5 血を欲する病
新居に越してから大きく変わったことがもうひとつある。これまでは俺が雑誌社まで原稿を届けていた。あくまで無名の作家の持ち込みの原稿ということだ。しかし、今は担当編集者が我が家まで取りに来るようになった。専属作家になったということだろう。
担当の黒田は書斎のテーブルについて俺が完成させた原稿を読んでいる。今回の原稿は筆魔の力を借りずに書けた。そもそもこういう恋人同士の心の交流は俺が書きたいと思っていたテーマのひとつだ。おかげで、それほど苦労せずにスラスラと書けたのだ。
「なるほど。ヒロインですか。色っぽいお話になりましたね」
「殺伐とした戦いばかりではメリハリがなくなるでしょう」
「そうですね。これは良いかも知れません」
咲がお茶を持って現れた。
「いやぁ、ありがとう。中川先生、お手伝いさんはどうです?」
「ええ、よくやってくれています。今までがあまりにずぼらだったので、見違えるようです」
「そうですか。それは良かった。しかし、このヒロイン……なるほど」
黒田は咲をちらっと見て、にやりと笑った。「なるほど」などと言っているが、もしかすると俺が咲をモデルにしてヒロインを書くことも計算ずくで紹介したのかも知れない。だとしたら、黒田はなかなかの策士だ。
「ここから先はいよいよ奉天で決戦ですね」
「はい。より強大な敵が現れます。ロシア軍総司令官クロパトキンが」
「黒鳩ですか」
「ええ。いっそ巨大な黒い鳩にしてしまおうと思っています」
「そいつはいい」
黒田は声を出して笑った。
黒田は満足した表情を浮かべて原稿を持ち帰った。これで今月のノルマは終了だ。しかし、続きに取り組まなければならない。
できればここで主人公に怪我を負わせたい。敵の総司令官は強大なのだ。壮絶な戦いの末に両者痛み分けという形にしたい。怪我の看病にはヒロインを当てよう。それで二人の愛は深まる。
だが、問題は負傷するシーンだ。主人公が死んでしまっては元も子もない。しかし、ある程度派手な出血がなければインパクトに欠ける。怪我をするならどこだろうか。
「ちょっと出かけてくる」咲に言い残して俺は外に出た。あらかじめ俺は手を打っておいた。大学の同窓生に医学部を出た者がいる。彼に相談しようと考えついたのだ。
不忍池の西に広がる広大な敷地。そこに帝国大学に付属する病院がある。その中の一室を俺は訪れた。医者の執務室だけあって様々な医学書が棚に置かれている。その多くは外国語のタイトルだ。壁に風景画が掛けられてあるのは彼の趣味かも知れない。港に並ぶ白壁の建物を描いた油絵を見て、青と白のコントラストが美しいと思った。これはどこか南国の港町なのだろう。恐らく旅順港でこの青は望めないだろう。
「やあ、久しぶりだね。中川くん」
「ああ、君も元気そうで何よりだ」
「君は顔色が悪いようだよ」
挨拶もそこそこに俺の体調不良が見抜かれた。やはり医者の目は誤魔化せないか。腎臓と肺を半分失ってから妙に疲れやすいのは事実だ。
「締め切りが近かったんでね。無理をした。ひと目で判るとはさすがに医者だなぁ。ところで、あらかじめ手紙で知らせておいたけど……」
「そういえば、小説家になったんだってね。あまり無茶はするなよ。で、相談というのは?」
「登場人物が負傷することになるのだが、出血が多くなる怪我というとどのあたりの怪我になるだろうか」
「ははあ。その怪我というのは剣による戦いの末かい? それとも銃による怪我?」
「実はバケモノとの戦いなんだ」
「ははは、そりゃ困ったね。俺もバケモノに襲われた患者を診たことはないよ」
そうだ。俺は根本的に考え違いをしていた。派手に出血させたいという考え方は間違っていた。巨大な鳩のバケモノに急襲されたら、どこをどう怪我するだろうか。俺はそこを考えなくてはならない。
「巨大な鳩のバケモノに襲われる。凶器はくちばしだ。例えるなら槍みたいなもんかな。上空から襲われて、寸でのところでかわすが負傷してしまう」
「うーん、それで大量の出血となると太い動脈がある場所、例えば太ももかなぁ」
俺はその場で立ち上がると戦闘シーンを再現してみた。
上空からの急襲を受けた主人公は地上での戦いと同じ感覚で上体をヒラリとかわしたが下半身は残ってしまう。そして右太ももに痛手を負ってしまう。
いけるかも知れない。
「なるほど。ただ、主人公なんで死んでしまっては困るんだ。太ももの動脈が傷ついた場合に死ぬことはあるかな」
「止血処置が早ければ助かるだろうが、遅れると死ぬと思う」
「そうか。どれくらい痛いものかね。もがき苦しむくらい?」
「さて、失血が激しければ、もがく間もなく気を失いそうだが。その辺の文学的な表現は専門外だからなぁ」
「その辺は作者である俺のさじ加減しだいか。ありがとう参考になったよ」
「それは良かった。で、どの作品に採用されるんだい?」
「いずれ本になって出版されると思うよ。出たら贈るよ。あとがきには君への謝辞を載せるとしよう」
「ああ、楽しみにしているよ」




