全球演習、宮前は一地点
全球演習が始まる七分前、俺は車輪の緩んだ計器台を作業帯から外した。
世界の開始を遅らせる不具合ではない。
市営第七号迷宮の入口外で、今日の俺たちが使えない道具が一つ出ただけだ。
予備台はある。
ただし、設置位置と床の高さが変わる。
「右の観測点を外します」
名取さんが記録票の四点を三点に変えた。
予備台を同じ位置へ無理に置かない。前日の正常記録がない高さから数字を増やしても、比べる先がなかった。
現地運転員は、三点で演習の中止条件を守れるかを先に確認した。
一点でも入口の戻り幅と誘導灯の遅れを見失うなら、今日は始めない。
三点では、どちらも残った。
《観測点一か所減・代替値なし》
未取得を明記して、市営第七号迷宮は開始可のまま残った。
今日の演習は、全球同時の十一分停止ではない。
各地が自分の平常運用を崩さない小さな範囲で、開始条件、無負荷判断、継続観測、中止、隔離、低負荷再開までを模擬する。
本番と同じなのは、中央が現地の未確認を埋めないことと、完了報告を宮前直人の判定に通さないことだった。
俺の手元に世界地図はない。
市営第七号迷宮の入口、人数、入場記録、代替受領、三つの観測点、二本の退避先だけがある。
世界のほかの地点を表示する窓も閉じていた。
別地点の状態を見て、ここの不一致を小さく読むのを避けるためだ。
俺の担当は、入口壁面の戻りと三点の原本を比べ、違和感があれば原因名ではなく時刻と範囲を返すこと。
現地停止も、安全確認も、再開操作も持たない。
今回の位置では、白瀬さんも久世統括官も見えない。
二人は全体の開始命令を持つ席にいるのではなく、事前に承認した範囲と代替予算が使われたかを後から監査する。
各地の開始時刻も同じではなかった。
別の時差、休眠枠、生態周期、代替受領に合わせ、同じ状態遷移を別の時刻に試す。
一斉に時計を押す訓練ではなかった。
世界側の完了報告は、三地点から四地点の小さな検証組でつながる。
各地点が自分の原本を、事前に決めた近接検証席へ送る。
検証席は完了か中止かを判定し直さない。必要な原本、現地署名、欠測、隔離残件が一組で届いたかを確認し、次の検証席へ受領だけをつなぐ。
国外班の鎖は国外班の中で閉じる。
日本側の鎖も、俺の手元の一地点を通過点にしない。
俺たちの原本は、国内の別地点が受け、あちらの原本もここには来ない。
本番で俺の通信が切れても、国外の完了報告は迷子にならない形だった。
市営第七号迷宮の演習時間が来た。
入口内側の人数はゼロ。
荷は空。
人工流入は、模擬対象の一枠だけを落とせる。
地上側の受入れ先は、演習中に戻さないことまで署名している。
朝倉さんの安全班が二本の退避先を歩いた。
一本は通常の入口。
もう一本は外周通路へ抜ける小扉。
計器台を一つ外したので、小扉までの幅は前日より広い。
「計器を減らして、逃げ道が増えた」
朝倉さんは安全表にそう書いた。
観測点を減らした損失と、作業帯が広がった利点を別の欄にする。
現地運転員が一枠を落とした。
入口の低い振動が一つ細くなる。
市営班全体の勤務を預かる小暮さんとは別に、市営第七号迷宮の現地運用と、市が続ける研修線の実務を担当する小田切美緒さんが、二台の計器を分けて読む。
名取さんは壁面の光と原本時刻を閉じる。
俺は、入口から手前の戻りが弱くなり、清掃槽側の細い振動だけが一拍残るのを拾った。
「清掃槽側、細い戻りが残っています。原因は未確認。三点の幅は継続範囲内です」
俺の言葉で継続は決まらない。
小田切さんの二台と、名取さんの壁面、現地運転員の停止表示がそれぞれ継続範囲にある。
朝倉さんが退避幅と通信を確認し、現地責任者が演習継続を返した。
清掃槽側の細い戻りは、回数を重ねるごとに薄くなった。
消えてはいない。
正常の幅として当直が以前から持っている。
だが、第一回の演習原本として、一拍残る方向と、次の試験で比べる必要がある。
予定の保持を終えた。
自動で再開はしない。
現地運転員が一枠のみを低負荷へ戻し、小田切さんの二台が先に受ける。
地上側の受入れ担当が到着を返し、名取さんが壁面の戻りを閉じた。
清掃槽側の一拍は、再開と同時には太くならなかった。
設備を戻せば診断信号も戻る、という仮説は外れた。
それでも、今回の低負荷枠は現地正常に入った。
《完了》の下に、《清掃槽側細応答・次回比較・現地当直》が残った。
完了と観測継続は両立した。
市営第七号迷宮の原本は、予定された国内検証席へ送った。
俺の名前は《診断》欄の一つにあり、《完了承認》欄にはない。
十分後、国内検証席から原本束が一度返ってきた。
低負荷の戻りが不成立だったのではない。
外した右観測点の欄に、誰が外す判断をし、現地責任者が三点で継続できると閉じたかが、参照番号しか残っていなかった。
必要な原本へ辿れば署名はある。
しかし完了束だけを引き継いだ班は、車輪の緩みで減らしたのか、都合のよい三点だけを選んだのか分からない。
検証席は、元原本を自分で探して欠けを埋めなかった。
《観測点変更・判断者と継続受任の引継ぎ不足》として、現地束へ返した。
真央さんが、署名欄の文字を増やしたのではない。
開始七分前の記録、右観測点を外した未編集映像、現地運転員が三点の中止条件を読み返した票を、完了束の変更欄へ直接つないだ。
朝倉さんは、計器を外して退避幅が増えた安全票を添えた。
判断を後から《受信・実行》に見せるためではない。
三点化で失った観測と、増えた退避幅を、次の検証席が両方読めるようにする。
再送後、国内検証席は《受領》を返した。
一回目の差し戻しも原本束の先頭に残った。
《完了》は、最初から不備のない班に与えられる得点ではない。
完了を言い直すまでの経路を、他の班が追える状態だった。
真央さんの記録端末に、別の検証鎖の受領状態が入った。
国外側の鎖だった。
「こちらは受領欠けなし。完了八、未実施三、中止ゼロ。地点名の一覧は出しません」
数を世界の反応にしない。
八地点の完了原本は俺を通っていない。
未実施の三地点も、遅れているのか、現地の定時を待っているのか、ここからは判定しない。
ただし一件だけ、前の作業票との接続を確認した。
沿岸公共迷宮は《実施前・四受領欄の確認継続》だった。避難所、給水、選別庫、水路補助室の確認を中央が埋めず、次の開始枠は現地運営責任者が決める。先に閉じられた開始欄は、代替設備が届いたという理由だけでは開いていなかった。
俺たちは自分の計器台を片づけた。
緩んだ車輪には《使用停止・機材担当》の札が付いている。
全球演習は、俺たちの完了で終わらない。
別の時間帯で、別の生態周期を待つ班がいる。
帰りの工具箱を閉じた時、真央さんの端末で受領音が一度鳴った。
中止ゼロの欄が、一に変わった。
国外の河口側班が、開始直前に定点の魔物動線が変わり、第二退避線と運搬帯が重なったと返していた。
原因の特定を始める前に、現地安全班が演習を中止した。
人は入場前。
設備は平常運用。
代替受領は解除せず、次の現地判断まで保持。
中央への質問欄は空だった。
宮前への照会欄も空だった。
中止原本は、その国外班と隣接検証席の間で受領済みになっていた。
真央さんは《失敗》ではなく、《現地中止・設備安全・再試験未定》へ入れた。
全体端末は、中止を受けて《完了率》を下げる表示を出さなかった。
実施前、現地中止、完了、隔離残件あり。
状態は四つの箱に分かれ、一本の進捗棒にはなっていない。
完了地点の数を増やすために、河口側班を《隔離済み》へ移すこともできない。
何も操作しておらず、隔離対象も決まっていない。
退避線が使えないと判断し、人を入れなかったことが成果だった。
中止原本の先頭には、入口線が切られていない定点画像があった。
人は入っていない。観測担当は平常の定点記録へ戻り、護衛の交代班も日常勤務へ返されている。代替受領札だけは、現地責任者が日常運用への復帰を閉じるまで保持されていた。
中央側が返したのは理由の問い返しではなく、中止中の代替、交代、記録保持を演習費へ載せる受領番号だった。
画面の中止札が、入口の未使用線、戻った勤務、保持中の代替、支払われる費用へつながった。
俺は返信しなかった。
助言するための情報も、決める権限も、俺の手元にはなかった。
何より、その班はもう、何を守るために止めたかを自分たちの原本へ残していた。
全球演習の最初の中止は、中央の回答を待ち始める前に、現地の退避線を閉じるという仕事まで終えていた。
閉場後の市営第七号迷宮では、次の当直が三点の観測を受け継いだ。
清掃槽側の細応答は、全球演習の警報に格上げせず、この現場の次回比較へ残す。
緩んだ車輪の計器台は機材担当が回収し、予備台は前日と違う高さのまま正常比較へ使わなかった。
演習本部の閉会宣言はなかった。
誰も完了数を読み上げなかった。
未実施班は自分の開始窓を待ち、中止班は自分の原本を閉じる。
完了班も、一度完了したから次の班の中央にはならない。




