古い職場からの電話
非公開の通知を開いて一分もしないうちに、真央さんの限定連絡先へ着信が入った。応答すれば送り主の声が記録に残る。切れば、次に連絡できる時刻は分からない。画面には「今夜の勤務前まで」と短い追記が出ていた。
「つなぐ前に、受信時の原本を固定します」
真央さんは通知の文面、受信時刻、添付がないことを一つの記録へまとめた。俺たちが読む作業用には複製を作り、連絡者の表示名を伏せる。原本を守ることと、送り主を全員へ見せることは別だという。
「宮前さんだけ、声を確認してください。私と白瀬さんは同席します。調査版への氏名記載は、本人の希望と提出先が決まってからです」
俺はうなずき、通話を受けた。
『直人か』
宇田川徹の声だった。
東央総合メンテナンスにいた頃の現場班長で、俺より七つ年上だ。部品の置き場と夜勤者の癖をよく覚えていた。俺の点検が長いと笑ったこともある。解雇の話が出た時には、何も言わなかった。
胸の奥が、古い工具箱の底を引かれたように重くなった。
恨んでいない、と言えば嘘になる。
ただ、その嘘をついても、管体が安全にはならない。
「連絡の目的を確認します。私に会社を告発してほしいんですか。それとも、設備を見てほしいんですか」
電話の向こうで、息を吐く音がした。
『見てほしい。いや、お前が入れるかは分からん。地下街の公開版に出てた古い接続、あれと同じ系列に見える管が、こっちの管理区画にもあった』
「あった、というのは、いつ見たものですか」
『前の定期停止だ。今もあるとは言い切れない。俺の担当表では、その先は点検対象から外れてる』
「材質は」
『分からん。覆いの外形と管理番号の頭が似てただけだ』
「何につながっているかは」
『それも見てない』
答えが増えないことに、少し安心した。
同じ原因を知っている人の話ではない。見えた範囲と、見ていない範囲をまだ分けている。
「今、事故か警報は出ていますか」
『出てない。提出上は正常だ。だから俺から言えるのは、同系列らしい管体を見たことと、対象外になる前の場所だけだ』
「そこに、今夜入る人はいますか」
返事が一拍遅れた。
『残業班が巡回に入る。俺もだ』
「班は何人ですか」
『三人。場所を知ってるのは俺だけだ。今の巡回表じゃ、手前までで終わることになってる』
「では、なぜ奥の管体を見た人が巡回へ入るんですか」
『雨の日だけ、床の音が変わるって話が出た。正式な追加点検じゃない。ついでに見ておけ、程度だ』
その言い方は、東央にいた頃にも聞いた。
点検票へ項目を増やせば、時間と責任者が要る。口頭で「ついでに」と渡せば、結果が良い時は仕事に数えられず、悪い時だけ現場の見落としになる。
「指示を録音しろとは言いません。今ある正規の巡回表と、自分が何を見たかを、会社の記録へ時刻付きで残してください。口頭で奥を見るよう言われても、権限と退路がなければ行かないでください」
『そんなことをしたら、俺が連絡したって分かる』
「分かる可能性はあります。隠れて奥へ入れば、もっと悪い形で残ります」
しばらく、雨の予報を告げる放送だけが通話の向こうで聞こえた。
『お前は、俺を信用してるのか』
「設備の話は、見た範囲まで信用します。止まれるかどうかは、これからの記録で判断します」
人として許したかと聞かれたのなら、答えは違ったかもしれない。
今必要なのは、許しではなく、三人が帰れる判断だった。
会社を倒せる証言より、その一言の方が重要だった。
「無断で写真を撮ったり、資料を持ち出したりしないでください。現場で異常を感じたら、会社の緊急経路と施設側の責任者へ報告して、入らない判断を優先してください」
『お前に言われなくても、それくらいは――』
宇田川さんは言葉を切った。
俺がいた頃、同じ台詞の後で点検を短くした夜があった。俺も覚えている。向こうも覚えているのだと思う。
『……分かった。勝手な持ち出しはしない。名前を今すぐ表へ出すのも待ってくれ。班ごと仕事を失う』
「名前を隠したまま、点検のきっかけにできるか確認します。連絡したこと自体を、事故の証明には使いません」
通話はそこで終わった。
真央さんは録音をすぐ共有フォルダへ入れなかった。送信者情報と音声の原本は閲覧者を限定し、調査用には内容だけを箇条書きにした。場所も、宇田川さんの勤務が特定できない範囲まで丸める。
調査メモに残った確認事実は少ない。
過去の定期停止で、公開版の旧仮設接続と同系列に見える管体を見た。管理番号の先頭が似ていた。用途、材質、現在の有無、異常、責任は不明。連絡者は今夜の巡回に入る。
「原本の存在は残す。でも、点検依頼へ付けるのは連絡者保護版です」
真央さんは二つの保存先を閉じた。
白瀬さんは俺へ、東央との関係を最初から話すよう求めた。
俺は、十年勤めたこと、能力不足を理由に解雇されたこと、解雇判断へ真壁修治が関わったこと、宇田川さんが当時の現場班長だったことを伝えた。俺の警告が慎重すぎると扱われた記録もある。今回の点検で不備が見つかれば、過去の自分の判断が正しかったと示される利益もある。
「私は中立ではありません」
言葉にすると、腹の底に残っていたものの形が少しはっきりした。
東央が何も問題を起こしていなければ、それで終わる。そう思えるほどきれいではない。自分を切った判断が間違いだったと、記録で確かめたい気持ちはある。
それでも、真壁さんに頭を下げさせるために、今夜の作業員を危険へ置くつもりはなかった。
「だから、私一人の点検にはしないでください。施設所有者の立会い、市か研究所の第三者、東央の現地担当を入れてください。私は、同型かどうかを確認する観測項目だけ出します。立入と停止の判断からは外れても構いません」
白瀬さんは同意より先に、条件を書いた。
「第三者が『同系列ではない』と判断した場合は」
「その判断根拠を確認して、違うなら撤回します」
「東央の記録が正常で、現物確認の必要なしとなった場合は」
「何を測った正常かが揃っているなら受け入れます。解雇の再審査とは切り離します」
「宇田川さんから、会社に不利な追加情報が来た場合は」
「原本を勝手に公開しません。安全に必要な範囲を、保護手続きと一緒に渡します」
白瀬さんは三つの回答を、利益相反の申告書へ入れた。
申告は、俺を疑うためだけの紙ではなかった。点検で何も出なかった時にも、俺が過去を理由に調査を引き延ばさないための中止条件になる。
真央さんは、宇田川さんへ返す文面を作った。
こちらが受け取ったのは安全情報であり、違反や事故の告発として扱っていないこと。無断撮影、私物端末への複製、危険区画への追加進入を求めないこと。緊急時は会社と施設の正式な経路を優先し、この限定連絡先は避難命令の代わりにならないこと。
連絡者保護は、秘密の仕事をさせるためではない。
秘密のまま危険な仕事を増やさないために使う。
東央の管理区画は民間契約内にある。事故も警報もなく、匿名に近い連絡だけでは、市営区画と同じような立入はできない。まず施設所有者へ安全情報を渡し、任意の第三者点検を提案する。連絡者の原本は提出せず、必要になった時だけ保護手続きと一緒に扱う。
一方で、公開記録にある旧仮設接続と外形上の類似が示された以上、無視したことにもできない。
白瀬さんは点検目的を三つに絞った。
管体が現在も存在するか。管理番号が同じ系列か。公共側へ影響する流れや記録上の欠落がないか。
材質、原因、違反、責任は、現物と履歴が揃うまで質問に入れない。
「宮前さんの利益相反も、先方へ開示します」
「お願いします」
「その上で、宮前さんを単独の評価者にはしません。第三者が同じ現物を見て、別の手段で確認できる形を提案します」
俺の過去を隠せば、後で点検結果ごと疑われる。出せば、入口で断られる材料にもなる。
どちらの費用も、安全情報を扱う側が引き受けるしかない。
施設所有者への連絡は市の窓口から出し、東央にも同じ文面が届いた。真央さんの映像は添付せず、公開済みの該当箇所と、確認したい項目だけを示した。返答期限は、残業班が地下へ入る前に置いた。
返事は期限の少し前に来た。
施設所有者は、保守契約者である東央の見解を先に求める、とした。東央側の回答者は、迷宮設備部門責任者の真壁修治。
文面は丁寧だった。
提出済みの点検記録に異常はない。出所を開示できない情報を根拠とする第三者立入は、契約区画の安全管理と従業員の信用を損なう。元従業員である宮前直人は退職時の評価に異議を示しており、客観性を欠く。
最後の一文で、点検提案は退けられていた。
――本件は退職者の私怨に基づく申し入れと判断し、立入点検を拒否する。




