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6 血の海

 その日の夜、俺は咲と食卓を囲みながらもひとつの考えに囚われていた。

 俺の最大の弱点は戦争での経験の不足だ。日清戦争は徴兵前だった。そして徴兵期間が終わったら日露戦争が勃発した。せめて従軍記者に志願するべきだった。いまさら頼んでもその願いは叶わないだろう。戦場での負傷者や死者の様子は想像を巡らせて文章化するしかない。

 そう言えば、咲の父親は日清戦争で戦死したという。どうやって死んだのだろうか。しかし、咲にとっては思い出したくない過去だろう。


「今日は同窓生の医者と話をしてきたよ」

「……」

「おかげで小説の後半の構想が固まった」

「……そうですか」


 咲は一言だけ発すると、あとはひたすら食事を口にし続けている。

 やはり死んだ父親の話を聞き出すのは気が引ける。第一、それで二人の間に溝ができるのは避けたい。


「主人公が負傷するということでしょうか……」

「そうだ」


 原稿が仕上がるたびに咲には読んでもらっている。咲は咲なりにこの先の展開を考えていたのかも知れない。


「ただ……」「私の父は……」


 二人の言葉が重なった。


「私の父は腹部に銃弾を受けて死んだそうです」

「すまん。辛いことを思い出させてしまった」

「いいえ。辺り一面血の海となったそうです。もがき苦しんだ末に死を悟った父は友人に介錯を頼んだそうです」

「そうか」


 話し終わってからも咲は黙々と食事を続けている。『悲しい』という感情は咲の心の中では封印されてしまっているのだろうか。全く表情が変わることはなかった。



 食事を終えて、書斎にこもってからも考え続けた。

 痛みの描写には自信がある。足の指や内臓を筆魔に食われた時の記憶をもとに書けばいいからだ。作品をリアルにするためにはできれば流血のシーンも目にしておきたい。病院へ言った時に話を聞くだけでなく、手術に立ちあわせてもらえるよう頼めばよかった。

 咲は父の死に際を『辺り一面血の海』と表現した。それで多少は俺の想像力が刺激された。しかし……。


「見たい」


 徐々に俺の中で思いが募っていく。時刻はいつしか深夜になっている。隣の部屋の咲はもう寝ているだろう。だが、俺の頭は冴えて、全く眠気が起こらない。


「なんとか見ることはできないか」


 俺の息が徐々に荒くなっていく。もはや頭の中は『辺り一面血の海』という光景を見たいという思いでいっぱいになっている。


「やるしかない」


 俺はゆっくりと立ち上がった。そのまましばらくじっと動かず、聞き耳を立てた。


 隣の部屋からは全く物音がしない。咲はまだ寝ている。そう判断した俺は静かに台所へと向かった。


 暗い。ガラス窓から差す月明かりだけが頼りだ。俺は手探りで包丁を探し出して手に取った。両手で持って見つめると、刃に反射した月明かりが俺の目を射た。ごくりと唾を飲み込む。覚悟は決まった。再び書斎へと向かった。


 書斎の机にいったん包丁を置くと、原稿用紙を床に広げた。いちいち机に向かって書くのはもどかしい。第一、咲に騒がれては困る。手早く済ませなければならない。筆も箱から取り出して原稿用紙の横に置き、筆魔をいつでも呼び出せるようにした。


「これでいい」


 俺は包丁を手に取った。まだ隣の部屋はしんと静まり返っている。咲は目を覚ましていないはずだ。


 左足をそろりと一歩前へ踏み出した。包丁は刃の部分を下にして柄をぐっと強く両手で握りしめた。それをすっと顔の高さまで持ち上げる。心臓の高鳴りは最高潮に達した。


「グッ!」


 ドスッという音を立てて包丁は俺の左の太ももに突き立てられた。やはり声を抑えることは無理だった。焼けるような痛みが走っている。血はボタボタと滴り落ちて床を汚している。痛みに耐えかねて俺は包丁を抜くと床に放り出した。


「ぐあっ!」


 隣の部屋に届かないように必死にこらえるが、どうしても声を上げてしまう。床にうつ伏せになって筆を手に取った。すると、たちまち筆魔が姿を現した。


「おやおや、大変なことになってますな」

「両足をくれてやる。始めるぞ」

「止血をしないでよろしいのですか?」

「うるさい! 時間がないんだ早くしろ!」

「はいはい。今日はまた随分と切羽詰まったお顔ですな」


 俺は自分の下半身に目をやった。これだ。これが血の海だ。まずは主人公の負傷シーンから書いてしまおう。



   ◇ ◇ ◇


 奉天の大地。ここで日露両軍は軍を展開してにらみ合いをしている。まだどちらからも戦端を開くそぶりは見えない。

 異様な緊張感が漂う中、日本軍の一部から悲鳴が上がった。突如、巨大な黒い鳩のバケモノが上空高く舞い上がった。そのまま恐ろしい速さで急降下して日本兵の頭をもぎ取っていく。大混乱に陥った日本軍。兵たちは銃で応戦するが、黒鳩の体に当たって弾けるのみで全く効いていない。

 同時にロシア軍が前進を始めた。このままでは日本軍は潰走する。誰もがそう思った時、主人公がバケモノの真下に駆けつけて抜刀した。それを見て、黒鳩は大地が割れるかというほどのすさまじい咆哮を上げた。

 上空から瞬間移動したかと思われるほどの速度で主人公に襲いかかる黒鳩。しかし、主人公も驚異的な動体視力でそれを捉えてギリギリで身をかわすと、自分の横をすり抜ける黒鳩の体に一太刀入れた。

 (こいつには敵わない)そう察した黒鳩は、逃げ惑う日本兵の一人を口にくわえると上空高く舞い上がった。そしてそれを主人公に向けて振り落とした。

 (受け止めるべきか、それとも……)一瞬の迷いが主人公に隙を生んだ。黒鳩のくちばしが太ももの肉をえぐり取ったのだ。


    ◇ ◇ ◇



 俺は体を横にして、下半身に目をやった。出血が多すぎる。先程から体の震えが止まらない。足は膝から下あたりまで消滅しているようだ。痛みは相変わらず間断なく襲いかかってきて、気を抜けば意識が遠のいてしまいかねない。

(急がなければ)そう思った瞬間、書斎のドアが開いた。


「旦那様!」


 ドアに立ち尽くした咲と目が合った。目の前に広がる惨状を前に咲は両手で口を覆い、息を飲んだ。

 しかし、気を取り直して俺に駆け寄ると、傷口のあたりを両手で押さえた。


「ぐあっ!」


 あまりの痛みに声を出してしまった。しかし、咲はなんとか止血しようと試みる。寝間着も両手も血で真っ赤に染まっていくが、気にはしていない。

 だが、自分の手には負えないと判断した咲は立ち上がった。


「医者を呼んでまいります」

「いい! 血はすぐに止まる。それよりも手伝ってくれ」

「ですが、このままでは……」

「咲、俺の膝を触ってみろ」


 今の咲の表情をそのまま俺は文章にしていく。そうだ。負傷した主人公のもとにヒロインが駆けつけたのだ。筆がするするとひとりでに動いていく。

 咲が目を見開いた。咲の手の中にある俺の膝が徐々に消滅していく。


「このまま脚の付け根まで消える。だから血は止まる」


 咲は俺の言葉にも表情を緩めない。自分の寝間着の帯を解くと俺の脚の付け根を強く縛った。


「咲、書くぞ! 俺の右手を、筆を一緒に支えてくれ」

「でも……」


 俺は再びうつ伏せになって原稿用紙に向かった。

 咲を俺に覆いかぶさると上半身を抱きしめて泣きじゃくった。


「旦那様! もうおやめください! これでは死んでしまいます!」


 その間も筆は動き続ける。主人公はヒロインの応急処置の甲斐もあって一命を取り留めた。黒鳩も刀傷が深く、両者痛み分けの形だ。負傷シーンは一段落した。

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