台帳にない入口
三分七秒で、十一分の時計が灰色に戻った。
岩壁側の暫定担当が《位相不低下》で現地中止を出したからだ。
三つの迷宮は止まっている。岩壁側も、人と荷は入れていない。それでも、外側に置いた二台の計器だけが開始前の高さを保っていた。
共通時計は、四地点が無負荷になった時刻しか数えない。
三分進んだ実績として残すことも、岩壁側だけを外して続けることもできなかった。
観測室の画面から数字が消える。
代わりに、各現地の中止条件と、停止を保持できる残り時間が出た。
山腹は診療所の地上予備が続く間。谷側は延期した保冷便を翌日扱いのまま置ける間。旧採石場正面は交代班の退避余裕を削らない間だった。
止めたまま原因を考え続けられる設備は、一つもない。
「岩壁側、値は上昇していません。接近区域も維持できます」
暫定担当の報告が入った。
続けていい、とは言わなかった。
「試験の時計は不成立です。現在の安全停止を調査保持へ切り替えます。内側には入りません」
朝倉さんが、旧採石場正面から返した。
観測室にいる俺へ質問は来なかった。
送話ボタンがないのは試験開始時と同じだった。俺の紙には、岩壁側の定点マイク原音と二台の未平滑波形から置いた《短い戻り継続》の仮説がある。だが、現地班も持つ同じ原本へ俺の読みを足しても、停止方法は出ない。
白瀬さんは、四地点の保持終了時刻を別々に確認した。
久世統括官は、中止費の画面を開いた。
山腹の地上予備は、今日の一枠を使い切る。谷側の一便は翌日へ回り、受入庫の夜間管理が増える。四班の待機と交代、記録担当、岩壁側の警備は、試験が三分で不成立になっても勤務した分が消えない。
延期になれば、同じ人員と代替をもう一度確保する。
「原因調査を急げば、今日中にやり直せますか」
久世統括官が聞いた相手は、俺ではなく花房室長だった。
花房さんは三つの代替欄を見た。
「地上予備は、試験の二回分を用意していません。谷側の保冷便も、今日もう一度受入れを閉じれば翌日の通常便と重なります。現場を止めて待たせることはできますが、再試験の条件は残りません」
安全だから費用を無視するのでも、費用が出たから危険を正常へ読み替えるのでもなかった。
今日の試験は、もう一度できない。
まず、台帳にない負荷が本当に入口から来ているかを確かめる必要があった。
行政の照会へ、採石場時代の避難記録が返ってきたのは、それから四十分後だった。
紙の原本は地域資料庫にあり、画面へ届いたのは閲覧用の複製だった。
《第三年・旧採石場避難訓練》
正面口とは別に、《B避難口》の人数欄がある。
内側から出た十四人、外側で受けた十四人。旧式の人数札二枚の番号まで残っていた。
避難路図は手書きで、現在図へそのまま重ならない。岩壁の形も、十五年の補強で変わっている。
ただ、B避難口から集合所へ向かう途中に、三角屋根の揚水小屋が描かれていた。
真央さんが古い広報映像の原本を並べた。
資材台車が消えた岩壁の左上に、同じ三角屋根が映っている。画面の時計はずれているが、屋根と正面入口の位置関係は変わらない。
避難記録だけなら、昔そこに道があった証拠でしかない。
映像だけなら、資材台車が画角外へ出た可能性を消せない。
二つを重ねると、現在の接近区域の西端が候補になった。
現在の土地管理記録には、採石場の閉鎖後に揚水小屋を防災倉庫へ改築した履歴があった。
工事図の迷宮側は、厚い灰色で塗られている。
《既設壁を利用》
その一行だけで、壁の向こうが埋められたのか、扉を塞いだのか、通路を設備へ転用したのかは分からない。
閉鎖検査の番号を探すと、建物の完了検査はあるが、B避難口の閉鎖確認はなかった。
反対に、翌年の保守費には《既設戻り路・清掃》が一度だけ載っている。
支払先は迷宮保守会社ではなく、倉庫設備の施工班だった。
古い入口が閉じた記録と、現在設備へ変わった記録のどちらもない。
ただし、同じ場所が別名で引き継がれた可能性は高くなった。
土地管理担当は、その場所が今の地域防災倉庫の裏手だと確認した。
倉庫の管理者へ連絡すると、立会いに来た職員は入口の存在を知らなかった。
「迷宮設備は使っていません。倉庫の防湿循環枠なら、前の施設から引き継いでいます」
隠していた人が見つかったわけではなかった。
施設の引継ぎ書では、防湿循環枠は建物設備になっている。どこへ空の負荷を返すかは《既設戻り路》としか書かれていない。
迷宮台帳は正面入口だけを引き継ぎ、建物台帳は戻り先を設備名で引き継いだ。
同じ物が、二つの台帳の境目から落ちていた。
獅堂さんは、岩壁側の黄色線を動かさなかった。
入口候補が絞れても、退路と内部人数は増えていない。調査班を内側へ入れる理由にはならなかった。
倉庫側から見られる範囲だけ、立会いで確認した。
奥の棚を空けると、補強板の下に古い黄色線が十センチほど残っていた。床には、現在の倉庫台車より狭い車輪跡が二本ある。壁際の金具には、避難記録と同じ番号の人数札を掛けた跡があった。
補強板の中央には、新しい防湿循環枠の戻り表示が付いている。
古い入口の現物と、現在設備が同じ場所にあった。
それでも、二倍の流入をこの設備のせいだとはまだ決められない。
倉庫職員が今日の運転原本を出した。
試験開始の二時間前、防湿循環枠は備蓄毛布の入替えに合わせて通常より長く動いていた。停止三分目にも、自動の戻し運転が続いている。
時刻を岩壁側の二台へ重ねると、循環枠の開始後に二台が上がり、終了予定を過ぎても高いまま残っていた。
相関だけでは、同じ時刻の別負荷を除けない。
花房さんは倉庫の防湿を切る前に、地上用の代替機を受け取らせた。備蓄を湿気へ晒して試験の証拠を作ることはしない。
管理者が建物設備として循環枠を止める。
岩壁の内側には、誰も入らない。
戸田さんは倉庫の操作時刻を記録し、岩壁側の記録担当は二台を互いに見えない画面で読んだ。
倉庫職員には、岩壁側の数値を見せなかった。
下がったと言われて操作時刻をずらすことも、期待した反応が出るまで停止を長くすることもできないようにした。
停止は建物側の通常手順で一回。
確認運転も、試験前に決めた短い一回だけ。
反応が出なくても追加操作を重ねず、《関連未確認》へ戻す条件だった。
一台目が下がった。
少し遅れて、型の違う二台目も同じ向きへ動いた。
正面入口の計器は変わらない。
倉庫側の戻り表示が消えた時、岩壁側の緑灯が十五年前の映像と同じ位置で薄くなった。
管理者は一度だけ、荷を入れない確認運転を行った。地上代替を残し、値が上がれば即時停止する条件だった。
緑灯が戻り、岩壁側の二台が上がる。
確認運転を止めると、二台はもう一度下がった。
古い避難記録。
倉庫裏に残った入口の現物。
人工流入を止め、戻した時の反応。
三つが同じ場所と時刻でつながった。
《行政台帳記載なし。現役性未確認》だった入口候補は、《旧B避難口・防湿循環枠の人工流入あり》へ変わった。
閉鎖記録がない理由も、現役設備になった経緯も、まだ全部は分からない。
だが、止める対象と、現地運転責任者は決まった。
住民からも、昔あの裏手で避難札を返したという話が二件届いた。
真央さんは証拠欄へ入れず、《追加照会の手掛かり》へ分けた。
人の記憶は位置を探す助けになる。現在稼働の確定は、記録と現物と反応で行った。
「これで、今日の続きを数えられませんか」
倉庫職員が、灰色の時計を見た。
自分たちの設備が延期原因になったことを気にしていた。
朝倉さんが答えた。
「最初の三分は無負荷ではありません。今から始めるには、四地点の代替、人員、正常原本を取り直します。今日は、その条件が残っていません」
山腹では、停止保持を終えても補助枠をすぐ戻せなかった。
診療所が地上予備で保冷庫を維持している間に、安全班が外周路をもう一度歩く。谷側も、封をした受入庫の一箱を今日便へ戻さず、翌日の受領先へ引き継いだ。
旧採石場正面は閉場状態へ戻したが、岩壁側の黄色線には夜間警備が残る。
三分で中止したから、三分分の費用だけで済むわけではなかった。
止める前に用意した代替と、止めた後に安全へ戻す仕事の両方が必要だった。
久世統括官は、中止費の欄から倉庫名を外した。
台帳を分けた制度と、地域試験を承認した国の調査費へ載せる。倉庫へ請求を移せば、次の未登録設備は見つかっても報告されなくなる。
花房さんが、三迷宮、旧B避難口、診療所、保冷便、四現地班の予定を重ねた。
次に全部が揃う空欄は、一か月後だった。
今日使った地上予備、延期した一便、四班の勤務、夜間警備は戻らない。防湿循環枠を止めている間の代替費も、次の試験日まで続く。
時計の数字を三分から十一分へ書き換えれば、費用だけは小さく見せられた。
誰もそうしなかった。
試験票には《中止》が残り、その下に新しい日付が入った。
一か月後。
台帳にない入口を、今度は最初から止める日だった。




