遠い班の完了報告
再試験の開始窓は、あと四十八分で閉じる。
それでも私たちは、第二退避線を開始可へ戻さなかった。
河口側迷宮の入口前を、薄い甲殻の運搬種が横切っていた。湿った板を二匹で押し、訓練用の退避線をなぞるように水路へ運んでいく。
昨日、私たちが演習を中止した時と同じ重なりだった。
人はまだ入れていない。人工流入も平常のまま。代替供給は受領側が保持し、演習のために待機させていた作業員は通常勤務へ戻してある。
設備に事故はない。
だからこそ、開始時刻に遅れまいと人を入れる理由もなかった。
「中央へ延長を申請しますか」
記録担当が、共同連絡欄を開かずに聞いた。
私は現地票の開始条件を読み返した。
二本の退避線のうち一本でも、作業員と計器箱が同時に通れなければ中止。魔物の運搬帯と重なった場合は、種類や攻撃性を問わず不成立。再試験の日程は、現地運営責任者と安全班が閉じる。
日本側の署名が必要な欄はない。
「申請はしません。今日は閉じるか、私たちが次の窓を決めます」
相談しないことと、急ぐことは別だった。
設備安全技師という肩書はあっても、今回の共同演習では私も研修保守員の一人だった。
共通図の読み方を試し、現地語の権限文を直し、中止した原本を次の班へ渡す。教える側と教わる側を国境で分けないため、私の判断も隣接検証席へ差し戻される。
ただし、判断そのものを遠い席へ預けるわけではない。
現地の危険を見た人が止め、現地の正常を持つ人が再試験を組む。検証席は、その経路を後から追えるようにする。
私たちは昨日の中止原本を、入口脇の長机へ広げた。
中止の直前まで、運搬種は水路沿いの低い帯を使っていた。定点映像の次の一枚では、板を押す列が壁側へ曲がり、第二退避線へ入っている。
二枚の間に、迷宮の負荷変化はない。
変わっていたのは、給水代替に使う地上側の作業帯だった。
前日貯留の確認が終わった後、移動式の予備槽を二基、入口外へ寄せていた。退避路そのものは塞いでいない。人が通る幅も測ってある。
ただ、予備槽をつなぐ保護帯が、水路沿いの湿った床を横切っていた。
人間の図面では作業域の外だった。
運搬種にとっては、いつもの道の途中だった。
水路当直が、過去の潮位札を持ってきた。
河口の水が高い時間、運搬種は湿った低地を通る。水が引けば、壁側の乾いた帯へ寄る。昨日は水が高い時間にも壁側へ来たため、当直は《季節外》として映像を残していた。
「予備槽を置く前は?」
私が聞くと、当直は三日前の同じ潮位を開いた。
二列が水路沿いを通り、壁側へ来た個体はゼロだった。
水路側の道を塞がれた列が、第二退避線へ回った可能性が高い。
原因候補は見つかった。
しかし、保護帯を動かせばよいとはまだ言えない。
予備槽は停止中の給水を守るために置いた設備だ。演習の退避線を作るために代替供給を失えば、開始条件を別の場所で壊す。
給水担当は、槽を空にして片づける案を拒否した。
「受領済みの量を、試験の都合で未受領へ戻しません」
正しい拒否だった。
現地設備班は、槽を動かさず、保護帯だけを地上側の乾いた作業路へ移せるかを確認した。長さは足りる。通路を横切らない。けれど固定位置を変える作業は、演習班の許可ではできない。
設備班の当直責任者が通常の変更票を開き、給水担当が受領を維持できる範囲を記した。現地安全班は、変更作業中の退避先を演習時とは別に取った。
私の役割は、変更を命じることではなかった。
昨日の中止原因と考える範囲を記し、移設前後で見る対象を閉じる。
予備槽の表示。
地上側受領の継続。
水路沿いの湿った帯。
運搬種が板を押す向き。
第二退避線の空き幅。
五つを、別の担当が確認した。
保護帯は槽から外さず、負荷を落とした状態で乾いた側へ移された。設備班が固定を閉じ、給水担当が予備槽の受領表示を戻す。安全班は、人の通路と水路側の両方から道具が消えたことを確かめた。
作業が終わっても、運搬種はすぐには戻らなかった。
一匹が第二退避線の手前で止まり、触角を床へ当てている。後ろの列も止まった。
開始窓は残り十九分だった。
「追い払えば間に合います」
護衛の一人が、採用案ではなく選択肢として言った。
現地安全班が首を振った。
攻撃性はない。水路側へ戻るかを観測している最中に人が動かせば、戻った理由が保護帯の移設か、人への回避か分からなくなる。
私たちは待った。
潮位札では、次の運搬列が来るまで一周期ある。時計の分ではなく、空の個体が水路奥へ戻り、新しい板を押して出てくるまでが、現地当直の比較単位だった。
最初の個体が向きを変えた。
水路沿いの湿った帯へ降り、板を押したまま奥へ消える。後ろの二匹も同じ道を取った。
次の列は、最初から水路側を通った。
壁側の定点には一匹も入らない。第二退避線の床面札も動かなかった。
若い水路当直が、完了札へ伸ばしかけた手を止めた。
「潮が下がったから戻った可能性が残ります」
保護帯を移した結果ではなく、自然の周期がたまたま重なったなら、中止原因を除いた証明にはならない。
私たちは三日前の潮位記録だけでなく、同じ季節帯の六勤務を開いた。
運搬種が壁側へ切り替わるのは、床面の湿り札が二段下がった後だった。今日はまだ一段目の上にある。保護帯を動かさなければ、水路側を選ぶ時刻だという現地記録が残っていた。
設備班は移設前後の床面映像を重ねた。帯を動かした場所から湿った道が再びつながり、二列ともその線の内側へ足跡を残している。
それでも、仮設帯をもう一度戻す試験はしなかった。
原因を確かめるために、使える退避線を再び塞ぐ必要はない。現地正常との一致、変更前後の差、二周期の再現が揃えば、危険な再現試験を足さずに閉じられる。
中止原因の候補は、そこで初めて一つに絞れた。
仮設の保護帯が通常の運搬帯を横切り、魔物列を退避線へ回していた。帯を移した後、同じ潮位で二列が過去の道へ戻った。
迷宮が中央の指示を待って直ったのではない。
自分たちが置いた物を、自分たちの記録で見つけ、自分たちの権限で置き直した。
残り八分では、当初の開始窓を使わなかった。
観測一周期を終えた直後に演習を重ねれば、魔物の平常を確認した班が交代できない。現地運営責任者は今日の窓を閉じ、次の潮位帯へ新しい開始時刻を置いた。
中央へ送ったのは延期申請ではない。
《現地再設定・代替受領継続・次窓確定》という状態通知だけだった。
次の窓では、入口内の人数をゼロから確認した。
荷は空。人工流入は模擬対象の一枠だけ。予備槽は受領済み。二本の退避線を、計器箱を持った作業員が実際に歩く。水路側では運搬種が二列を終え、次の戻りまで間がある。
開始判断は現地運営責任者が出した。
継続判断は安全班が持った。
私は床面の二段振動と、昨夜だけ現れた細い三度目を比べた。
一枠を落とすと、最初の揺れが支持帯へ入り、遅い二度目が工具箱の留め金へ来る。
平常の順だった。
無負荷へ入った後、三度目の細い応答が床面記録器へ現れた。異常名は付けない。前回と同じく、現地平常にない応答として時刻を残す。
強さは中止幅の内側。境界灯、位相計、魔物の運搬帯、二本の退避線にも別の変化はない。
安全班が継続を返した。
予定した保持を終えても、自動再開はしなかった。
運転担当が一枠だけを低負荷へ戻す。給水担当は予備槽を解除せず、地上側の受領が続くことを確認する。床の二段振動が同じ順で戻り、運搬種は水路側の道を変えなかった。
設備側と受領側が別々に署名して、河口側班の再試験は完了した。
演習で使った視覚手順も、そのまま採用にはしなかった。
《退避線》の図に、人の通路しか描かれていなかったからだ。
現地版では、人の二本線と、生態動線の細い帯を別の輪郭で重ねた。交差した時は攻撃表示がなくても中止。再開前には、現地正常の一周期を見た担当者札が必要になる。
別地域が同じ魔物や潮位を持つ必要はない。
人以外が日常的に使う帯を現地班が一つ定義し、作業中に重なれば止める。その空欄だけが共通手順へ戻された。
完了票には、昨日の中止も残した。
《退避線重複で中止》
《仮設保護帯を現地変更》
《同潮位二周期で運搬帯復帰》
《再試験完了・三度目応答は比較継続》
中止を消して完了だけを送れば、次の班は仮設設備を人の図面だけで置く。
隣接検証席は、私たちの判断を承認し直さなかった。現地原本、変更票、給水受領、安全班の中止権、再開確認が一組でつながっていることを確かめ、《受領》を返した。
日本側の後出し署名欄は増えなかった。
宮前への質問欄も、空欄のままだった。
私は完了報告を閉じる前に、床面記録の時刻線を見直した。
無負荷から三度目の応答までの間に、記録器が一度だけ細く振れている。
河口側迷宮の床面とも、水路補助室の人工流入とも時刻が合わない。
運搬種の列も、その時は水路奥にいた。
欠測ではない。二台の記録器に同じ向きで残っていた。
ただ、どの登録設備の反応かを示す札がなかった。
私は原因名を作らず、《所属ノード未確定の脈動》として原本へ一行足した。
遠い班の完了報告は、完了を取り消さなかった。
その代わり、完了の中にあった一つの空白を、次に探す索引へ渡した。




