獅堂の撤去線
撤去を止めた運搬種は、人を襲わなかった。
だから獅堂さんは、一本も倒さなかった。
北西共同搬送迷宮の入口で、小型の魔物は空の前肢を抱え、仮設枝道と出口の間を往復していた。作業員が白線へ近づくと壁際へ退き、人が下がると同じ場所へ戻る。
攻撃性はない。
退路は使っている。
「倒せるかどうかを聞くな」
獅堂さんは護衛員へ言った。
「こいつらを散らした時、どこへ逃げるかを見ろ」
運搬種の後ろには正規路の棚があり、横には給食センター側へ返る細道がある。追い払えば、群れが作業員の背後か、停止中の正規路へ入る可能性があった。
獅堂さんは作業域を広げず、全員を入口外へ戻した。
「宮前、あの白線は誰の線だ」
「現地の立入線です。昨日までの観測位置を示しています」
「施工班は黄色の帯を持ってきた。護衛班の地図では、退路が青い矢印だ。六班が同時に動いたら、どれを越えたら退く」
答えは班ごとに違っていた。
市営班の白線は、通常巡回で一般職員を止める境界だった。
施工班の黄色帯は、資材を置かない作業通路を示す。
探索者の青矢印は、魔物が出た時の退避方向だった。
どれも間違いではない。
同じ夜に並べれば、一本の通路へ三つの意味が重なる。
獅堂さんは、入口前にいた六人へ聞いた。
「今、警報が出たらどこへ下がる」
施工員は黄色帯の外を指した。
朝倉さんは白線の外を指した。
護衛員は青い矢印の先にある折れ角を指した。
全員、安全側へ下がるつもりだった。
止まる場所は三つに分かれた。
獅堂さんは床の表示を全部消させなかった。通常巡回の線も、資材通路も、翌日から要る。それぞれの札へ用途を書き足し、その上で撤去作業中だけ使う線を一本引いた。
色は黄色だった。
だが、色だけにはしなかった。
床へ置く札の縁を深い鋸形にし、低い位置には同じ形の布を垂らした。煙や魔力霧で床が見えなくても、手前の標識で戻る側が分かる。通路の曲がり角には、出口方向へだけ触れて分かる平らな面を向けた。
施工班の一人が、点検灯の下では白線と黄色線の差が小さいと申告した。
明るい会議室で作った見本では分からなかったことだった。
獅堂さんは申告した人を別の配置へ移さず、迷宮側の灯りを通常作業時まで落として見本を置き直した。黄色の色名を呼ばず、鋸形の手前、平らな面が出口側、と指示する。
「色が見えるやつだけで回る線なら、煙が出た時に全員見えなくなる」
床が暗くなると、俺にも遠い線の色は分かりにくかった。
鋸形の影は残った。低い布は、空気が出口へ抜ける方向も示した。
施工員は自分の位置から線を確認し、出口へ背を向けたままでも、足元の標識の平らな側へ一歩下がれば戻る方向が分かると答えた。
真央さんは見本の正面だけでなく、作業員の目線の高さと、床すれすれの二方向から撮った。中央で見える線と、現地で見える線を同じにしなかった。
通信が切れた場合も試した。
音声合図を止め、安全担当が手元の短い灯りを二度伏せる。作業員は原因を尋ねず、工具を置いて鋸形線へ戻った。工具を持ち帰る時間より、人数を先に閉じる。
「聞こえなかった人は、聞こえる人を待たない」
獅堂さんは言った。
「線か合図のどちらかが崩れたら、自分で戻る。二つとも見えない位置は作業域にしない」
「黄色の鋸形より奥が作業域。越えて入る時は班長が人数を数える。退避を聞いたら、理由を待たず全員ここまで戻る」
獅堂さんは線の外へ立った。
「護衛が倒せる相手でも、魔物がこの線を横切ったら戻る。標識が一つでも倒れたら戻る。出口までの通路へ資材がはみ出したら、作業を始めない」
「護衛が中に残る場合は?」
朝倉さんが聞いた。
「保守員は戻る。護衛が残るかは俺たちが決める。その判断を見に戻るな」
戦えない人が、戦況を読んでから逃げる線ではなかった。
自分の目で、越えられたか、倒れたか、塞がれたかを判断できる線だった。
白瀬さんは、六班の開始票へ同じ文を加えた。
撤退命令は獅堂さんと各班の安全担当が出せる。ただし、線の異常を見つけた人は役職を問わず作業を止められる。再入場は、線を引き直しただけでは認めず、人数、退路、魔物の位置を別の担当が確認する。
「作業が遅れた場合の判断は、こちらで持ちます」
白瀬さんが言った。
「線の内側で取り返させません」
撤去が六班同時なら、一班の遅れはほかの停止時間にも影響する。
だからといって、遅れた班だけ退路を狭くして帳尻を合わせれば、共通線にした意味がなくなる。
獅堂さんは北西共同の入口で、最初の退避訓練を行った。
仮設枝道へは触らない。作業員二人が空の工具箱を持ち、黄色の鋸形線を越えて、予定位置まで歩く。護衛は内部扉と出口の間へ立つ。朝倉さんは入口外で、入った人数と標識を記録する。
一度目は、戻る途中で工具箱の角が低い標識へ当たった。
布が倒れ、出口側の平らな面が床へ伏せた。
「続けるな。全員、線外」
獅堂さんの声で、作業員は標識を直さず戻った。
線を直すために立ち止まれば、その人が退路を塞ぐ。
人数確認の後、資材担当が工具箱の運び方ではなく、運搬幅を見直した。大きな箱を一つ持ち込まず、必要な架空計器と封止材を別の細い容器に分ける。余った資材は入口外へ残す。
二度目は、内部扉の向こうで運搬種が動いた。
定点映像の端から一匹が出て、黄色線のすぐ奥で止まった。
安全担当が声を上げるより先に、朝倉さんが開始票を伏せた。
「線へ近づいています。戻ってください」
作業員は魔物の種類を聞かずに戻った。
運搬種は線を越えなかった。
訓練だけなら、続けられたかもしれない。
それでも、戻る判断を取り消さなかった。現地責任者が映像と退路を確認し、群れが内部扉側へ戻ってから再入場を出した。
朝倉さんは、宮前なら入ったまま見られる距離だったかもしれない、とは言わなかった。
俺は、線の外からでも取れる記録を受け取った。戻る前と後で、床の細い擦過音は変わっていない。人が入ったことへ群れが反応した可能性はあるが、仮設枝道の負荷変化までは起きていなかった。
線を越えなかったことで、訓練の動きと設備の反応を分けられた。
三度目で、作業員は予定位置まで入り、合図だけを確認して戻った。
速さは一度目より遅かった。
倒れた標識も、取り残した工具もなかった。
「これを六現場で同じにする」
獅堂さんは言った。
「地形まで同じにするんじゃない。線の意味と、戻った後に誰が数えるかを同じにする」
真央さんは、訓練映像から派手な退避の場面を切り出さなかった。線が倒れた時に誰も直しに戻らなかったこと、朝倉さんが魔物の強さを判断せず作業を止めたこと、再入場を別の担当が確認したことを、短い教材へした。
六班の現地責任者は、その映像を見た後、自分の通路へ黄色の鋸形線を置いた。
狭い医薬搬送迷宮では、線を一つ手前へ移した。標準位置のままだと、地上便の保冷箱が出口を塞ぐからだった。
旧資材庫迷宮では、線を置く以前に内部が未確認のため、閉鎖扉の外を進入限界にした。
高台避難所では、車椅子を運ぶ地上動線と地下作業員の出口が重ならないよう、体育館の裏口を作業専用へ分けた。
共通化したのは、同じ距離ではない。
戦えない人でも、自分がどちら側にいるかを判断し、戻れることだった。
護衛の配置も、戦闘等級順にはしなかった。
狭い通路で後退しながら作業員を数えられる人、魔物を倒さず正規路側へ誘導できる人、負傷者を運ぶ時に資材路を捨てられる人を各班へ置いた。強い一人を中央待機させ、異常が出た現場へ送る案は使わなかった。
到着を待つ間に、その現場の退路がなくなるからだった。
獅堂さん自身は北西共同へ入るが、五現場の安全担当に続行許可を取り上げなかった。各担当が撤退を出した後、獅堂さんの返事を待たず閉鎖まで進められる。
「俺が間に合う計画じゃない。俺が間に合わなくても帰れる計画にする」
平時の冗談ではなかった。
六班へ強さを分けるのではなく、六つの退路へ判断を置いた。
線を見て自分で戻った人の名前は、作業遅延の原因欄へ入れない。どの標識が判断に使え、どこが見えなかったかを訓練記録へ入れる。
獅堂さんは、撤退回数の少ない班を優秀班にもしなかった。
危険が来なかったのか、来ても止められなかったのかは、回数だけでは分からない。戻った後に人数と理由を閉じられた班だけを、夜間作業へ出した。
北西共同の運搬種を、最後にもう一度観測した。
正規路の利用を最低限に落とし、仮設枝道へ新しい負荷は入れていない。群れは入口から退いたが、奥へは戻らなかった。
三匹が仮設枝道の外周へ沿って並び、前肢で壁を叩いていた。
一定ではない。
一匹が離れると別の一匹が入り、摩耗した帯の前を空けない。獅堂さんが近づくと威嚇するのではなく、管と人の間へ身体を入れた。
「巣を守ってる動きじゃない」
獅堂さんは剣を抜かず、黄色線の外で群れを見た。
「こいつら、これを通路として守っている」
撤去線の外側で、魔物が仮設枝道を守り始めていた。




