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久世統括官は止めさせない

救急指定病院の地下で、予備設備は動いていた。


だから安全だとは、私は言えなかった。


迷宮電力が落ちた直後、この病院は非迷宮側の供給と院内の予備系統へ切り替わった。廊下の照明は一つおきに点き、手術区画と重症病床には電力が残っている。


国家迷宮インフラ庁の統括官として、私はその残り方を見に来た。


残っていることと、いつまで残せるかは別の問題だった。


設備室の前を、看護師二人と臨床工学の担当者が医療機器を載せた台車を押していった。別棟へ移せる患者から移し、停電区画を小さくしている。


搬送先の扉が開かず、台車が一度止まった。


電子錠を予備側へ切り替える間、看護師は患者の顔を見たまま、もう一人が廊下の人を下げた。設備の復帰を待つ数十秒にも、待たされる側がいる。


やがて扉は開いた。台車が向こうへ消えても、閉じた病室がすぐ空き区画になるわけではない。受入れ側が患者と機器を確認し、元の区画を閉じる判断を出すまで、両側の電力が必要だった。


私は施設責任者へ、予備設備の定格時間を尋ねるのをやめた。


「今、止められない負荷はどれですか」


「移送中の二病床と手術区画です。検査部門は新規受入れを止めました。外来は救急以外、朝まで閉じます」


病院はすでに、自分たちの側で失うものを選んでいた。


「三迷宮を同時に止めれば、この病院の負担はさらに増えます」


病院の施設責任者は、予備設備の残り表示ではなく、運転記録を私へ見せた。


「表示どおりの時間を約束はできません。切替を繰り返した分だけ、余裕を使っています。今から迷宮側を全部落とすなら、患者移送の完了が先です」


「移送が終わらない場合は」


「ここを優先給電に残してください。代わりに外来棟と倉庫の一部を閉じます」


安全を求める言葉は簡単だ。


何を暗くするかまで言えば、簡単ではなくなる。


私は病院を出ず、その場で首都圏災害調整卓へ接続した。画面の中央には、三迷宮の警報と停電範囲が並んでいた。市営第三の担当市、湾岸の港湾自治体、北環状を管理する広域組合。所有者も停止権限も同じではない。


白瀬分析官から、緊急の停止提案が上がっていた。


三つを別々に復電すると、残りの崩壊指標が上がる。負荷を押しつけ合っている可能性がある。個別復旧を止め、三迷宮を同時に無負荷へ置き、反応を確認したい。


技術上の筋は通っていた。


宮前直人の現場報告も付いている。


私は彼の名前を、天蓋第零迷宮の事故から知っていた。市営第三の夜鳴き、元勤務先の水没区画、温泉迷宮の熱交換停止。彼が異常を軽く扱わず、未知を未知のまま残す人間であることも、報告書から分かる。


だからこそ、実績を停止権限の代わりにはできなかった。


「三迷宮の停止を承認しません」


私が告げると、白瀬分析官は反論を急がなかった。


「否定する範囲を確認します。個別復旧の保留は継続、三迷宮の同時停止は不承認、でよろしいですか」


「そのとおりです」


「理由を条件へ変えてください」


以前、温泉街の支援照会で、私は彼女に現地の選択を資料の先頭へ置くよう求めた。今度は彼女が、私の拒否を一行で終わらせなかった。


私は鉄道側の表示を開いた。


停電区間では列車二本が最寄り駅まで低速で移動し、乗客を降ろしている。信号と換気は別供給へ移したが、三迷宮を同時に止めれば、その別供給へ負担が重なる。途中駅の一つは、地上へ上がる設備の一部を使えない。階段を上がれない利用者を、駅員が隣駅へ案内していた。


画面の端に、駅員の携帯映像が出た。


車椅子の利用者一人が、止まった昇降設備の前で待っている。駅員は「すぐ戻ります」とは言わず、動いている隣駅まで列車で運び、地上側の車両を回す案を本人へ説明していた。


三迷宮を止めれば、その列車も動かせなくなる可能性がある。


逆に、動かすことを急げば、市営第三へ負荷を戻す。


選択肢のどちらにも、待つ人の顔があった。


次に、北環状の避難所から報告が入った。


停電した集合住宅から、乳児を連れた家族と高齢者が体育館へ移っている。暖房は移動式のものへ替えたが、充電設備と薬品保冷庫は迷宮側の予備供給を前提にしていた。三迷宮を止めるなら、避難所を閉じるのではなく、別の電源車を先に置かなければならない。


確保済みの電源車は一台だった。


庁舎の災害対策室へ回す予定の車両を、避難所へ振り替える案が上がった。庁舎側は通信設備を残せるが、執務区画の照明と空調をさらに落とすことになる。


私は振替を承認した。


自分たちの部屋を明るくしたまま、体育館へ節電を求めることはできない。


災害対策室には、必要な端末だけを残す。紙の連絡票と携帯照明を追加し、決裁者が暗い廊下を移動する時間も業務へ入れた。


停止しない判断を維持するためにも、中央側が一つ不便を引き受ける必要があった。


一つの迷宮を安全にするためなら、一つの自治体が損失を選べる。


三つを同時に止めれば、病院、鉄道、避難所の選択が同じ時間へ重なる。


現場の耳が正しくても、その耳には病床の残り時間も、降車を待つ人数も、体育館の寒さも聞こえない。


「条件は三つです」


私は言った。


「三地点の反応を、宮前さん以外が追試できる形にすること。停止と継続の被害を、同じ時間軸で比較すること。病院、鉄道、避難所へ、停止中の代替を先に置くこと」


白瀬分析官が、条件を書き取った。


「揃えば、再審査しますか」


「揃わなくても事故が進むなら、別の判断をします。ただし今は、感覚だけの全面停止へ署名しません」


通話を切る前に、三自治体から個別の要請が入った。


市営第三の担当市は、鉄道の避難が終わるまで自分たちの最低負荷を守りたい。


湾岸側は、医薬原料を失えば別地域の病院まで困るため、保冷庫だけ先に戻したい。


北環状の広域組合は、避難所を抱えた状態で負荷を受け続けるのは不公平だと訴えた。


どれも、自分の施設だけを儲けさせたい要請ではなかった。


市は駅に残る人を、港は薬を待つ人を、広域組合は今夜帰れない住民を背負っている。


一つを先に復電すれば、残りへ負荷が移る可能性がある。受付順や声の大きさで優先すれば、行政が負荷の移送先を選ぶことになる。


「個別の先行復電は認めません」


私は三者へ同じ返答を出した。


「ただし、各施設が守る対象は優先供給表から外しません。迷宮を戻す代わりに、地上側の代替を配分します。足りない分と、待てる期限をそれぞれ出してください」


同じ停止を押しつけるのではない。


異なる損失を、同じ決裁の場へ載せる。


その作業は遅い。だが一番早く復電できる施設から戻す方法は、今の三迷宮では一番危険だった。


宮前さんの音の聞き分けを疑ったのではない。


彼が正しい時に、別の場所で人を死なせない仕組みがなかった。


「個別復旧の保留で失うものには、国の緊急枠を使います」


私は湾岸の医薬原料、鉄道の代替輸送、避難所の電源車を優先配分へ載せた。


止めない決定にも費用がかかる。その費用を現場や自治体だけへ残せば、拒否ではなく責任転嫁になる。


私は決裁記録へ、不承認の理由だけでなく、代替供給が未整備であることを国側の未完了として残した。


宮前さんたちが証拠を持ってこられなかったから止めない、ではない。


証拠を求める間に必要な病院、鉄道、避難所の支えを、こちらがまだ用意できていない。


次の審査で同じ不足を理由に拒むなら、それは現場の問題ではなく、私の準備不足になる。


病院の施設責任者が、外来棟の一部閉鎖を決めた。空いた電力を重症病床へ寄せる。鉄道側は始発の一部を運休し、動かす列車を減らした。北環状の自治体は、電源車が着くまで新しい避難者を別の公共施設へ振り分けた。


三迷宮は止めなかった。


街も、平常へ戻したことにはしなかった。


決裁を終えた時、設備室の扉が開いた。


施設責任者が走って出てきた。手にした記録板には、滑らかだった予備系統の線へ細い歯形が入っている。


「統括官、切替先に乱れがあります」


「迷宮側は切り離したはずです」


「表示上は切れています。ですが、市営第三の警報が上がった直後から、こちらの予備設備にも同じ間隔の揺れが出ました」


廊下の照明が、一斉ではなく奥から順にわずかに暗くなった。


看護師が台車を止めず、明るい区画へ運んでいく。


私は三迷宮の停止を拒んだ。


拒んだ以上、次に起きる停電を「現場の警告が不十分だった」とは言えない。


不承認の決裁者欄には、担当部署ではなく私の名を残した。


止めない結果も、私の判断として次の審査へ持ち越す。


責任は移さない。


病院の廊下へ出ると、さきほどの台車が明るい区画から戻ってきた。患者は移送済みで、空になった機器だけを載せている。


一つの病床は守れた。


その間にも、予備設備の余裕は削られている。


その最中に、救急指定病院の予備系統へ、三迷宮の警報と同じ間隔の乱れが入り始めていた。


伝わった経路は、まだ確定していなかった。


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