長が帰還する
桜姫の夫であり、隠れ処の長である凛主が御殿に帰って来たのは、その二日後の事だった。
滞在していた隠れ処を四日前に発ち、最後の日は夜通し空を翔けて妻の許へと戻って来た凛主は、愛おしい妻を驚かせようと布団を捲り上げて中に潜り込み、そこで見も知らぬ子どもと真正面から顔を合わせて仰天した。
「誰だ!」
思わず声を荒げた凛主だが、一方のヴィレだって、ふかふかとしたお布団の中で気持ちよく寝ていたところにいきなり鋭い声を掛けられて、訳が分からない。
とろんとした目で上を見れば、見た事もない黒髪のおじさんが自分の上にのしかかっていて(凛主の外見は人年齢で三十半ばだった)、心臓が飛び出そうになった。
ヴィレは悲鳴を上げて大好きな桜姫の体にしがみついた。
「桜姫、変な人がいる。恐いよぉ」
「ヴィレ、どうしたの?」
腕の中に潜り込んできた子を反射的に抱き寄せながら、桜姫は寝ぼけた声で問い掛ける。
それからふと視線を上げた桜姫は、寝台の上に片足を乗り上げた形で固まっている夫の姿を認めて、「あら」と小さく呟いた。
「凛主、お帰りなさい」
胸の中のヴィレをあやしながら、桜姫はゆっくりと体を起こした。
「桜姫、この人知っているの?」
ヴィレは不安そうに顔を上げ、それから恐々と凛主の方を窺った。そしてばっちり目が合ってしまい、「ひっ」と声を上げてもう一度、桜姫の胸に顔を埋める。
許しもなく女性の掛け布団を捲った時点で、凛主はヴィレの頭の中で変態の括りに分類されていた。
まさか、ずっと家を空けていた桜姫の夫がようやく帰って来ただなんて、思いもつかなかったのだ。
騒がないでねと眼差しで凛主に伝え、桜姫は手でそっとヴィレの髪を持ち上げて首筋の刻印を見せてやった。
凛主は目を剥き、嘘だろうと首を振った。
「こんな子どもにどの馬鹿がやった……」
ようやく他の隠れ処のいざこざを収めて帰ってくれば、見も知らぬ子どもが妻と一緒に眠っていて、しかもその子の首には竜の刻印が与えられている。
少々の事では動じない凛主も、これには頭を抱え込んだ。
久しぶりの我が家で最愛の妻との時間をしっぽりと楽しむ予定だったがそれどころではない。
ただでさえ寝不足で頭もうまく働かないのに、今日は何の厄日だ……と心で呟いた。
一方の桜姫は乱れていた髪を手櫛で撫でつけ、改めて窓の方に目をやった。
東の空がうっすらと明るくなり始めている。夜明けも近いのだろう。
桜姫はヴィレを落ち着かせた後、改めて凛主に紹介した。
最初は怯えた顔で凛主を見ていたヴィレもだんだんと警戒を解いてきて、抱き着いていた桜姫から体を離し、きちんと凛主に挨拶した。
「勝手に御殿にお邪魔してごめんなさい」
凛主は「いや」と手を振り、「こちらでの暮らしに不自由はないか?」と声を掛けてやった。
事情はさっぱりわからないが、取りあえずこの子どもが同胞の番である事は確かである。
ならば庇護する事に異存はなかった。
少し会話をした後、「そろそろ着替えましょうか」と桜姫がヴィレに声を掛けた。
ヴィレは身支度を整え、もう一度凛主のところへ挨拶に向かう。着替えた後は厨処を覗くのがヴィレの日課となっていて、ヴィレはそのままそちらへと向かった。
凛主は続き間に置かれていた床榻にごろんと横になり、疲れたように右腕で目を覆う。
その姿には疲労が透けて見え、帰宅早々、手を煩わせてしまう事を桜姫は申し訳なく思った。
桜姫は夫の傍らに膝をつき、労わるようにそっと左手を両手で包み込んだ。
「何があった」
凛主は桜姫の手を握り返したまま、ゆっくりと身を起こした。
「同胞が噛んだ番を隠れ処に迎え入れるのは構わないが、あの子はまだ子どもだろう? 何故こんな事になったんだ」
六つや七つの子に竜が刻印を刻むなど、隠れ処始まって以来の珍事である。というか、竜の歴史を紐解いても、おそらく例がないだろう。
冷静沈着で知られる凛主も、この事態には動揺を隠せなかった。
「噛んだのは彗主よ」
思わぬ名前に、凛主は眉間の皴を深くした。
「あいつが? まさか……」
彗主は獰猛な黄金竜で、竜至上主義の純血種だ。卑小な人間に囚われたいと願うような竜ではない。
「殺そうとして殺し損ねたと本人は言っているわ。でも、眞名を与えられて身動きが取れなくなったみたい。それで仕方なくここに連れてきたの」
「何だ、その無茶苦茶な行動は……」
凛主は呆れたようにそう呟いた後、「で、何て名なんだ?」とつい尋ねていた。
あの気性の荒い俺様竜が一体どんな名前を付けられたのか、純粋に興味を覚えてしまったからだ。
「アンジュですって」
「……ッ! 正気か?」
凛主は思わず仰け反った。あのプライドの高い雄竜に女の名前を付けるなど、一体どんな猛者だと思わず心の中で呟く。
「私も聞いた時はびっくりしたけれど、問題はそこではないわ。
そういう経緯で嚙んだから、彗主には全く覚悟ができていないの。おまけに辛抱強く子育てができるような性格もしていないし……」
桜姫は小さな吐息を零した。
「気まぐれで噛んだはいいけれど、名を縛られていては逆らうのも苦しいらしく、彗主はあの子から逃げ回っている。子を置いて出る事は許さないと言ったから、一応ここに留まっているけれど。
毎日あの子のために狩りをしているけど、しているのはそれくらいかしら」
「遊びで噛んだ挙句に、世話を他の者に丸投げか? 黄金種らしい行動と言えなくもないが、いい加減けじめはつけるべきだな」
どうしたものか……と難しい顔で考え始めた凛主を見て、桜姫は項垂れた。
「ごめんなさい。誰か使いをやって、貴方に報告だけでもしておくべきだったわ。そのうち帰って来る筈だから、その時に相談すればいいとずるずると問題を引き延ばしにしていたの」
「……あの子が来てどのくらいの日にちになる?」
「ひと月は経っていないわ。せいぜい二十四、五日といったところかしら。あの子はすっかり隠れ処に馴染んで、皆もそれを受け入れているわ」
桜姫は笑みの滲む溜め息を零した。
「きっとあの子のいる生活が楽しかったのね。ここにいる女達は皆、子が望めないから、子どもの元気な笑い声が響く生活が嬉しくて……」
「……」
凛主は押し黙った。
ここの女達は……と桜姫は口にしたが、この御殿の中で誰よりも子を望んでいたのは他ならぬ桜姫だった。
他の女達は、種族の違う相手を伴侶に望んだ時点である程度覚悟を付けている。
けれど桜姫の場合は違った。意思とは関係なく、理不尽な方法で願いを断ち切られた。
凛主と桜姫は元々、同じ火口で育った幼馴染だった。幼い頃から想いを確かめ合い、桜姫に繁殖期が訪れれば子をなすつもりでいたのだが、ある日桜姫は法術師に捕らえられ、魔力を封じる字を体に刻まれてしまった。
今の桜姫は地を這う人間と大差はない。竜の魔力を封じられて、子をなす事も叶わなくなった。
子ども好きの桜姫にとっては、竜姿に戻れなくなった事以上に辛い事であったに違いない。
凛主はそっと手を伸ばし、桜姫の体をそっと胸に抱き込んだ。
「私に知らせなかった事は別に構わない。私の判断を待って、あの子どもを隠れ処に留め置いた事も正しい判断だ。
ただ、このままではいけない。それはわかるな?」
桜姫はぴくりと体を震わせた。
「凛主……」
凛主は今の状態を認める気はないのだ。
嫌だと桜姫は言いたかったが、凛主の言葉が正しい事もきちんとわかっていた。
だから何も答えられなかった。言葉の代わりに、溢れ出た涙が桜姫の白い頬を静かに濡らしていった。
「泣かないでくれ」
凛主は桜姫の頭に唇を寄せ、艶やかな黒髪にそっと口づけた。
「まずは彗主と話をつける。事を進めるのはそれからだ」




