第三十四話 で・き・ち・ゃ・っ・た
と言っても、さっきのクロスを敷いてしまえば後は細かい備品とか飾り物を並べるだけなので一気に片付けてしまおう。
元いた世界でのイベントとは違い、お釣り用の小銭を大量に収納したコインケースだとか、それを隠す目的も兼ねた棚なんかも不要だ。サークル名とスペースナンバーが書かれた卓上ネームプレートを置いて、値札とちょっとした紹介分を書き付けたPOPを立て、思いつきで自作したサークルの名刺――書かれているのは『まりりー☆』という作者名である――をイミテーションの銀の小皿の上に扇状に並べて置いてみた。
あとは――。
「まりりー☆先生?」
ずっと放置してたマリーの方を振り返ると、そこにある丸くなった背中が悪戯を見つけられてしまった子供のように、びくっ!、と震えた。
「もうこっち、終わったんだけど?」
「う――」
「?」
何だか様子がおかしい。
「うううううー!」
「う……ぇ。どうした!?」
と、突如押し殺した呻き声が聴こえてきたので、大急ぎで駆け寄る。
すると――。
「出来ちゃった……出来ちゃったのよ……!」
んなあああああ!
そんな馬鹿な!?
俺、何もしてないんだけどっ!
「ほら……見て……!」
反射的に両手で顔を覆い――その指の隙間から覗き見た先にあったのは本だった。
俺たち『まりーあーじゅ』が頒布する初めての本。
カラー原稿はもちろん俺もチェックしていたが、それでも、こうして実際に一冊の本になっているのを目の当たりにすると、じわじわと感慨めいたこそばゆいような誇らしいような感情が湧いてくる。
「そっか。出来ちゃったな」
「う……ん……!」
何だかマリーの目元が赤くなっている気もしたが、見なかったふりで、ぽん、ぽん、と頭を撫でた。
「表紙のイラスト、凄く恰好いいよね。中は?」
「う……ん、大丈夫……だった……」
「じゃあ、こっちの束になってる奴の封も切って並べちゃうよ? 全部並べる必要はないだろうし、半分もあれば大丈夫じゃないかな」
仕方ない。
もう少し浸らせてやるか。
俺の方もすぐにも読んでみたい衝動に駆られはしたものの、最後の仕上げに取り掛かる。
受け取った本の束にかけられている封を切って、まずはその一〇冊をクロスの上に並べていく。半分を山に、半分を扇状にして並べてみた。
だが、それでも頒布物が一冊だけなのでスペースに余裕があり過ぎる――そう思ったので、追加で束をもう一つ、あとバラで入っていた予備の数冊をそこに加えてみた。何でも、印刷工程での不測のトラブルに備え、注文数よりも少し多めに納品されるのが定番らしい。今回は三冊も余分に入っていた。
そのうちの二冊を取り除け、片方にはビニール製のブックカバーをかけてから、黒のマジックで『見本――ご自由にお読み下さい』と書かれた小さめのPOPを貼って、手に取りやすい位置に戻した。もう一冊の裏表紙の片隅には、主催者側から郵送で送られてきたシールを貼り、スペースの邪魔にならない端っこの位置に置いておく。シールには予めサークル名やスペースナンバー、作者名なんかが書いてあり、これを見本誌として巡回しているスタッフに提出しなければいけない決まりらしい。その上に重ねて置いてある、サークルカード、と呼ばれる名刺サイズの厚紙もそのための物だ。
一通りの段取りは葵から聞いていたので、慌てずに全て済み、ほっ、とした。
今回も参加していると聞いたから、直接会って御礼を言っておきたい。
「終わったー……。多分」
軽い疲労感とともに、ようやくギシつくパイプ椅子に腰を降ろしてぼんやりしていると、大きなトートバッグを肩に掛け、周りを見回すような素振りで近づいてくる女の人を見つけた。やがて、俺たちのスペースの前で立ち止まり、声がかけられる。
「参加登録、済んでますか?」
「あ! まだです! お願いします!」
準備したての見本誌とカードをクロスの上で、すす、と滑らせるようにして差し出すと、小さく一礼してから確認を始める。
ちょっと緊張するな……。
「ええと。頒布するのは、これ一冊だけですか?」
「はい!」
「では、これで参加登録は終わりです」
ずっと、むすっ、とした顔付きをしていたスタッフの女性は、そこでほんの少しだけ微笑んで言った。
「参加は初めて――だよね? じゃあ今日は、思いっきり楽しんでね!」
「は………………はい!」
やっべえ。
ちょっと涙ぐみそうになっちゃったよ。
そのまま天井を見上げるようにして、すんすん、と鼻を鳴らしている俺に、横から舞亜さんが声をかけてきた。
「そろそろよ?」
振り返り、ぐい、とマリーの襟を引っ張る。
「ほーら、まりりー☆ちゃんも座って座って!」
「う……は、はい?」
「?」
その時、状況も分からず仲良く肩を並べてちんまり座っている俺たちの頭上にあるスピーカーからアナウンスが響き渡った。
『本日は――第一〇回――コミック・ゴッド・マーケットにご参加いただき――誠にありがとうございます。只今定刻となりましたので――これよりイベント開始となります。イベント終了まで――皆様ルールを守ってお楽しみ下さい』
すると、一斉に割れんばかりの拍手が始まった。
「ほらほら。あなたたちも」
戸惑い引き攣り気味の顔を見合わせた俺たちの表情も、次第に緩んで笑顔になっていく。最初はおずおずと、やがて力強く俺たちもその拍手に加わった。
遂に始まる――。
そっと差し伸べられたマリーの手を、きゅっ、と躊躇うことなく握り返し、俺たちの初めてのイベントは厳かに始まったのだった。




