止めない責任
公聴会の翌朝、国家迷宮インフラ庁の統括官室へ二つの損失表が同時に届いた。
どちらにも、最後は私――久世征一が署名する。
一つは、地域三迷宮を止めた場合。
もう一つは、止めなかった場合。
前者には、山間診療所へ送る保冷材、県境を越える搬送便、夜間の発電補助、停止中の作業員手当が並んでいる。
後者は、最初の欄が空白だった。
「止めなければ、現時点の追加費用はありません」
担当課長はそう説明した。
私は空白へ了承印を押さなかった。
費用が発生していないのではない。計画停止をしない場合、何が蓄積し、次の異常停止で誰が困るかを数えていないだけだった。
港湾事件では、三港を計画して止める前に地上便と冷蔵余力を作った。
それでも鮮魚は一部失われ、検査材の予定は動き、前勤務の交代は遅れた。
計画のある停止ですら、損失をゼロにはできない。
まして、地域網がどの順に負荷を受けるか分からないまま故障停止へ入れば、最初に止まった施設だけでなく、代替に使う予定だった隣の迷宮まで同時に失う可能性がある。
私は二枚目へ、港湾事故番号をそのまま転記させなかった。
地域も用途も違う。
代わりに、《突然停止時に代替へ使えなくなる設備》という欄を作らせた。
発電補助迷宮が先に落ちれば、診療所の保冷庫は地上電源へ移る。
その地上電源の燃料搬送は、谷側の保管迷宮を経由する。
保管迷宮も同じ網で負荷を受ければ、燃料を置く場所と医療材を置く場所を一緒に失う。
確定した事故予測ではない。
だから損失額へ足して決裁を誘導することもできない。
《未試験の共通故障・影響上限未確認》と残した。
空白よりは、責任のある記録だった。
「統括官」
地域調整の回線から、花房保全室長が呼びかけた。
「提示された試験時刻では、代替便を受けられません」
彼女の画面には、道路の運行表が出ていた。
三迷宮を十一分止めるだけなら、夜明け前が最も利用負荷は少ない。
しかし、その時間の山道は保冷車が一台ずつしか通れず、もし再開を保留すれば、次の車が折返し場所を失う。
「停止時間は十一分です」
担当課長が言った。
「準備と段階復旧は十一分ではありません」
花房室長は答えた。
「一入口が赤札閉鎖になれば、その日の便は戻りません。十一分後に全部使える前提なら、試験には同意しません」
私は停止表の《影響時間》を直した。
十一分ではなく、代替開始から段階復旧を終えるまで。
終了時刻は固定せず、閉鎖継続時の終日運用を別欄へ置いた。
試験開始候補は、夜明け前から昼便の谷間へ動いた。
利用負荷は少し増える。
代わりに、地上車のすれ違いと応援班の交代を確保できる。
止める損失が増えても、失敗した時に閉じ続けられる時間を買う方を選んだ。
診療所側の担当者は、それでも承認を返さなかった。
「保冷材の代替は、発送元で積んだだけですね」
公聴会で変わった文面が、早くもこちらへ返ってきた。
受領側の保冷庫には、通常便と代替便を同時に置く余力がない。
通常便が試験前に遅れて着けば、代替便を受けられなくなる。
私は輸送台数を増やさなかった。
代替便を一台、地域外の中継庫で待たせ、診療所が空きを返してから入れる形へ変えた。
余計な待機費用が生じる。
その費用は、試験を求める国の枠へ載せた。
地域事情への協力金、という曖昧な名目にはしなかった。
《地域十一分試験・代替受領待機》である。
中止しても支払う。
試験が成功しても、現地の日常経費へ戻さない。
計画停止に伴う損失を、現場が黙って吸収する制度は続かない。
担当課長が、別の案を出した。
「宮前氏を三迷宮の遠隔監視に置けば、再開保留の確率を下げられます。現地が迷った場合だけ助言を求める」
私は、昨日の最後の質問を思い出した。
宮前氏が誤った時、誰が止めるのか。
答えは、宮前氏より優秀な一人を探すことではない。
誤りが事故になる前に、別の記録、別の権限、別の現場判断が同じ計画へ食い込めることだった。
港湾では、宮前氏の予測外だった第二の戻り流に対し、海中班が地上の回答を待たず施工範囲を縮めた。
海浜では、宮前氏が不在のまま、朝倉班が最初の仮説を捨て、白瀬分析官が停止し、現地班が再開した。
二件とも、宮前氏が正解を配ったから成立したのではない。
私は遠隔監視案を却下した。
「彼の観測を捨てるのですか」
「捨てません」
試験前に、宮前氏が見る観測点と仮説を記録する。
現地班も自分たちの正常、未測定、中止条件を別に記録する。
試験後に照合すれば、宮前氏の診断がどこまで移せたか、どこが固有の感度かを検証できる。
ただし、試験中に現地が彼へ答えを求めれば、分かるのは「宮前氏を呼べばこの地域を止められる」ということだけだ。
全国標準の証明にはならない。
停止表と不停止表を、同じ画面へ重ねた。
止める側には、代替費、補償、作業員、予定変更、再開保留がある。
止めない側には、共通故障の範囲未確認、正常記録の不足、緊急時に代替設備まで失う可能性がある。
どちらも悪い選択だった。
責任者の仕事は、片方を無傷に見せることではない。
損失を受ける人と、止める条件と、撤回できる時点を先に置くことだ。
私は地域試験準備の開始欄へ署名した。
実施承認ではない。
三迷宮の現地正常を採り直し、代替受領、退避、二重承認、独立再開確認が揃った時だけ、試験実施の審査へ進む。
どれか一つ欠ければ延期する。
延期した費用も国の試験費へ残す。
花房室長は、その条件なら準備を受けると返した。
診療所は中継庫の受領確認を条件に、代替計画を受理した。
現地の迷宮責任者三人は、自分の施設を十一分後に必ず再開する、とは約束しなかった。
赤札閉鎖を選んでも失敗扱いにしないことを、参加条件へ加えた。
準備承認から二時間後、最初の延期条件が実際に動いた。
試験日に地域待機へ置く予定だった救急搬送車が、隣県の土砂事故支援へ出ることになった。
地域にはもう一台ある。
平時の必要数だけを見れば足りる。
担当課からは、試験計画を維持できるという連絡が来た。
花房室長は維持を認めなかった。
「残る一台は、谷側診療所の日常搬送です。試験で迷宮側を止めた時間に患者搬送が重なれば、予備がありません」
「試験日はまだ先です。支援車は戻る可能性があります」
「戻ったことを実施条件にしてください。戻る予定を、代替の現物にはできません」
担当課長は、すでに確保した人員と中継庫の取消費用を示した。
延期すれば、訓練班の勤務も組み直しになる。
止めない損失表へ、その費用を移す案まで出た。
延期したせいで損をした、という意味では間違っていない。
しかし、その記録方法なら、現地が不足を申告するほど「試験を妨げた側」の損失が増える。
次から不足は表に出なくなる。
私は取消費用を停止側へ残した。
《安全条件未成立による国判断の延期》
花房室長の拒否ではなく、開始条件を設けた私の決裁である。
人員の再配置費、中継庫の予約、診療所の予定変更も、準備試験の費用として支払う。
救急搬送車が戻らなければ、別日を選ぶ。
戻っても整備確認と勤務交代が終わらなければ使わない。
延期で生じた損失を負担することも、停止責任の一部だった。
「それでは、条件を多く出した地域ほど費用がかかります」
財務担当が言った。
「条件を隠した地域で事故が起きれば、費用の名前が救助と補償に変わるだけです」
私は答えた。
費用が小さい計画を選ぶのではない。
どの損失まで引き受ければ、現地が危険を隠さず中止できるかを選ぶ。
救急搬送車の欄は赤ではなく灰色にした。
現時点で失敗でも、不足解消でもない。
戻りを確認する担当者と期限が付いた、未成立条件だった。
私は、空白だった不停止側の担当も決めた。
山腹発電迷宮は、壁面帯と計器のずれを花房室が日ごとに確認する。
谷側保管迷宮は、代替燃料と医療材を同じ保管余力へ載せない。
第三候補の迷宮は旧記録の照合が終わっていないため、試験準備中も閉場時の比較を増やす。
どれかが現地正常を外れれば、地域試験の予定日を待たず、通常の事故手順へ切り替える。
「試験をしない間の安全まで、試験費で持つのですか」
財務担当が聞いた。
「試験準備によって不足が明らかになった範囲です。知った後も日常予算へ押し戻せば、未確認のまま使わせることになります」
私は監視の追加勤務と原本保全を準備費へ入れた。
試験を実施するまで待つことも、何もしない選択ではない。
待つ間に壊れれば「まだ承認前だった」では済まない。延期と継続監視を同じ責任線へ置いて、ようやく不停止側の空白が閉じた。
最後に、試験の成功条件を開いた。
《十一分停止後、三迷宮を通常運転へ復帰》
通常運転の部分を消した。
《現地班が無負荷を確認し、再開可否を独立に判断。戻せない入口は隔離を継続》
さらに、一行を足した。
誰かの能力を否定する条件ではない。
能力を制度へ変えるため、必要な条件だった。
《宮前直人は試験中、現地指示を出さない》




