警報のない異常
朝倉班は、俺が市営第七号迷宮へ着く前に第二層を閉じていた。
警報盤は、全区画を緑で表示している。
朝倉さんは、その緑を解除の根拠にしなかった。
「高温も低温も出ていません。でも、温かい側と冷たい側の境目がなくなっています」
入口から第二層へ下りる手前に、黄色い停止帯が張られていた。
内側にいる者はいない。
朝番の採取班は地上待機へ戻り、現地運転員も増枠の開始札を閉じている。
待機列には、北峰の増産を聞いて来た応援班もいた。
市営第七号でも収穫が増えている。昨日までの人数で箱が余ったため、通常枠を広げられないかという申請が朝一番で出ていた。
朝倉さんは、その申請を読んだ後に第二層を閉じた。
「増えたから入れる、にはしません。警報が緑だから入れる、にもできません」
現地責任者は、応援班を帰さず地上の棚卸しへ回した。閉鎖が解除される可能性も、今日一日解除されない可能性も同じ勤務表へ残す。
人を待たせる費用が出ても、空いた人数を原因未確認の区画へ押し込まなかった。
朝倉班が測っていたのは、危険な温度そのものではなかった。
人が使う通路の空気。
迷宮の負荷が流れる壁際。
退避側へ抜ける外周路。
普段は三つが同じ温度にならない。負荷を受ける壁際がわずかに温かく、外周路へ向かうにつれて戻る。その差があるから、熱がどちらへ逃げているかを追える。
今朝は、三つとも正常範囲の中央にあった。
きれいに同じだった。
「計器の共通ずれは外しました」
朝倉さんは、俺が聞く前に記録を出した。
固定計器。
別箱の携帯計器。
壁面の色を同時刻に撮った未加工画像。
どれも、温度の絶対値は安全域にある。どれも、昨日まであった境目だけを失っていた。
「空調や外気では」
現地責任者が聞いた。
「候補です」
朝倉さんは否定しなかった。
「なので外気の変わる前と後を分けました。入口を閉じた時間帯でも、平坦なままです。空調の勤務記録にも変更はありません」
地下の熱が消えたのではない。
熱の行き先を示す傾きが消えている。
警報は、上限と下限を見張っていた。
安全な数字の並び方までは見ていない。
俺は停止帯の外から壁面を見た。
熱い感じも、冷たい感じもしない。
《系統把握》へ届く細い反応も、昨夜よりさらに薄かった。
それを根拠へ加える必要はなかった。
朝倉班は、俺が来る前に別の計器と昨日の原本で停止を決めている。
「今の閉鎖理由は、温度境界の比較不能です。原因は未確定。宮前さんの感覚結果は、別欄にお願いします」
「分かりました」
俺は診断欄へ、感じた範囲だけを書いた。
《第二層手前まで。細応答低下。閉鎖判断には不使用》
朝倉班は、固定計器が壊れたという仮説も捨てていなかった。
三点が同じ値へ寄るなら、計器側の共通補正が働いた可能性がある。戸田さんは更新履歴を調べ、夜間に補正変更がないことを確認した。柏木さんは計器を交換せず、別原理の壁面画像を比較へ残した。
その二つが揃っても、迷宮全体の温度が均されたとは断定しない。
測れているのは、入口から第二層手前までだ。
閉鎖帯の向こうを知るために、人を入れて測る案は最初から外した。
現地責任者は、警報盤を一度見てから、第二層の開始札を朝倉さんへ返した。
「解除には、何が要りますか」
「境目が戻ることではありません。戻らない理由を分け、退避側へ負荷が来ていないと別系統で確認することです」
正常だった昨日へ無理に合わせるのではなく、今日の状態で人を入れられる根拠を要求した。
その時、下層連絡口から獅堂さんが上がってきた。
護衛班は誰も戦闘姿勢を取っていない。
負傷者もいない。
獅堂さんの手には、討伐票ではなく、生態通路の閉鎖札があった。
「運搬種が仕事をやめた」
獅堂さんは、朝倉さんの温度表を見る前に言った。
第二層のさらに奥には、人の採取区画と交わらない魔物の通り道がある。殻の厚い小型種が、壁から落ちた細片を巣側へ運ぶ。人へ近づけば危険だが、普段は護衛班が距離を保ち、通過時刻と方向だけを記録していた。
獅堂さんは、定点映像を入口の壁へ出した。
昨日の同時刻、運搬種は一匹ずつ間隔を空け、落ちた細片を奥へ運んでいる。群れの先頭が巣側へ消えると、次の個体が動く。
今日の映像では、先頭が通路中央で止まった。
後ろの個体は追い越さない。
攻撃姿勢も取らない。
細片を落とした一匹は、拾い直さず壁際へ寄った。
恐慌で散った動きではなかった。
運ぶ先を失ったように、仕事の列だけが止まっていた。
今朝は、攻撃が増えたわけではない。
群れが消えたわけでもない。
細片を抱えたまま、通路の途中で動きを止めていた。
「倒せば通れますか」
待機中の採取班員が聞いた。
「通れる。安全にはならない」
獅堂さんは即答した。
「あれは、俺たちが知らない物を運んでいる。動かない理由も分からないまま排除すれば、道だけ空いて観測を失う」
護衛班は討伐せず、群れの手前に第二の停止線を置いた。
普段の運搬先と、今止まっている位置を別々に記録する。餌、巣の風、照明、人の接近という分かっている刺激を変えず、動きを見る。
若い護衛員が、別の群れを探す案を出した。
獅堂さんは、退路を増やせないことを理由に却下した。別通路へ入れば、今の群れを見ながら二方向を守る人員が足りない。
「証拠を増やすために、帰る人数を減らさない」
観測できない奥側は、《未確認》のまま閉じた。
獅堂班が持ち帰ったのは、魔物の異常という診断ではない。普段成立していた運搬が、攻撃や人の接近なしに止まったという生態原本だった。
獅堂さんの班は温度を測っていない。
朝倉班は魔物の通路へ入っていない。
二つの班が、違う場所で、違う正常を失っていた。
朝倉さんが温度図を床へ広げた。
獅堂さんは、生態通路の位置だけを透明板へ重ねた。
運搬種が止まった線は、昨日まで温度の境目があった帯と近かった。
一致とは言えない。
温度図には幅があり、生態通路は曲がっている。時刻も、朝倉班の最初の測定より獅堂班の観測が遅い。
俺は線を一本にしなかった。
「同じ原因だと決めず、同じ時刻で取り直しましょう」
「宮前さん」
朝倉さんが止めた。
「取り直しは必要です。ただ、第二層の閉鎖はその結果を待ちません。温度の一系統だけで、今の開始条件を外しています」
俺は頷いた。
証拠を合わせることと、停止判断を合わせることは別だった。
獅堂さんも、生態通路の閉鎖を温度結果の従属にしなかった。
「こっちも同じだ。群れが運搬を再開しても、通過方向と退路が戻るまで人は入れない」
二つの停止札には、別の解除条件が残った。
昼の比較時刻まで、第二層は空のまま維持された。
朝倉班は入口側、壁際、外周側を同時に測る。
獅堂班は、人を近づけず定点映像で群れを見る。
温度の絶対値は、昼も警報域へ入らなかった。
傾きは戻らない。
運搬種は細片を一度持ち直したが、巣へ運ばず、その場に積んだ。
朝倉さんは、その時刻を温度図へ書き込まなかった。
先に二つの原本を別々に閉じる。
温度班の結論は、《三点の勾配消失継続・原因未確定・第二層開始条件不足》。
護衛班の結論は、《通常運搬停止継続・攻撃増加なし・生態通路閉鎖》。
その後で真央さんが時刻だけを照合した。
同じ原因なら当然一致する、という証明にはならない。少なくとも、片方の班がもう片方の報告を見て異常を作ったのではないことは残った。
壁面の細片だけが、昨日より多く落ちていた。
採掘量の増加と同じ現象かは分からない。
それでも、警報のないまま変わった正常が、三種類になった。
戻り音。
温度の境目。
運搬種の仕事。
白瀬さんは、市営第七号の停止範囲を広げる前に、全球索引へ短い比較要求を出した。
危険判定を求める文ではない。
《現地正常との比較のみ。警報値、温度勾配、運搬生態、採掘量を別原本で返送。該当なしも回答》
各地の班が、自分の正常と照らして返す。
中央が同じ数値へ換算しない。
回答の途中で、一地点が《該当》から《未測定》へ戻った。生態記録がなく、静かなこと以外は確認できなかったからだ。
別の地点は、採掘量だけが増えて音も温度も変わらず、《局所要因候補》へ残った。
海外の一地点からは、運搬生態が元のままという反例が来た。
そこでは温度境界だけが平らになり、現地班は生態通路を閉じていない。
別の鉱業迷宮は戻り音が消えているが、採掘量は減っていた。搬送設備の定期交換と時刻が重なるため、静穏化候補から一度外された。
三つの徴候がきれいに揃わないことは、集計の失敗ではなかった。
警報のない異常を、一つの物語へ合わせずに残すための比較だった。
似て見える報告を削っても、数は減り切らなかった。
夕方、真央さんが参照索引の集計を閉じた。
既知の稼働ノードのうち、三つの観測のどれか二つが現地正常から外れた地点だけを残す。
危険確定ではない。
同一原因の確定でもない。
それでも、観測継続だけで扱うには広すぎた。
全球台帳の、三割だった。




