364.夢■信仰刻歌トラウリヒ
私が教皇になりたかったのは、今思えば教皇が一番偉かったからだろう。
くだらないと唾を吐く者もいるかもしれんがな……上を目指すというのは私のように中途半端に色々と恵まれた人間には必要なことなのだ。
志が高いだなんて崇高なことを言っているわけではない。自らの器を知っているからこそ、その小ささを認めたくなくて、私はこんなものじゃないと抗いたいのだ。子供の癇癪のようにな。
考えてみたまえ。頂きに立てたのなら自分の器は自分が思っているより、もっと大きかったのだと……心の底から勘違いできるではないか。
それがどれだけの安心を生むかを私は知っている。
なにせ教皇が復活するまでの数日だけ私は勝ち誇り、安心に包まれていたからな。
私は凄い。私はできるやつなのだと。
……だがな、それはやはり勘違いなのだ。
今更ながら気付いたよ。
他者の弱みを握り、上を蹴落とそうとしても、その結果しか生まれない。
自らの身になる過程がない。自らが磨かれない。
末路は見ての通り、教皇を利用しているつもりが逆に利用された愚か者だ。
今だってあいつらのことは無謀なガキは馬鹿だと思っているとも。綺麗事を言うガキなど嫌いだ。
だが……だがな……。
ただの成り上がりだと見下していたガキが、教皇を止めた。
愚かな人形だったガキが、目の前で本物の聖女になろうとしている。
奴等の姿を見て気付つこともある。自分の器というのは小さいからと見限るのではなく、磨くべきなのだ。
小さいと思っていた私の器も、磨いてみたら存外大きかったかもしれない。
それに器というのは何も大きさだけで価値が決まるわけではない。
ここにあるのは他人の熱に浮かされた三流の器だが……どうだ?
昨日よりは、少しは見れたものになったんじゃないか。
「“我等は光を超えし者、されど闇から逃れられず”!」
「くっ……!」
アンダースの防御魔術に守られ、エイミーの詠唱が続く。
クヴィリスには聞こえない歌声が国中に響き渡って、クヴィリスは忌々しそうにアンダースを睨む。
「何のつもりだアンダース!!」
「何を不思議がっている教皇! いやクヴィリス! 私は元々、教皇の座を狙っていたことを忘れたか!!」
「これは我と聖女の決闘だというのを忘れたか!」
「いいや違うな! カナタ殿はこの国の人間が終わらせなければいけないと言った! ならば私にも入る資格はあろう! それにだ! 貴様が騎士を狙った時点で一対一など崩れているだろうが!!」
違う道を選んだ者同士による意思の衝突。
偽りでもなく、外面でもなく、初めて心の底からの言葉を対等にぶつけた。
アンダースはその充足感に震えがほんの少しだけ小さくなる。
だが、次の瞬間には――後悔する暇もないほどの嵐がアンダースの恐怖を加速させる。
「ならば死んでも文句はあるまいな」
クヴィリスの言葉と同時に、中庭に展開された光の木々が動く。
それは言うなれば戦場における矢の雨。剣戟による銀色の閃光。
無数の枝が刃となってアンダースを絶命させるために襲い掛かる。
「ひっ――」
アンダースの魔力半分をつぎ込んだ防御魔術はバターのように切り裂かれ、そのまま自壊した。満足に悲鳴を上げる間すらない。
(こ、これが……第四域……)
アンダースとて教皇の側近にして司教にまで昇った男。
一端の魔術師としての知識が、自分とクヴィリスの絶望的な差を嫌でも理解させてしまう。
――無理だ。
魔術の精度が違う。魔術師としての格が違う。義務で学んだ魔術とは一線を画し、磨き上げられている。
少なくともクヴィリスは教皇の座にあぐらをかいていたのではなく、自らの魔術を磨く道を選んでいたのだとわかる実力差がそこにはあった。
防御魔術を切り裂いたついでのように、光の枝がアンダースの頬や腕を切り裂き、血が流れる。より具体的な死のイメージを一瞬で叩きつけられたからか、アンダースの歯がかちかちと鳴り始める。
(こ、こんな死地に飛び込んでいたのか……このガキ共は……!)
自分の体を串刺しに、あるいは細切れにする光の枝を前にしてようやく知る。
ここは生と死の境界線。そして自分などが入ってはいけない場所。
立ち入り禁止の看板を無視して虎の住処に迷い込んだ愚かな子供の気分だった。
「“ゆえに隣人を愛し、共に大地を踏み進めよ”!」
「!!」
どこからか耳に届く歌声と、後ろから聞こえる決死の歌声がその震えを止める。
アンダースは確かにあくどい方法を使い、教皇を引きずり降ろそうとした……決して善人とは言えない大人。
だが、どれだけ腐ってもデルフィ教徒であることに変わりない。
信仰を軽んじる教皇と信仰を重んじる聖女。どちらを選ぶかは明白。
自分の後ろにいるのはこの国の未来そのものと自覚する。
「『なお砕かれぬ砦』!」
「貴様程度の第三域で止められると思うたか! 身の程を知れアンダース!!」
アンダース達を囲む様に、岩の城壁が地面から現れる。
手持ちの中で最も強固な防御魔術をアンダースは展開するが、その城壁は現れるそばから切り裂かれていく。
第三域だろうが、先程の魔術と結果は大して変わらない。
岩の城壁は光の木々の侵攻によってただの瓦礫に変わっていく。
「くっ……ぉ……! お……お……おお……おおおおおっ!!」
「アンダース! 勘違いをしたままデルフィ神のいる場所へ行くがいい!」
瓦礫が切り裂かれると同時に、使い手であるアンダースにも斬撃が伸びていた。
綺麗だった白い衣服はカナタやエイミーと同じように裂かれ、その下からは血が滲み始める。
視界の中で、光の線がいくつも瞬いている。
その光の線全てが自分を殺す刃だと理解しながらアンダースは決して怯まない。
「う……ぎっ……! ぐ、ごっ……があああ!?」
「“愛せ子らよ。蒼天に架かる橋の下、信ずる世界に立つ場所で”!」
痛い。痛い。死ぬ。もう駄目だ。
久しく味わっていなかった本物の痛みと目前まで迫る死に、本能が逃げろと叫ぶ。
顔を守るように突き出した両腕の感覚が痛みと同時にどこかへ消えた。
ああ、情けない。そんな歳でこんなに必死になって何をやっているんだ。
昔の自分が今の自分を見たら恐らく、こう言って嘲笑うに違いない。
……だが、過去からの嘲笑など今のアンダースにはどうでもいい。
(一生分の無謀を振り絞れっ――!!)
歯を食いしばり、目尻に涙を溜めながら二十秒の死に立ち向かう。
今日まで使うことのなかった前に踏み出す意思をこの一瞬に注ぎ込む。
トラウリヒの民であり、デルフィ教の信徒として。
権力争いに傾倒した人生の中でも、その信仰には一切の穢れなし。
生まれてから捧げてきた祈りと時が、アンダースにエイミーを選ばせる。
この国が最も大切にすべきもの。たとえ滅んでも手放してはいけないものを。
「“育め子らよ。神々の祝福をここに、未来への祈りを捧げて”!!」
「アンダースごときが……何故これほどの……!!」
クヴィリスの表情に焦りが生まれる。
何故だ。疑問に答えてくれる声はない。
アンダースの実力は知っている。内政と根回しでしか動けない典型的な司教。
人の弱みを握り、下卑た笑いを浮かべることしかできない無能のはず。
第三域の防御などすぐに崩せる。相手はカナタではない。エイミーでもない。
相手は……ヘルメスでもない!
ただの義務感で魔術を学んだだけの人間のはずなのに!!
(あと……五秒っ……!)
「頑張って! 後一節!!」
アンダースにはもう声も出す余裕もない。
魔力を振り絞り、全霊を懸けて、この場で自分の価値は十数秒を耐える壁。
アンダースはそれでいい、と自らの体を投げ出した。投げ出せた。
両腕の肉が抉れ、腹は裂かれ、足の指が斬られる中……アンダースは自らの信仰が本物であることを誇らしく思う。
「“共に在りし皓皓たる星よ、歩みを止めぬ我等に今”!!」
「デルフィ……神よ……。聞こえます……あなたの歌、が……」
光の枝に眼球を貫かれながらアンダースは歌声を聞きながら力尽きる。
倒れるアンダースの表情にあるのはやり遂げた微笑みのみ。
忘却も、痛みも、死も――魂の根底にある尊厳は、決して奪えない。
倒れるアンダースの陰から、エイミーが現れる。
「何が声……何が歌……! 神などいないと何故わからない!!」
追い詰められたクヴィリスが、自らの根底を泥のように吐き出す。
それが国中に届いている歌声が、一人だけ届かない理由。
クヴィリスの言葉はかつてエイミーが言われ、そして言い返すことのできなかった言葉に似ていた。
“神なんていないわ聖女ちゃん。いたとしても、神は人間を救わない”
だが今のエイミーには、答えがある。
「神はいるかいないかじゃない! 信じられるから神なのよ!!」
信仰の本質とは、神秘的な奇跡などではない。
強要するものでもなく、正統性を示すものでもなく、人の生き方を支えるもの。
人生という終わりのわからない道の歩みを助ける杖。
デルフィ神は宙を泳ぐ夢の神。
生と死の泡沫の先にある場所を、トラウリヒの人々は夢見て歩む。
「【愛よここに、星の抱擁を】!!」
揺るがぬ信仰が失われた魔術を刻む。
信徒達が生きる星の上。彼等の神が遺した願いを乗せて。




