法は一つしかないだろう。あの子を失ったら自分が生きていけないと、彗主自身にわからせるしかない」
「あの子を失ったら……? それはどういう……」
「彗主自身の手でヴィレを山中に捨てさせる」
凛主は感情を乱す事なく言い切った。
「場所はそうだな……リヨンの森がいいだろう。あそこは鹿が多数生息していて、それを捕食する狼も多い。何よりいいのは、あの森には熊がいない事だ。天敵の熊がいないからこそ、狼はあれだけ繁殖できたんだ」
「……狼のいる森にヴィレを置き去りにしろと?」
呆然と呟く獅枇に、
「狼だけならば、ギゼの香と竜笛があれば一日くらいもつ。あそこには毒蛇の類もいない筈だ」
凛主の返答に獅枇は唇を引き結んだ。
ギゼとは竜の鱗を磨り潰したものに蜂蜜や酢などを加えて練り合わせた薫物で、これを外套にたっぷりと焚き込めておけば狼は決して近付かない。狼は竜の匂いを嗅ぎ、本能的に遠ざかろうとするからだ。
そして竜笛はその名の通り、吹けば竜の鳴き声が響き渡る。こちらもギゼの香同様、周囲の動物を威嚇する事ができた。
「確かに、ギゼの香と竜笛があれば何とかなるかもしれないが……」
「誓約者が死ぬかもしれないという事実を、彗主の喉元に突き付ける必要がある。
強がっていられるのも、一晩がせいぜい限度だろう。喪失の恐怖に囚われて、彗主は必ず誓約者の許に戻って来る筈だ」
「……」
「彗主には私から言おう」と凛主は乾いた声で続けた。
「お前はヴィレの支度をしてやってくれ。ギゼの香を焚き込めた外套と竜笛をヴィレに渡し、後はそうだな……。一日分の水と食料も用意した方がいい。
ヴィレには、森の中ではむやみに動き回らぬよう必ず伝えておけ。下手に動けば危険が増す。擦り傷くらいで済めばいいが、出血を伴うような怪我をしたら取り返しがつかない」
「ヴィレに話をしてみよう。あの子は……怖がるだろうな」
顔を歪める獅枇に、凛主は憂鬱そうに頷いた。凛主とて、この決断が決して平気な訳ではないのだ。
「これを決行する前に、あの子の意思を聞いてやってくれないか。
これから怖い思いをしなければならない事を伝えて、どうしてもあの子が嫌がるようならこの計画は取り止めてもいい。
彗主にとっては惨い未来が待ち受けるが、事の発端は彗主の『噛み』だ。あの子にだけ犠牲を強いるのは酷だろう」
獅枇は何かを言いかけるように唇を開いたが、結局言葉にはできなかった。
惑うような視線を床に這わせ、ただ重い吐息を静寂に滲ませた。




