点検拒否
立入拒否の回答が届いた朝、今夜から大雨になる予報へ変わった。東央の地下区画へ入る根拠はないまま、残業班の勤務開始は近づいている。反論を返すか、合法的に出せる記録だけを先に揃えるか、白瀬さんは後者を選んだ。
「宮前さんは、交渉の前面から外れます」
白瀬さんは東央の回答を伏せなかった。
退職者の私怨という評価は、施設所有者にも送られている。俺が直接反論すれば、設備の話と退職時の争いが同じ封筒へ入る。立入拒否を不当だと訴えるほど、相手は契約と雇用を守る説明へ戻れる。
「まず提出するのは、記録です。宮前さんが東央在職中に知っていた範囲、今回の連絡で知った範囲、まだ知らない範囲を分けてください。推測は別欄です」
「現地へは行かない方がいいですか」
「管理区画へは入りません。無断立入もしない。外から観察できる公共側と、施設所有者が許可した共用部までです。拒否は、勝手に入ってよいという免許ではありません」
俺に異論はなかった。
悔しいからこそ、順番を崩せない。
提出記録を四つに分けた。
一つ目は、俺と東央の関係。勤務期間、担当した施設の範囲、解雇理由、真壁さんと宇田川さんとの職務上の関係。個人的な評価は書かない。
二つ目は、地下街で確認した旧仮設接続。公開済みの外形と管理番号の見える範囲、局所修理で分かったこと、東央の管体と同じ原因だとは確認していないこと。
三つ目は、元同僚から届いた安全情報。原本は真央さんが保全し、提出版では連絡者を伏せる。同系列に見えた時期と場所の範囲だけを出す。
四つ目は、点検で確かめたい質問。現在も管体があるか。用途と上下流は何か。対象外へ変更した記録はあるか。外部へ返る圧や振動を測る位置はどこか。
「責任者名を聞く質問は入れないんですね」
真央さんが提出版を読み返した。
「設備の状態が分からないうちに、責任者だけ分かっても安全には使えません」
「じゃあ、原本側には、責任をまだ判断しない理由も残します」
真央さんは、削った質問まで履歴へ入れた。提出しなかったことを、最初から存在しなかったことにはしない。
白瀬さんは施設所有者へ、立入とは別に安全記録の提出を求めた。
民間区画の設備を市が勝手に操作することはできない。東央の受託範囲は、天蓋第零迷宮の市管理区画とは別の契約境界にある。一方、同じ建物の共用避難路へ異常が及ぶ場合は、市と施設所有者を結ぶ連絡協定がある。市が先に求めたのは、現行系統図、点検対象一覧、直近の監視記録、夜勤者の入退場計画だった。
東央から、オンラインでの説明を受けるという返事が来た。
白瀬さんが交渉を担当し、俺は別室で記録を見た。質問が技術範囲へ入った時だけ、真央さんを通して白瀬さんへ渡す。俺の顔を隠すためではない。誰が何を決めたかを混ぜないためだった。
画面の向こうに、真壁修治がいた。
退職確認書を挟んで向かい合った時と同じように、書類の端が揃っている。声も荒くない。
『当社としても、安全確認を拒むつもりはありません。ただ、契約外の第三者を現場へ入れれば、その時間は作業を止め、施設所有者へ追加費用を説明しなければならない。出所不明の一報ごとにそれを行えば、現場社員の雇用も契約も維持できません』
止める費用があること自体は正しい。
点検する人を増やせば、同行者も要る。勤務外の立会いを求めれば残業になる。異常が見つからなくても、止めた時間は戻らない。
真壁さんは、その費用を知っている。
問題は、止めない側の余裕を同じ表へ載せないことだった。
白瀬さんは、立入要求を繰り返さなかった。
「では、現在お持ちの記録を提出してください。新しい測定や作業停止ではなく、既存資料の範囲です」
『提出可能な範囲は、施設側と調整します』
「提出できない項目は、理由と管理主体を明記してください」
『各記録は所定の責任で管理されています。現場としては必要な点検を実施し、基準内であることを確認しています』
主語が少しずつ変わった。
当社、施設側、各記録、現場。
誰が管体の用途を確認したのかという質問には、管理上必要な確認が行われた、と返る。誰が対象外へ変えたのかには、契約範囲の更新に伴う整理だ、と返る。
嘘だとは言えない。
ただ、停止や見落としの責任を置ける名前が、文の中から消えていた。
説明の後、資料が提出された。
現行系統図では、地下の管理流路はすべて正規系統へ接続されている。点検対象一覧に期限切れの赤札はない。監視値は許容範囲内で、異常警報も出ていない。夜勤の巡回範囲には、宇田川さんから聞いた場所そのものを示す記載はなかった。
見える限り、正常だった。
俺は正常という結論を疑う前に、何を測った正常かを見た。
監視位置は、現在の系統図にある場所だけだ。対象外へ外れた場所が存在するなら、そこは正常値にも異常値にも入らない。
だが、元同僚の記憶だけで「存在するなら」を事実へ変えることはできない。
「この資料から改変は判断できません」
俺は白瀬さんへ伝えた。
「記録上は正常です。現行図と測定点も矛盾していません。ただ、過去に管体があったという情報を否定できる資料もありません」
白瀬さんは、正常という欄を消さず、その横へ測定範囲を書き足した。
現在図にある正規流路。現在の点検対象。現在の監視位置。
三つの範囲では異常なし。
過去設備の撤去履歴と、対象外区画の現物は未提出。
同じ紙の上に置くと、正常値の意味が狭くなった。東央が虚偽を出した証明ではない。少なくとも、そのデータだけで建物全体を正常と呼べないことが、誰の感覚にも頼らず分かる。
「追加の提出期限は置きます。ただし、回答を待つ間の安全余裕は施設所有者に持ってもらいます」
白瀬さんは、立入許可の代わりに二つの予防措置を提案した。
地上避難口と反対側階段の使用可否を、施設側が現物で確認すること。夜勤者の入退場予定を、東央だけでなく施設側でも把握すること。
設備が正常なら、避難準備をしたことで事故にはならない。異常なら、点検許可を争っている間にも人を数えられる。
施設所有者は、営業を止めない範囲で受け入れた。
白瀬さんは提出資料を受領済みにし、未提出項目だけを残した。立入拒否とは別に、記録提出へ応じた事実も記す。相手の全部を拒否にまとめれば、こちらも主語を失う。
施設所有者は、外壁に面した共用通路と地上避難口の確認だけを許可した。
地下管理扉より先には入れない。扉へ触れない。設備を止めない。見られるのは、一般の利用者も通る地上側と、建物の外周だけだった。
それでも、避難路の確認は記録調査とは違う状態を一つ変える。
夕方、俺たちは施設の外周へ出た。
空は低く、雨の匂いがまだ乾いた道路の上に溜まっていた。施設の正面は人と搬入車が出入りし、地下へ続く地上避難口も開いている。東央の管理区画は、その奥のさらに下にある。
獅堂さんは避難口から歩道へ抜ける人の流れを見た。
「ここが使えなくなった時の出口は」
施設側の担当者が、反対側の共用階段を示した。だが搬入時間には荷が集まり、幅が狭くなるという。
白瀬さんは、雨の時間帯だけ荷を置かないよう、施設所有者へ予防措置を求めた。事故を前提にした閉鎖ではない。二本あるはずの避難路を、実際に二本使えるようにする準備だった。
真央さんは建物や通行人を映さず、外壁から聞こえる環境音だけを固定した。俺は壁へ触れず、避難口から離れた位置で、搬入車と空調の音が途切れるのを待った。
最初は何もなかった。
提出データのとおりなら、それでよい。
真央さんは録音開始の時刻だけでなく、周囲で動いている物を記録した。
搬入車が一台。外壁上部の空調が二系統。歩道の工事はなし。地下へ下りた施設員は一人で、すぐ戻っている。
音が出た後で都合のよい原因を選ばないために、先に候補を並べる。
獅堂さんは、反対側階段まで実際に歩いた。途中の防火扉は開くが、曲がり角に清掃用具が寄せられている。緊急時に担架を通す幅が足りないと判断し、施設側へ移動を求めた。
「点検拒否と関係なく、これは直せる」
施設員が用具を移し、扉が最後まで開くことを確認した。
地下へ入れないままでも、使える退路は一本増えた。
俺は外壁の音を、場所を変えて聞いた。
正面側では空調の低音に埋もれる。建物の角では、搬入車が去ると消える。地上避難口から少し離れた水切り沿いだけ、周囲の機械音と別の間で、奥から短く返るものがあった。
原因を当てるには足りない。
どの位置から聞こえたかを残すには足りる。
離れようとした時、靴底より先に、外壁の奥で音がした。
どん、と呼ぶには低すぎる。
厚い扉の向こうで、満たされた管を内側から短く叩いたような音だった。
遅れて、足元の水切りがわずかに震えた。
空調が止まっても、搬入車が去っても、その順番は変わらない。
真央さんが今の区間を原本へ印付けする。
提出された監視記録には、同じ時刻の変化がなかった。
データは正常だった。
その建物の外壁から、低い打音が返っていた。




