表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/7

4 戦場の女神

 新居での生活が始まった。

 咲はとにかくよく働く。何も指示を出さずとも部屋はきれいに掃除され、着物は洗濯され、腹が減った頃には食事が運ばれてくる。これまでの男の一人暮らしの自堕落な生活は一変した。

 一人で食事は味気ないので一緒に食べてくれと頼んだが、これが困った。とにかく喋らないのだ。


「今日はさんまの塩焼きですか。咲さん、さんまといえば目黒のさんまの落語は知ってますか?」

「……(こくり)」

「殿様が鷹狩で外出中にふとしたきっかけで庶民が焼いたさんまを食べて、それに夢中になる話だけど、殿様がさんまを食べる様子をどう演じるかで噺家の技量がわかるとおもうんですよ」

「……」

「さんまをいかにうまそうに食べるか。これは小説にも通じる話だと思うなぁ」

「……旦那様」

「ん?」

「私は使用人です」

「うん」

「咲と呼び捨てで呼んでいただけると……」

「ああ、そうか」


 一時が万事この調子だ。表情も全く崩さない。まるで雛人形のような端正な顔立ちなのだが、これでは本当に人形と暮らしているようだ。


 後で大家から聞いた話だが、咲は大家とは親子の関係ではなく、叔母とめいの関係なのだそうだ。咲の父親は日清戦争で戦死し、母親も父の死後まもなく結核を患って死んだ。一人娘だった咲は叔母のもとに引き取られたのだった。叔母は実の娘と同様に育てたつもりだが、咲の方にも遠慮する気持ちがあるらしい。とにかく引っ込み思案な娘になってしまった。


 この娘を見てから自分の作品にもヒロインを登場させようかと考えているが、モデルが全くの無表情では書く側としてはつらい。なんとか色々な表情を引き出したいものだが……。



 翌日。俺は咲を連れて神田の神保町へ行くことにした。書店に寄って、何か使える資料がないか漁ろうと考えたのだ。

 二人乗りの人力車に揺られて移動する。狭い人力車の中では自然と二人は寄り添う形となる。二月も下旬とは言え、風はまだ冷たい。大汗をかいて人力車を引く車夫にとっては快適な風かもしれない。しかし乗っている俺たちにとっては少し寒い。俺は右隣に座る咲の体温を小春日和の太陽のように感じた。


「旦那、神保町といえば本屋がたくさんあるところですね。奥様も本を読まれるので?」

「ああ、そうだな。色々読むようだよ」


 車夫は俺達を夫婦と勘違いしているらしい。俺はあえて否定しなかった。チラリと横を見てみる。咲が赤くなっている。なんだ、表情を変えられるじゃないか。


「最近の女性は大したもんだ。俺なんか読み書きは一応出来ますが、本を買ってまで読もうとは思えませんぜ」

「ははは、本もなかなか楽しいもんだよ。なにしろ他人の人生をその場で経験できるんだから」


 三十分弱の道のりで神保町の書店街に到着した。車夫に駄賃を払い、また二時間後に迎えに来てくれるよう頼んだ。


 書店と言っても様々なものがある。古文書の専門店、辞書の専門店、雑誌の専門店などなど。俺はどの店を目指すというわけではなく、ぶらぶらと歩きながら気が向いたら店に入って物色していく。

 雑誌専門店に入った時にひとつの雑誌が目に入った。

 水辺に生きる三匹のカエルの表紙。二匹は泳ぎ、一匹は岩場によじ登っている。黒一色で描かれたカエルは単調な絵であるが生命感を感じさせられる。

 手にとってめくってみる。『ホトトギス』一月号か。俳句の専門誌だ。乃木将軍は漢詩をたしなむと聞いた。俺の作品の主人公にも俳句くらいは読ませてもいいかも知れない。しかし、なぜ先月号が残っているのだろうか。何か運命的なものを感じて読んでみることにした。そこにあったのは……。



『吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。』



 載せているのは俳句だけではないようだ。猫が主人公の小説だ。しかし、猫に人間を観察させて喋らせるとは。どうしたらこんな発想が生まれてくるのだろうか。俺にはとうてい真似できない。



 俺はその雑誌と今月号も合わせて買い求めて外に出た。周囲には大きな大学があり、食事を提供する店を探すのは苦労しない。一番近くにあった蕎麦屋に入って昼食をとることにした。

 店内には六つの席があり、多くの学生で賑わっている。中でも一番奥に陣取った三人の学生たちは元気だ。盛んに議論を戦わせている。


「このままロシア軍を壊滅させて満州を我が国の領土とするべきだな」

「満州どころか首都を攻略すべきだろ」

「いやいや、油断は大敵だぞ。君はナポレオンがロシアになぜ敗れたか知らないのか?」

「首都まで占領したが、ロシア側が火を放ったために何も現地調達できずに撤退か」

「俺は今すぐにでも講和に持ち込むべきだと思う」

「いやいや、それはありえない。もう一撃加えた後でなければ有利な条件で講和などできないだろう」

 

 俺は彼らとは逆に一番手前の席について天そばを二つ注文した。そばを待つ間に先ほどの雑誌を読もうと取り出す。例の『吾輩は猫である』だ。



『吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。』



 思わず苦笑してしまった。確かにあの過激な学生たちは猫からしたら獰悪かもしれない。食われないまでも扱いはかなり乱暴に違いない。


『吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている』


 これもうまい。猫の前なら平気で醜態を晒してしまうのというのは誰でもありうる話だ。しかも猫に皮肉たっぷりに観察されても嫌味を感じない。むしろ愉快なのだ。

 俺は咲に雑誌を手渡した。

 読んでいくうちに徐々に咲の表情が柔らかくなっていく。


「俺も居眠りしないように気をつけないとな」


 俺がつぶやくと咲がくすりと笑った。ああ、やっと彼女の笑顔を引き出せた。俺は美しい宝石を見出した気分がした。



 自宅に帰ると俺は真新しい机に向かい、原稿用紙を広げた。咲のあの美しい笑顔を文章にしてしまおう。

 しかし、舞台は中国大陸だ。ヒロインを登場させるにしても日本人にするわけにはいかないだろう。となると、満州人か。主人公とは言葉が通じない。だが、それも良いのかも知れない。そもそもモデルの咲が無口だから都合がいい。

 俺は脳内で登場人物を動かし始めた。



   ◇ ◇ ◇


 旅順要塞が陥落しても戦争が終結したわけではない。日本の兵士たちは決戦の地へ旅立つまでの束の間の日を過ごしている。要塞で生き残ったロシア兵たちは捕虜として日本へ送られることとなる。

 主人公は日々の鍛錬を怠らない。夜、他の者が酒盛りをしている中、黙々と刀を素振りし続ける。

 その時、近くの茂みで物音がした。

 主人公は刀を向けるとゆっくりと茂みに近づいていく。


「誰だ」茂みから何者かが飛び出してくることを警戒しつつ冷静に声を掛ける。


 そこから現れたのは、満州の民族衣装ーーチャイナドレスーーに身を包んだ見目麗しい女性だった。


   ◇ ◇ ◇



 ここで一旦俺はひと呼吸置いた。咲の顔を思い出す。隣の部屋へ行けばいくらでも顔を見ることはできるが、彼女をヒロインのモデルにしていると気づかれれば今後自然な表情を見ることができなくなる恐れがある。ここは避けるべきだろう。



   ◇ ◇ ◇


 主人公は女性の美しさに思わず見とれてしまう。

 きめ細やかな白い肌。美しい滑らかな輪郭を描き、輝くような潤いある唇。長いまつげに縁取られた澄んだ瞳はまるで宝石のようだ。つやつやとした黒髪は頭の後ろの中ほどできっちりと結ばれている。前髪は白銀の髪留めで留められて、右から左へ緩やかな曲線を描いて顔の横まで流れている。

「君は何者だ?」

 女性は片言の日本語で答えた。自分は満州人であること。両親がロシア兵によって殺されたこと。自分は復讐のために剣の修行を積んでいること。

 主人公はロシア帝国はすでに悪魔によって支配されており、女性が一人で立ち向かうのは危険だと伝えた。そして、あなたの代わりに自分があなたの両親のかたきを討つと誓った。

 女性は目に涙を浮かべ、ニコリと笑った。真珠のような白い歯が少しだけ唇の間から見えた。


   ◇ ◇ ◇


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ