白瀬の管轄外
私の職員証では、閉じた共同浴場を開けることも、閉じたままにすることもできなかった。
ここは市外で、別の自治体だ。
研究所の危険分析官として助言はできる。市営迷宮保全班の実績も提示できる。けれど、温泉街の営業を止め、補償へ町の予算を使い、再開に署名するのは、私ではない。
「分かっているなら、命令書の形で持ってこないでください」
町の迷宮温泉事業を預かる滝沢一志課長は、私が渡した紙を二つに折った。
「参考案です」
「中央の参考案は、受け取った瞬間から断りにくい」
滝沢課長は紙を返さず、上着のポケットへ入れた。
「だから先に、町を見てください。何を止めるかだけじゃない。誰が止めると言うのかも」
私たちは会議室へ行かなかった。
滝沢課長が最初に向かったのは、休止中の共同浴場だった。
入口には、風呂道具を入れた籠を持つ住民が三人いた。休止の札を読んでも帰らず、職員へ次に開く時刻を聞いている。
職員は約束できなかった。
「家の風呂が使えない世帯には、昨日、隣の地区の入浴券を配りました」
滝沢課長が私へ説明した。
「でも峠に近い道が止まった。送迎車も片道で戻されています」
一人の住民が、籠を抱え直した。
「お湯が出るまで、ここで待っちゃ駄目かね」
浴場の待合室には暖房が残っている。家より暖かいから来たのだと、職員が小声で教えた。
湯を止める判断は、安全だけを残さない。
待つ場所、体を洗う場所、暖を取る場所を一度に奪う。
滝沢課長は浴場を開けなかった。代わりに、待合室だけを日中の暖房室として使うよう職員へ指示し、入浴券の代わりに移動洗浄車を町内へ回せるか照会した。
職員が《入浴不可》の札を残したまま、待合室の内側だけを開けた。長椅子へ膝掛けが置かれ、住民の籠は脱衣所ではなく壁際へ並んだ。
一人は「風呂じゃない」と不満を言った。
それでも、雪の道を家へ戻る前に、温かい茶を受け取った。
安全な代替は、失ったものと同じではない。足りないままでも、今夜までの危険を一つ減らせる。
自分の権限で、使える範囲を一つ残した。
次に篠原さんの旅館へ行った。
玄関には、到着したばかりの予約客がいた。
雪で帰りの便を失い、温泉もない。篠原さんは浴場休止と暖房制限をもう一度説明し、宿泊を続けるか、町が用意する暖房施設へ移るかを客本人に選んでもらっていた。
「全館を開けろとは言いません」
客を部屋へ案内した後、篠原さんは私たちへ言った。
「でも全面休館にすれば、今いる人を雪の中へ出すことになります。新館の暖房は別系統で持ちます。浴場と旧館は閉める。厨房は一つだけ使う。それで何日まで許されるか、町に決めてほしい」
「従業員は」
私が尋ねた。
「清掃と浴場担当は、今日は配管を守る仕事へ回しました。明日からは勤務を減らすしかありません。補償があるなら交代で残せます。ないなら、全員を雇ったまま待てません」
帳場の横に、書き直された勤務表があった。
浴場清掃の欄は消されていない。《空槽確認》《凍結巡回》《客室移動》へ変わっている。普段二人で回す仕事へ三人を置けば、今日の雇用は残せる。だが、それを三日続ける費用は旅館だけでは持たない。
厨房からは、湯気が一筋だけ上がっていた。
温泉熱を使う大きな調理場は閉じ、小さな電気設備へ鍋を一つ移している。献立を減らし、今いる客と現場班の食事だけを作る。営業継続とは、平常どおりに見せることではなかった。
篠原さんが欲しいのは、営業を続ける美談ではない。
何室なら安全に売れるか。
閉じた浴場を守る作業へ賃金が出るか。
湯が戻らない時、いつ客を断るか。
選択の費用を、町の判断へ接続してほしいのだ。
滝沢課長は空の浴槽を見て、旅館の帳場で一枚の申請書を出した。
「旧館と浴場は休止対象。新館は定員を落とし、電力使用が町の上限を超えたら追加受入れを止める。休止中の保全勤務は緊急雇用補助へ載せます」
「期間は」
篠原さんが聞いた。
「まず三日。部品到着予定まで。延びるなら、明日の記録で更新する」
「三日で直る保証ではないですよね」
「違います。三日後に、待つ条件を決め直すための期限です」
篠原さんは、その答えなら署名した。
全面停止と全面営業の間に、町が引き受けられる幅ができた。
旅館を出たところで、町の電力担当から滝沢課長へ連絡が来た。
各館が一斉に補助暖房へ切り替えたため、夕方の需要が急に上がっている。このまま新規客を受ければ、共同浴場の待合室と診療所へ回している電力まで不安定になるという。
滝沢課長は、温泉街の明かりを見た。
「新館を開ける案も、このままでは持たない」
「受入れ上限を町全体で持ってください」
私は答えた。
「各旅館へ同じ数を割るのではなく、別系統の暖房が残る棟だけにする。診療所と待合室の電力を先に確保して、余る範囲を宿へ渡す。どの館を残すかは、町と組合が決めることです」
「研究所の推奨として書けますか」
「最低限守る負荷と、超えた時の停止条件は書けます。営業する館の選定には署名できません」
滝沢課長は短く頷いた。
決められないのではない。
私が決めてはいけない範囲を残した。
ただし、迷宮側は別だった。
町営迷宮の入口で、滝沢課長は入場札を自分で裏返した。
一般探索と採取は停止。
第一点検区画より奥は、獅堂さんの進入判断がなければ入れない。
保守班の入場は、未操作の観測に限る。熱交換路へ手を加えるには、故障位置と中止条件を町へ戻す。
「あなたなら、もっと広く止めますか」
滝沢課長が私へ聞いた。
「現時点では、この範囲を支持します」
私は入口の記録を見た。
「ただし、熱が別枝へ逃げている仮説が正しければ、町側の残った熱も急に下がる可能性があります。旅館の補助暖房が限界へ近づく前に、受入れを止める基準が必要です」
「数字を出してください」
「町の電力担当と、各館の実績が要ります。私の市の基準はそのまま使えません」
「なら、うちの担当に聞かせます」
滝沢課長は決裁を渡さなかった。
私は、決裁を奪わない代わりに、止めた後の見落としを減らす仕事へ戻った。
夕方までに、共同浴場の待合室は暖房室として開いた。旅館は浴場と旧館を閉じ、新館だけで今いる客を受けた。新規予約は三日先まで停止した。温泉熱を使う商店は、凍結を防ぐ最低限の保全へ切り替えた。
営業縮小を選んだのは、店と旅館と町だった。
私は、撤退条件と再開条件をつないだ。
町側の供給温度がさらに落ちた時は、残る客室も追加停止する。
迷宮内で魔物の退路が切れた時は、故障確認の途中でも保守班を戻す。
部品が届いても、未知の設備を操作したことにしない。
再開は、旅館へ湯が届いただけでなく、戻りの記録が地元の冬季範囲へ収まり、稲葉さんの設備班が翌日の点検を引き受けられることを条件にする。
それを、滝沢課長の決裁文へ入れてもらった。
広域の支援だけは、町の中で閉じられない。
峠の輸送、代替暖房、移動洗浄車、補償財源。私は研究所経由で国家迷宮インフラ庁へ支援照会を出した。
現地の停止範囲と、三日分の営業縮小案を添えた。
返答は早かった。
送信者の欄には、久世統括官とあった。
私は、その名前を事故報告の決裁欄で見たことがある。直接やり取りするのは初めてだった。
文面は、支援を断るものではない。
全面停止を承認するものでもなかった。
久世統括官から、短い通話の指定が入った。
画面に顔は出なかった。音声だけで、最初に確認されたのは迷宮の危険度ではなく、今夜開いている場所だった。
「共同浴場は閉鎖、待合室のみ暖房室。旅館は別系統暖房の新館へ限定。迷宮の採取と一般入場は停止しています」
私が答えると、久世統括官は数秒置いた。
「全面停止を求める資料に見えました」
「危険側の案としては全面停止です。ただ、現地は縮小継続を選びました。私は撤退条件を付けています」
「なら、その現地判断を資料の先頭へ置いてください。国が安全だけを買い、雇用と暖房を町へ残す形にはできません」
支援を得るために危険を大きく見せれば、町が自分で作った継続範囲を消すことになる。
私は提出資料の表題を直した。
《全面停止支援要請》ではなく、《縮小継続に必要な広域支援》とした。
必要な支援額は増えなかった。
使い道が変わった。閉鎖の費用だけでなく、暖房室、保全勤務、限られた宿泊を三日持たせる費用として、町の選択が見える形になった。
《停止による安全だけでなく、継続によって守れる生活を先に示してください》
その下に、確認事項が一行だけ続いていた。
《誰の現地判断で、どこまで営業を続けられるか。それが支援配分の前提です》
その範囲を決める署名欄には、私ではなく、滝沢課長の名前が入っていた。
中央から全面停止を命じるのではなく、営業継続可能な範囲を先に示せという返答だった。




