二人分の帰り道
事故指揮者の腕章を外す時、白瀬さんは一人だった。
海浜迷宮の管理室では、次の当直が通常席へ着いている。白瀬さんの決裁画面も、赤い事故表示ではなく灰色の閲覧画面へ戻っていた。
彼女は腕章を机へ置かず、壁の保管箱まで返しに行った。
名前札を抜き、空いた差込口を確認する。
事故指揮者がいなくなったのではない。
事故指揮を終了し、通常の責任系統へ戻したのだ。
俺の作業机は、最初から管理室になかった。
遅れて着いた人間のために席を作らず、引継ぎを終えた人から帰る。それも復旧の一部だった。
小暮班長は、俺の工具箱を連絡車の荷台へ載せてくれた。
「持ち主より先に帰すぞ」
「ありがとうございます」
「礼は朝番に言え。朝から邪魔だった」
工具箱を置いたのは俺だ。
事故中に誰も開けていない封印が残っている。明日の通常当直で、中身と持出記録を合わせてから使う。
今日は持ち帰らないことにした。
白瀬さんが管理室から出てきた。
腕章はない。事故端末も返却済みで、肩にはいつもの仕事鞄だけが掛かっていた。
「駅まで、連絡車が一台出ます」
俺が言うと、白瀬さんは海側広場を見た。
「歩きませんか」
駅までは、港沿いの道で二十分ほどだった。
急ぐ理由はない。
次の潮まで現地へ残る必要もない。再停止条件は当直へ渡り、俺たちが外から画面を見続ける担当ではなかった。
「歩きましょう」
連絡車へ向かう前に、言っておくことがあった。
「白瀬さん。戻るまで待たずに止めてくれて、ありがとうございました」
白瀬さんは、仕事として当然です、と流さなかった。
「三箱と午後便の損失を、俺の不在のせいにせず自分の決裁へ付けたこともです。俺が同じ結論を出すか確かめずに、現地の根拠で決めてくれた。あれで班の判断になりました」
「礼を言われるのは受け取ります」
白瀬さんは言った。
「ただし、次に宮前さんが同じ席にいて、停止条件を外していたら、私は反対します」
「その時もお願いします」
不在時だけ代わりに背負う人ではない。
俺がいる時にも、別の責任で止められる人だった。
連絡車には先に帰る朝番を乗せた。
二人で海側広場を出る。
昼に観測班が使っていたデッキは、海側半分まで開いていた。一般利用は翌朝からだが、地上の潮位板は通常の観測者へ戻っている。
港の作業員が一人、通りがかりに板を見て、自分の紙へ時刻を書いた。
自動警報が戻っても、人が見る仕事を消していない。
海から短い音が来た。
防波堤へ当たる波と、砂の下を通って海浜迷宮へ返る音が、少しずれて重なる。
事故中の重い息とは違う。
いつもの潮を俺は今日初めて聞いたが、現地の人たちはその音の前後を記録に残していた。
港沿いの食堂では、夕方の仕込みが始まっていた。
止まっていた午後便の荷を待たず、今日ある材料だけを書いた札が店先に出ている。欠品した品は売り切れではなく、《本日入荷なし》になっていた。
事故を隠す表示でも、必要以上に騒ぐ表示でもない。
別の店から、焼いた魚の匂いがした。
そこで、昼から何も食べていないことを思い出した。
国の聴取室で出された弁当は、開始が遅れたまま持ち帰りになった。列車の中で食べるつもりだったが、事故ミラーを見ていて鞄から出していない。
「白瀬さん、昼は食べましたか」
「補償表を作っている時に、栄養補助の飲料を一本」
「食事ではないですね」
「宮前さんの弁当も、まだ鞄の中です」
見られていた。
「どうして分かったんですか」
「聴取側の休憩記録です。事故指揮者には、帰着可能時刻と一緒に表示されていました」
俺を心配して画面を見ていた、と受け取るには、情報の用途が正確すぎた。
帰還要求を出さない判断に必要だったのだろう。
それでも、弁当を開けなかったことまで覚えていた。
「帰る前に、何か食べませんか」
俺が聞いた。
白瀬さんはすぐ返事をしなかった。
仕事の条件を考える時より、少し長い間だった。
「食べます。ただし、今日の分は事故後の休憩です」
「はい」
「次の約束には数えません」
次の、という言葉で足が一度遅くなった。
白瀬さんも止まらず、歩幅だけをこちらに合わせた。
「今日、宮前さんが戻る時刻を何度も見ました」
港の音に消えない声だった。
「呼び戻すためではありません。戻る前に、こちらでどこまで閉じるか決めるためです」
「分かっています」
「事故中は、それでよかった。でも、事故が終わった後まで同じ画面で会うのは嫌です」
俺は返事を急がなかった。
白瀬さんは、事故指揮を終えたばかりだ。
危機直後の安心を、別の意味へ都合よく変えるべきではない。
ただ、彼女の言葉は事故中の勢いではなかった。
次の話を、仕事ではない時間として分けている。
「では、次は食事のために時間を取りましょう」
「『次に現場が一緒になった日』ではなく?」
「勤務表で空いている日にします」
「反省会も、標準化の打合せもなしです」
「はい。資料も持ちません」
答えてから、少し足りないと思った。
頼まれた条件へ合意しただけでは、俺がどうしたいかを返したことにならない。
「俺も、行きたいです」
白瀬さんの歩幅が、元へ戻った。
「では、約束です」
「ただ、急な事故が入ったら」
仕事の癖で、先に中止条件を出していた。
白瀬さんは困った顔をしなかった。
「本当の事故なら、仕事を優先します」
「はい」
「でも、資料が終わらない、念のため待機する、誰かが残っているから帰りにくい、は別です」
今日、事故を閉じた後まで管理室へ残れば、まだできることはあった。
図面改訂の下書き。
国へ出す記録の整形。
明日の予約変更の確認。
どれも担当と期限があり、俺たち二人が今夜続ける必要はない。
仕事が残っていることと、帰ってはいけないことを同じにしない。事故の後だけでなく、普通の日にも必要な判断だった。
「急な事故で中止したら、その日のうちに次の日を決めます」
俺は言った。
「予定を消したままにしません」
白瀬さんは、少し考えてからうなずいた。
「それなら、仕事と両立しています」
約束を守るために事故を軽くするのでも、仕事のために私生活を毎回なくすのでもない。
止める条件と、戻す条件を二人で決めた。
まだ、関係へ名前を付ける言葉ではなかった。
事故を閉じた褒賞でもない。
仕事で同じ場所に集められなくても、二人で会う時間を先に取る。その小さな予定が一つ決まった。
駅前の店に入る前、白瀬さんが勤務予定を開いた。
まだ確定前の週がある。
「夜間当直の翌日は外しましょう」
彼女が言った。
「翌日でも行けます」
「行けるかではなく、食事を途中で眠らずに終えられるかです」
正しい反論だった。
「では、当直のない日の翌日で」
「場所は?」
港の店を見回した。
今日の食事なら、近いところがいい。次の約束まで事故現場の近くにする必要はない。
「海の見えない店にしますか」
「それは条件に入れましょう」
白瀬さんは予定表へ、《夕食》とだけ入れた。
事故番号も、参加部署もない。
参加者は二人だった。
俺の端末へ招待が届く。
承認を押す前に、日付と当直予定を確認した。仕事外の約束だからこそ、無理な時間に入れたくなかった。
空いている。
《参加》を押した。
予定表はそれで閉じた。
店を探す作業へ名前を変えて続けることもしなかった。今日は今日の空腹を片づけ、次の店は後日、どちらかが一つ候補を出す。候補を出した方の好みだけで決めず、嫌いな物を一つずつ伝えることにした。
「宮前さんは、食べられない物は」
「特にありません。勤務中に時間がかかる物は避けますが」
「それは好みではなく作業条件です」
言われて、考え直した。
「熱すぎる物は、急いで食べると味が分からないので苦手です」
「急いで食べなければいいのでは」
「そうですね」
仕事の外では、解決が簡単なこともあるらしい。
白瀬さんは、香りの強い葉物だけは避けたいと言った。事故中に臭気の方向を何度も照合した日の話ではなく、昔からの好みだった。
役職も専門も関係のない情報を、俺は紙の手帳へ書かなかった。
覚えておくことにした。
今日の店では、温かい定食を二つ頼んだ。
白瀬さんは魚で、俺は煮込みだった。
食事の間、事故票は開かなかった。
話したのは、白瀬さんが辛い物を平気な顔で食べることと、俺が休日にも腕時計の時刻を三分早めていることだった。
「それ、休日に役立ちますか」
「待ち合わせには遅れません」
「三分早いと知っているなら、時計としては正しい時刻へ直した方が」
「昔からこれで慣れているので」
設備なら補正記録を残せと言うところだが、自分の時計になると反論が弱い。
白瀬さんは笑わず、次の食事までに直るか観察します、と言った。
店を出ると、港の夜間灯が点いていた。
海浜迷宮の受付は閉館時刻を迎え、明日の予約表示へ切り替わっている。
駅への残り道は、仕事の帰路ではなくなっていた。
二人分の予定が、その先に一つある。
改札の手前で、白瀬さんの業務端末が震えた。
事故警報の音ではなかった。
真央さんから、原本照合の完了通知が来ていた。
《海浜迷宮の局所復旧後に入った山は、沖合側から海浜側へ入った向きを確認。港湾圧との同時刻相関あり。発生源は未確定。海浜側の固着再発なし》
続いて、港湾局から記録照会が届いた。
同じ時刻、港湾海底迷宮の圧力計が上限まで振れ、現在値は通常へ戻っている。現地事故の通報ではなく、原本時刻を突き合わせるための連絡だった。
白瀬さんは海浜迷宮の事故票を開き直さなかった。
別の照会として、《港湾海底迷宮・記録担当》への連絡を選んだ。
沖合側から入った山の原本と、港湾海底迷宮への時刻照合だけが、閉じた事故の外に残った。




