十一分ごとの壁画
翌朝の点検に、俺は呼ばれなかった。
管理棟の入口で待つよう、稲葉さんに言われた。
「引継ぎを受けた班が、あんたを連れて入ったら、引き継いだことにならん」
正しい。
俺は受音板も温度札も鞄から出さなかった。入口の壁には、昨日まで俺の名前があった確認欄が残っている。その横へ今朝の作業責任者として、稲葉さんの名前が書かれていた。
異常を拾える道具を持っていることと、呼ばれていない点検へ入ってよいことは別だった。
迷宮へ入ったのは、稲葉さん、若い設備員さん、夜間監視をした設備員の三人だった。獅堂さんの護衛班は退路だけを持ち、点検箇所を決めない。真央さんは固定記録の時刻ずれと欠測だけを知らせる。白瀬さんも再開の決裁を滝沢課長へ返していた。
若い設備員さんが持っていった紙には、数字のほかに雪、岩片、三台差を書く欄があった。壁面記号はない。意味が決まっていないものを、毎朝の手順へ入れなかった。
観測の間には、時刻だけを書く太い空欄がある。動かなかったのか、見落としたのか、意図して待ったのかを次の担当が区別するための欄だった。真央さんの地図を縮めたのではなく、三人が自分たちの巡回人数で使える形へ直している。
部品待ちに使った保温布は、すでに撤去されていた。稲葉さんの完了時刻と《熱交換路へ再使用不可》の札が乾燥袋に付いている。応急を残したまま、本設の試験を通したことにはしなかった。
最初の連絡が来た。
《入口、いつもの三台差。送り側、遅れなし》
次の連絡まで、十一分近く空いた。
管理棟の温度表示が上がり、共同浴場の戻りが追いつく。三つ目の時刻欄で、旧共同枝の外だけが横ばいになった。
窓の外では、共同浴場の職員が午後再開の札を下げる紐を結び直していた。川沿いの宿では、主人が予約台帳を開いたまま、最初の一件を書き込まずに待っている。
《旧箱の外、昨日の戻りより遅い》
若い設備員さんの声だった。
《原因は決めません。川沿いの受入れを一段戻して、ここを追加で一周期見ます》
滝沢課長が無線を取った。
「共同浴場は」
《戻りを維持できます。川沿いの宿だけ、予約再開を待ってください》
町全体を止めなかった。
一軒を予定どおり開けるために、遅れを正常へ数えることもしなかった。
川沿いの宿の主人は、すぐに返した。
《予約は開けない。設備班から解除をもらうまで、保全運転で待つ》
主人は台帳を閉じた。三日前に守った設備を、今朝の売上のために急いで使わなかった。
俺は無線へ手を伸ばさなかった。
受音板を当てれば、遅れがどちらから来るかをもう少し早く絞れるかもしれない。
ただ、今日必要なのは俺が一回答えを増やすことではない。町の三人が、次の冬にも同じ遅れを止められるかを確かめることだった。
現地班は旧箱を開けず、外板に付く雪の筋を時刻ごとに撮った。夜番の設備員が町側三台のずれを重ね、稲葉さんは入口で拾った岩片の縁が曇るまで受入れを増やさない。
俺の耳を再現する方法ではない。
この町で次の冬にも残せる比較だった。
次の一周期で、旧箱の外側が上がった。町側三台の差も冬季の範囲へ戻り、円盤の左右差は広がらない。
雪の筋は、古い箱の中央からではなく、迷宮側へ寄った縁から先に細くなった。夜番の設備員が三台差の欄へ輪を付ける。稲葉さんは岩片の曇りを確認し、二人の記録が揃うまで解除を出さなかった。
《川沿い、保留解除します》
稲葉さんの声が続いた。
《旧箱外は追加観測。朝夕二回、町側巡回が担当。見直しは次の定期点検》
故障札ではなく、観測札が一枚付いた。責任者と見直し日があり、営業を止め続ける未修理箇所ではない。
三人が戻ると、滝沢課長は川沿いの再開へ署名した。
若い設備員さんの紙には、待った十一分が空白のまま残っていた。書き忘れではないことを示す時刻と、追加観測へ切り替えた署名が両端にある。
「次は町側を一人増やさないと、同じ場所を同時に見られません」
若い設備員さんが言った。
「時間を削るな。夕方は俺が町側へ残る」
稲葉さんは、試行点検を成功扱いで閉じず、勤務の置き方を変えた。
稲葉さんは入口の作業責任者札を、若い設備員さんへ渡した。
「夕方の追加点検は、お前が順番を決めろ。俺は町側を見る」
「旧箱から見ます。朝の遅れが客を入れた後も同じか確かめて、違えば川沿いだけ止めます」
稲葉さんは札を取り返さなかった。
現地班の一度の判断が、次の勤務へつながった。
獅堂さんは、迷宮側の安全線をすぐには外さなかった。小型魔物が人間の作業帯へ出ず、昨日使っていた穴へ戻るまで、護衛班を入口側に残した。
苔を運ぶ個体が二匹。小石を外へ出す個体が一匹。奥の穴から返る風は、正規部材の受入れを増やしても止まらない。
「巣は残った。人の線だけ片づける」
稲葉さんの班が木枠と固定記録器を回収し、魔物側の穴には触れなかった。作業のために借りた空間を、人間の通路として置いていかない。
迷宮生態も、保守の都合で壊したままにはしなかった。
午後、共同浴場の戸が開いた。
石鹸と濡れた木の匂いが通りへ出る。温度を確かめた職員が頷いてから、風呂道具の籠を持つ住民が一人ずつ靴を脱いだ。
三日前、暖房室で茶を受け取った住民もいた。籠を長椅子へ置き、閉じた戸ではなく湯気で曇るガラスを見た。
篠原さんの旅館に残った家族の子どもは、浴場へ入る前に窓の丸を指でなぞった。部屋を移った夜も、待たされた朝も消えない。それでも今度は、入れる温度を確認した札が帳場に出ていた。
篠原さんの旅館では、簀子が浴場へ戻されていた。縄に掛けられていた浴衣も、温泉熱の戻った乾燥室へ少しずつ入る。勤務表の《空槽確認》は《再開後巡回》へ変わった。
湯だけではなく、湯を守る仕事も戻った。
通りの側溝では、温められた雪解け水が細く流れていた。
共同浴場を暖房室として使っていた札は外された。長椅子は脱衣所の前へ戻り、膝掛けを畳んでいた職員が、午後の清掃時刻を勤務表へ書く。
移動洗浄車は、浴場へ来られない世帯を一巡してから町を出ることになった。代替が不要になったから即座に切るのではなく、自宅側の受入れが戻った人から順に外す。
坂上の宿では住み込みの二人が客室の暖房確認へ戻った。川沿いの宿では、主人が機械室の札を《保全運転》から《段階受入れ》へ替えた。篠原さんは、休止中の保全勤務を通常勤務へ戻す時刻を従業員ごとに書き直している。
三日前に減った勤務は、湯気だけでは戻らない。誰を、どの設備へ、いつ戻すかを町と宿が決めて、初めて営業再開になった。
川沿いの宿の主人は、設備班から解除を受けてから予約台帳を開いた。最初に戻したのは満室の表示ではなく、《段階再開・旧共同枝観測中》の札だった。
営業は戻った。観測を隠して平常を装う形ではなかった。
真央さんは営業の映像をそこで切った。
「壁面記号は、三つの仮説で調査へ渡します」
机に置いた資料は短かった。
設備反応の順序を示す表示である可能性。
流れが岩へ残した自然痕跡である可能性。
現代の点検順との一致が偶然である可能性。
三つを同じ大きさで並べ、先頭へ置く説を決めない。現物画像、温度記録、換気時刻は、仮説欄とは別に原本のまま付けた。
確定した観測は、十一分前後で冷点が移ったこと、三組のうち一組だけが円盤の左右差と暫定的に重なったこと、途中で順序不一致が出たこと、欠けた形が複数系統を横切って見えることだけだった。
「作った主体も、意味も、ほかの迷宮との接続も書けません」
「交換部の受入れ不良と復旧は、壁を外しても説明できます」
俺が言うと、真央さんは修理記録と壁面資料を別の綴じ具へ分けた。
正規継手の交換記録には、現用部の受入れ不良、交換後の町側応答、巣の換気が保たれたことが並ぶ。壁面記号の画像を一枚抜いても、温泉が戻った因果は残った。
未知の記号は、今回の正解表ではない。
十一分も、温泉迷宮で観測した周期のままだ。
滝沢課長が現地引継ぎへ署名し、俺たちは町の作業札から外れた。
稲葉さんは控えを管理棟の棚へ入れた。外部班へ問い合わせる欄ではなく、朝夕の担当名を書く欄が先にある。
この町の次の点検は、俺たちの返答待ちから始まらない。
俺の工具鞄には、使わなかった予備札が残った。現地班が自分たちの観測札を付けたので、俺の札を置く場所はなかった。
篠原さんは現場班の宿泊台帳を閉じ、無料の善意ではなく、町の緊急対応費で受領票を切った。滝沢課長は、久世統括官名義の支援分と町の補償分を分けて保管した。
事故の後始末を、次の好意へ借金として残さない。
その直後、白瀬さんの端末が鳴った。
温泉迷宮の再警報ではない。
首都圏で、最初の停電が起きた。
三つの迷宮が、同じ時刻に警報を返した。




