残業班の警告
地下区画の床が、雨の音より先に一度だけ震えた。今夜の巡回記録を「異常なし」で閉じる期限まで、もう余裕はない。俺が改変前の記録を正式な経路へ出せば、班の契約も自分の署名も調べられる。出さなければ、三人でその床の下流へ入る。
「今の、感じたか」
若い班員が足を止めた。
「搬入じゃないんですか」
「上はもう終わってる」
もう一人の班員が、地上側の連絡表示を見た。雨に備えて搬入は前倒しされ、共用通路から荷は外されている。市から避難準備の連絡が来たためだ。
東央の監視盤は緑のままだった。
警報なし。基準外なし。現行図にある測定点は全部正常。
俺は管理扉の外側へ仮の監視札を置き、二人へ、札の位置と床目地を離れた場所から見るよう伝えた。正式な赤札ではない。巡回を始めず、今の変化を見失わないための待機表示だ。
若い班員は端末の正常表示だけでなく、床の目地が札に対して動いていないかを時刻付きで残した。警報がないことと、何も起きていないことを同じにしない記録が一つ増えた。
だから今の震えを、どの欄へ書くかが問題になる。
俺は二人を管理扉の手前で待たせ、記録室へ戻った。予定外の確認で遅れれば、夜勤の作業時間が減る。けれど、床の震えを聞かなかったことにして奥へ連れていく方が、班長としては楽だった。
そうやって楽な方を選んだことが、前にもある。
端末には、真壁部長からの指示が入っていた。
――市への回答は部門で一本化すること。現場員は個別連絡を行わない。未確認の所感を事故情報として扱わず、契約範囲の点検結果を記録すること。
おかしな指示だけではない。
外から照会が来るたび、現場員が別々の言葉で答えれば、施設所有者は何を信じてよいか分からなくなる。匿名の話で地下を止めれば、今夜の勤務だけでなく次の契約更新にも響く。部門が回答をまとめるのは普通の管理だ。
勤務前、俺は真壁部長へ巡回の延期を一度求めていた。
「大雨と市の照会が重なってます。今夜だけでも、旧区画の手前で止められませんか」
『現行の巡回範囲は旧区画の手前までだ。警報も基準外もない。予定どおりの範囲を確認せず、天候だけで点検を省けば、明日の施設判断に使う記録がなくなる』
真壁部長は、奥へ入れとは言わなかった。
異常を感じた場合は現場判断で退避しろ、とも言った。表面だけなら、安全を無視した命令ではない。
だが、旧管体の打音を知っている人間が俺だということも、通常範囲の点検が終われば「ついでに見られる」と現場で言われることも、部長は知っている。書面へ残る指示は狭く、現場へ期待される結果だけが広かった。
俺も、その曖昧さを便利に使ってきた。
予定内で終われば、部下を余計な残業に残さずに済む。奥を見て何もなければ、気を利かせた班長でいられる。危険なら、正式な指示がなかったと言える。
どの結果でも、自分の判断を記録へ置かずに済む形だった。
ただし、「契約範囲の点検結果」と書けば、対象外にした場所は最初から存在しないように見える。
俺は巡回記録の現行版を開いた。
地下管理流路、異常なし。
打音、振動、漏れ、赤札、すべて該当なし。
まだ見に行ってもいない場所の欄まで、前の勤務記録から引き継がれている。
「宇田川さん」
品質・記録担当の早川紗季が、記録室の入口に立っていた。雨具の肩が濡れている。市から追加照会が来たため、保管版の照合に呼ばれたらしい。
「今夜の記録、もう閉じますか」
「床が鳴った」
「どの時刻ですか」
早川は、危険かどうかを先に聞かなかった。
俺が時刻を答えると、現行版の前に受領した版を開いた。記録担当が勝手に内容を書き換えることはできない。できるのは、誰からどの版を、いつ受け取ったかを並べることだ。
画面に、同じ巡回表が三つ出た。
最初は現場班の記録。
次は部門確認版。
最後が施設所有者へ出した提出版。
最初の版には、俺の入力が残っていた。
――旧管体側で低い打音。赤札残置。上流未確認。次回停止時に再確認。
自分で書いた文章だ。
その後、停止枠は取られなかった。契約範囲が整理され、管体のある区画は通常巡回の対象外になった。部門確認版では、記載が「対象範囲に異常なし」へ変わっている。提出版では、旧管体の行そのものが現行表から外れていた。
「これ、外へ出せるのか」
「私用のメールや端末へ写せば、持出しになります」
早川は即答した。
「でも、今は施設所有者と市から正式な安全照会が来ています。保存規程上、関連する旧版は廃棄せず保全対象にできます。差分一覧を付けて、会社の記録系統から監査窓口へ提出できます」
「部長の回答一本化に逆らうぞ」
「部門の説明と、品質記録の保全は別です。私は版と時刻を守れます。設備として危険か、現場員が何を見たかは決められません」
「お前は大丈夫なのか」
「大丈夫ではありません」
早川は画面から目を離さなかった。
「提出すれば、私が旧版を保全していたことも分かります。提出しなければ、保存期限のある版が通常処理で見えなくなる可能性がある。どちらにも費用があります」
「それで、俺に押させるのか」
「観測したのは宇田川さんです。私は、宇田川さんの言葉を作成者にできません。設備の危険まで私が署名したら、それも記録の改変です」
冷たい言い方ではなかった。
早川は、自分にできる仕事を引き受けた上で、俺の責任を代わりに持たないと言っている。
早川は俺へ、保全申請の入力欄を向けた。
申請者。
観測した事実。
未確認の範囲。
過去の自分の関与。
提出先は、施設所有者の監査窓口と、市の限定受領先。公開ではない。連絡者保護の申請も同じ画面にあったが、署名そのものを消す制度ではなかった。
「匿名にはならないか」
「調査外への氏名公開は制限できます。でも、記録の作成者が誰かは、受領側には残ります」
早川の声は一定だった。
慰めない代わりに、費用を小さく見せなかった。
俺が出せば、巡回を短くした日も調べられる。
宮前が慎重すぎると笑ったことは、記録にはない。だが、旧管体の先を見ないまま完了欄へ署名した日はある。真壁部長から、今月も停止枠は取れない、契約内を終わらせろ、と言われた。俺は異論を正式な欄へ残さず、部下を定時に帰す方を選んだ。
部下を守ったつもりだった。
その結果、今夜も同じ三人を、見ていない管の下流へ連れていこうとしている。
若い班員は、来月の契約更新で常勤へ移れるかもしれないと話していた。もう一人は、別現場の縮小でこの班へ来たばかりだ。俺が記録を出して契約が止まれば、二人にも勤務変更が出る。
それは脅しではなく、実際に起こり得る損失だった。
だからといって、二人に黙るかどうかを選ばせることはできない。班長の署名で短い点検を通してきたのは俺だ。三人の多数決にすれば、雇用を守りたい若い方へ責任を移すだけになる。
真壁部長だけのせいにはできない。
俺が止めなかった。
「現在の異常は、この旧記録だけでは証明できません」
早川が言った。
「赤札が適切に解除された可能性も、現行表へ統合された可能性も残ります。出せるのは、記録が三版あり、記載範囲が変わったことまでです」
「十分だ」
十分であってほしい、という意味ではない。
今あるものだけを出すしかない。
俺は申請者欄へ氏名を入れた。
今夜、管理扉手前で床振動を感じた。監視盤に警報はない。振動源、旧管体との因果、漏れの有無は未確認。夜勤者は三名。これからの巡回は、上流の安全確認が取れるまで保留を提案する。
過去の関与欄にも書いた。
旧管体の打音と赤札を最初の版へ記録した。停止枠が得られないまま、対象範囲の点検完了へ署名した。対象外への変更時、異議を正式記録へ残さなかった。
送信前に、若い班員から呼出しが入った。
『班長、管理扉の下から水が来てます』
「色は」
『透明です。雨漏りみたいな量じゃない。でも、扉の内側からです』
巡回を保留するだけでは足りない。
施設側の緊急連絡へ、人を退かせる報告を先に出す必要がある。
俺は二人へ、地上側へ戻るよう命じた。自分も記録室を出る。早川は保全申請の画面を閉じず、送信先と添付版をもう一度読み上げた。
「原本三版、差分一覧、今夜の観測。公開なし。施設監査と市の限定受領。送りますか」
ここで止めれば、まだ部門内の相談に戻せる。
送れば、俺の署名も一緒に外へ出る。
仕事を失うかもしれない。班員も別の現場へ移されるかもしれない。黙って事故になれば、仕事を守ったとはもう言えない。
「送ってくれ。申請者は俺のままでいい」
早川が送信した。
受領番号が出た直後、管理扉側から金属を折るような音がした。
俺は記録室を飛び出した。
二人は指示どおり地上側へ戻ろうとしていた。だが、管理扉と出口の間を横切る床目地が、細く盛り上がっている。下から押され、石の列が順に背を起こしていた。
「走るな。壁際も離れろ」
俺が叫んだ瞬間、三人の前で床がもう一段せり上がった。
水ではない何かが、地下区画の床を内側から持ち上げた。




