第六十八話 再会と再会と再会
ぽたり。
ぽたり。
水滴が頬に当たる。
妙に生暖かい。
それに――しょっぱ――。
「う……うう……。痛え……沁み……る……」
「シ、ショージっ!」
「う――あ……? マ、マリー……?」
目を開くと、そこには心配そうな顔で目元をごしごしと拭っているマリーの顔があって俺を見下ろしていた。
「お、俺は……? ここは……? ――って!?」
「……まだ動かない方が良いよ?」
マリーの笑顔は今まで見たどれよりも優しかった。
「《治癒》の魔法はたっぷりかけてもらったけど、痛みは残るだろうって。それに……もうっ、強くもない癖に意地張っちゃってさ。らしくないよ、馬鹿ショージのくせに」
「い、いや! つーか、これ、膝まくら――!?」
柔らか……っ!
それに、何ていうか……マリーの良い匂いが。
慌てて起き上がろうとして、油断した脇腹に激痛がぶり返してきて思わず顔を顰める俺。それを見て、マリーは苦笑を浮かべて優しい目をして首を振った。
「遠慮しなくていいの。それとも……嫌だった?」
「い、嫌じゃ………………ない、けどさ」
「ん」
マリーは満足げに頷いた。
俺は恐る恐る首を動かして、改めて周りを見た。
「ここは、牢屋か何かなのか?」
「そう。いるのはあたしたちだけ……じゃないんだけどね?」
視界の限られた俺には薄暗い闇ばかりで何も見えていない。見えるのは、がっちりと嵌った鉄格子と、冷たく白く粉のふいたような石壁と、何だか妙にどきどきしてしまうマリーの表情くらいだ。
あと、胸。
何だよ。
下から見上げているせいなのか、マクマスさんが言ってたより意外とあるように見え――。
「ようやく気が付いたんだね、勇者クン♪」
「違――っ! 見てない見てませんから!」
……ちょっと待て。
「マ、マクマスさんっ!? い、いるんですか!? 無事だったんですね……!!」
「言っただろ? 必ず後から追いつくからって」
何とか起き上がろうとひっくり返された亀よろしく手足をばたつかせているとマリーがそっと背中を支えてくれた。正直言って、初めての膝まくらは実に快適で名残惜しくて堪らなかったのだが、もう居ても立っても居られなかったのだ。
「こんなところで僕は死なない、そうも言った筈さ。君も無事で良かった!」
もう一度声が聴こえ、即座に顔を向けた俺は、
「………………って、どちらさまですか?」
呟いてしまった。
「酷いな、勇者クン♪ 僕だって言って――」
「い、いやいやいやいや!!」
冗談にしては手が込んでいてタチが悪い。
そこにいたのは顔中――だけじゃない、全身ぶくぶくと膨れ上がった二枚目とは程遠い、どころか真反対に属するであろう実に残念な容姿をした女連れの筋肉ダルマだった。コレチガウ。
「ん?」
……見覚えがある。
「あなたはもしかして……女神・ヌヌイですか?」
「う――ううう……。そう……です……けど」
「ということは?」
「そういうこと♪」
俺とマリーにあてがわれた牢の斜め前にいた直視するのも躊躇われる変わり果てた容姿になってしまったマクマスは、辛うじて元のままの声音で歌うように応えた。やっぱりこのブサイクがマクマスさんなのか。
「どうやったらそんな姿になっちゃうんです!?」
「ああ、教えたじゃないか。アナフィラキシーショックって奴さ。実際、僕は危うく死にかけたんだ」
あの後、女神たちに小突かれ誹りを受けていたヌヌイをその身一つで庇い、その結果、ありったけの《女神の加護》を授かってしまったんだそうだ。増援に駆けつけた女神たちがさすがに見かねて制止した時には、すでに心拍停止状態だったらしい。
「ヌヌイには感謝してもしきれないよ。ここまで回復したのは、彼女の熱心な看病のおかげなんだ♪」
「そうだったんですか……」
代わりに俺の方も一通りの説明をしておく。
彼がこんな目にまで遭ったというのに、肝心の俺が魔王を倒さないという選択をしたのだという事実を話す段になるとさすがに心が痛んだが、それを聞き終えたマクマスは、怒るどころか、にこり、と笑ってさえみせた。
「それが君の選択なんだろ? いいじゃないか♪」
「済みません……」
「いいと言ったろ? 胸を張りなよ、勇者クン♪」
ただでさえ何処が目だかも定かでない顔でくしゃりと笑うと、マクマスは隣の牢に視線を泳がせる。
「そんなに自分の選択に自信が持てないというのなら、一応、隣の彼にも聞いてみたらいいと思うな」
「えっ」
まさか!?
もしかして――!
「カ、カラフェンさん? そこにいるんですか?」
「ええ。ですが――」
その懐かしくもある落ち着き払った口調を耳にして、俺は鉄格子の間から声のした牢の中の薄闇に懸命に眼を凝らしたのだが、
「ちゅき……(はあと)」
……おい。
「何、いちゃついてるんですか、あんた」
「私が聞きたいですよ……正直、困っているので」
そこには狭い牢屋のサイズには明らかにミスマッチな立派な体格をした女性が、でーん、と胡坐をかいて陣取っており、彼女の組んだ足の間に、ぽつん、と寝かされて、されるがままに全身をくまなく愛撫されてなんかいる偉大なる魔法使い、カラフェンがいたのである。
「ん?」
……こっちも見覚えがあるぞ。
同時に嫌な予感もした。
「もしかしてその人……ラダエラさんですか!?」
「実はそうなのです」
こっちもまた、事の経緯を細かく説明してくれた。
俺たちを送り出した後、カラフェンとラダエラは互いの個性と能力を駆使して激闘を繰り広げた。次次と襲いかかるラダエラの華麗なる剣技によって、遂にカラフェンの身体は六十四分割にまで細切れにされてしまい、いよいよ決着かと思われたその時、つい出来心でカラフェンが浮かべてしまった晴れやかな笑顔(?)に、これまで恋愛感情とは全く無縁だったラダエラの無垢なハートは見事に撃ち抜かれ、逆お姫様抱っこの状態でここまで連れてこられたんだそうだ。
ここまでしても死なない男となら添い遂げてもいい、それがプロポーズの言葉らしい。
「それは何て言うか……災難でしたね」
「い――いえいえいえ」
牢屋が別で離れていることを幸いと、俺が失礼混じりの科白を漏らすと、カラフェンは首を振った。
「私とて、彼女のことは嫌いではありません。何たって記録更新ですからね! それは半分冗談としても、あそこまで思い切りの良い太刀筋は受ける方も気持ちが良いものなのです――とっても!」
解せぬ。
半分どころか全部冗談にしか聴こえません。
「それでも……お二人とも無事で良かった!」
「だね♪」
「ですね」
改めて、顔を見合わせて笑いあう俺たちである。
が、そこで一人マリーだけが浮かない表情をしていることに気付いてしまった。
「……何だよ?」
「喜んでるところ悪いんだけどさ……まおたんがいないの。途中で離れ離れにされちゃって」
「マジか」
「さっき話してくれた、魔王のことですね?」
カラフェンが確認する。
俺とマリーが神妙な顔つきで頷き返すと、カラフェンは大きく頷いた。
「それはまずいですね……改めて確認したいのですが、アルヴァーはこう言ったのですね? ――二度と転生できないように魔王は直接始末する、と」
「そうです。合ってます」
「なるほど」
何かを思い出すように、カラフェンは目を閉じてしばし考え込む素振りを見せる。
やがて、その目が開いた。
「ならば、まだチャンスは残っていますよ。魔王はまだ生きているでしょう。間違いありません」
「ほ、ほんと!? 良かった……!!」
「喜ぶのはまだ早いと思いますが――」
カラフェンの表情は固く強張っていた。
「英雄神・アルヴァーは、きっと《封魔の儀》に最適な日取りを待っている筈です。太陽と月が交わる昼でもなく夜でもないその日を。その日だけなのです。神が直接魔王に審判を下せるのは。そしてひとたび《封魔の儀》が執り行われてしまえば、もう二度と魔王がこの《ノワ=ノワール》に転生することはないでしょうね――」
最後に、俺をじっと見つめてこう締め括った。
「永久に、この世界はこのまま、です」
「そ、そんな……っ!」
マリーがわななく声で悲鳴を漏らした。
「くそっ!」
俺は吐き捨て、縋るような目で訴えるマリーの手を両手で包み、励ますように握り締めてからふらつく足で立ち上がった。
「それじゃ駄目なんだ……! それじゃ何も変わらないし、何も終わりになんてならない! ……カラフェンさん、その太陽と月が交わる、昼でもなく夜でもない日って、いつなのか分かりますか!?」
「恐らく――」
カラフェンはしばし考え込んでから、
「今日、ですね」
「え――」
途端に膝が笑ってしまい、俺はへなへなとその場に座り込んでしまった。
時間が――足りない。
もう何をするにも、今日の今日じゃどうにもならない。策を考えるのにだって時間は必要だ。ましてやそれを実行するためには準備も打ち合わせもしなければならない。
(もう、駄目……なのか?)
諦めかけたその時だった。




