クビの日に鳴る警報
退職確認書の理由欄には、能力不足と印字されていた。
その下に、F級《保守士》は迷宮契約で運用価値が低い、とある。
警報が鳴ったのは、俺がその二行を読み終え、会社の印鑑が乾くのを待っている時だった。けれど最初の一声は、東央総合メンテナンスの事務所が入る駅ビルの訓練放送だと思われて、誰も席を立たなかった。
「宮前。内容に異議があるなら、今のうちに聞く」
机の向こうで部長が言った。
異議はある。俺は三十二歳で、ここへ来て十年、商業施設の巡回から迷宮周辺設備の点検までやってきた。止まりかけた設備を見つけた回数も、翌朝の営業へ間に合わせた記録も残っている。戦えないことと、保守の仕事ができないことは同じではない。
そのまま伝えると、部長は困ったように書類の端を揃えた。
「会社が取るのは探索随伴込みの包括契約だ。F級を一人置いても、危険区画へ入れる人間を別に雇うことになる。数字が合わない」
「私の点検実績は、評価に入っていませんか」
「事故にならなかった案件は、売上にならん」
それなら、話はきれいにつながる。
納得はしていない。ただ、何を評価されなかったかは分かった。俺は確認書へ署名し、未払いの時間外手当と離職票の発送日を確認した。会社の判断が不当だと思うことと、受け取るべきものを曖昧にすることは別だ。
机の脇には、工具鞄と私物を詰めた段ボール箱があった。欠けた縁のマグカップが上に載っている。次の勤め先が決まるまでは、昼の弁当を少し安いものに替える必要がある。
仕事そのものを嫌いになったわけではない。
人のいなくなった夜の売場で、昼には聞こえなかった送風の擦れを拾う。開店前に交換が終わり、最初の客が何も知らずに通っていく。何も起きなかった日の記録へ印を付ける。そういう仕事を、俺は気に入っていた。
だから次も設備の仕事を探すつもりだった。F級の登録を隠して雇われても、危険区画へ入れない事実は変わらない。なら、戦闘等級とは別に保守を見てくれる場所を探すしかない。ただし、今日の家賃と来月の保険料は、理想を待ってくれない。
退職したら、駅前の職業相談窓口へ寄る予定だった。夜勤はできる。休日の呼び出しも、交代が決まっているなら構わない。豪華な肩書より、異常を報告した時に「動いているから後で」と返されない職場がよかった。
この先も誰かが使う建物を見て回り、朝の担当へ安全な状態で渡す。それができる場所なら、迷宮でなくてもいいと思っていた。
仕事を続けたいという希望まで、解雇理由の欄へ預けるつもりはなかった。
俺は退職書類の封筒へ、連絡先と支給日のメモを入れた。悔しさを整理する作業票はない。けれど、次に困るものなら並べられる。
二度目の警報は、窓ガラスを震わせた。
低く長い音の下へ、細い音が幾重にも重なる。訓練用の電子音ではない。建物の骨組みを通ってきた、何かが裂け続ける音だった。
ほぼ同時に、事務所の照明が入口側から順に青く明滅した。
『天蓋第零迷宮にて境界壁破断。駅区画の皆様は、地上東口へ――』
放送が途中で砂を噛んだように途切れた。
天蓋第零迷宮。
各国の高位探索班でも未踏区画を残す、世界最高難度の迷宮。その入口は、この駅ビルと連絡通路を挟んだ市の管理区画にある。
廊下へ出ると、人の流れはもうできていた。東口を示す誘導灯に従い、社員と買い物客が走っていく。その靴音とは逆向きに、床下から鈍い振動が来た。
一度。
遅れて壁が鳴る。
もう一度、先に床。その後で壁。
「宮前、何してる。逃げるぞ」
部長に腕を引かれ、俺は動いた。まず人の流れへ逆らわない。段ボール箱は置き、工具鞄だけ持つ。途中で転んだ男の子を母親と一緒に流れの外へ起こし、駅員へ渡す。連絡通路の手前では、青白い霧が足首の高さを這っていた。
霧は迷宮側から来ている。だが、壁の裂け目から真っすぐ噴いてはいなかった。床の継ぎ目から先に湧き、通路の低い方へ広がっている。
見えている壁が原因なら、振動も霧も壁から始まるはずだ。
違う。
壁は、押されて最後に悲鳴を上げている。
俺は通路の柱へ触れず、少し離れた床で二度目の返りを待った。《保守士》として拾えるのは、答えではない。どの反応が先に来て、どれが遅れて返ったかという、関係の候補だけだ。
入口警報は右の境界壁を示している。床下の魔力流は正面から来る。霧はさらに低い位置から湧いている。一つの破損に見えて、止まる速さが三つとも違う。
会社で扱ったのは天蓋第零迷宮の地上付帯設備までで、内部の系統図を見たことはない。知らない設備を、建物と同じだと決めつけることもできない。
確認できるのは、壁だけ塞ぐ案では説明できない、というところまでだった。
通路の先で、担架が二つ運び出された。片方の負傷者は呼びかけへ返事をしていたが、もう片方の顔には酸素具が当てられている。救助員が「内部に残りあり」と叫び、別の隊員が首を振った。
怖い、と思った。
俺が見落とせば、中にいる人だけでは済まない。ここで壁を塞いだだけなら、押しているものが別の弱い場所へ回る。救助隊が入ったところへ、それが来る。
恐怖をそのまま抱えていても、人数は減らない。分ける。
人を出す。入口側の流入を止める。退路を確保する。図面と現物を比べる。測れていない場所には入らない。俺にできない戦闘と決裁は、できる人に頼む。
規制線の内側で、短い黒髪の女性が表示盤と避難表を交互に見ていた。自治体の災害対策腕章に、国立迷宮災害研究所の識別証を重ねている。
「東口の列を二つに分けてください。霧へ触れた人は救護へ。未計測を安全扱いしないで」
落ち着いた声だったが、指は表示盤の下降しない数字を追っていた。
俺は規制線の手前で止まった。勝手に越えれば、正しいことを言っても邪魔になる。
「すみません。迷宮側の設備担当はいますか」
女性が振り返る。
「今は全員退避中です。あなたは」
「宮前直人。東央総合メンテナンスの――」
もう社員ではない。言い直して、《保守士》の登録証と、受け取ったばかりの退職書類を見せた。
「元設備員です。壁より先に床が振動しています。霧も床側からです。壁だけを封じると、内部へ圧が戻る可能性があります」
「根拠は、その二つだけですか」
信用されていない。当然だ。今日まで別会社の社員で、今はただの避難者である。
「確認済みは音の順番と霧の方向だけです。原因は未確認です。ただ、上流の流入が続いている候補を危険側に置くべきです。止めない場合、救助区画へ負荷が移るかもしれません」
「自然な迷宮活動まで止めるという提案ですか」
知らないものを一括で止めろと言っているように聞こえたのだろう。
「いいえ。私が提案できるのは、人間側から入れている採取と搬送の負荷を切り離し、反応を見ることまでです。迷宮そのものの流れは、現場を見ていません。止めてはいけないものもあるはずです」
女性は、初めて俺から目を離して表示盤を見た。そこには採取、搬送、入口刺激が別々に並んでいる。彼女は一括停止ではなく、地上から確認できる人工流入だけを指定した。
「止めたことで警報が強まったら?」
「仮説が違います。内部へ入らず、避難範囲を広げます」
正しさを証明するために人を入れるつもりはない。それが伝わったのか、彼女は市の初動責任者へ連絡をつないだ。
女性は表示盤へ視線を戻した。壁の損傷値は上がり続けている。入口の警報灯は消えた区画まで、床下の振動だけが残っていた。
「止めるなら、必要なものは」
「内部の現況図。入退場人数。地上から止められる人工流入の範囲。中へ行くなら、進入と退路を決められる護衛。それから、私が違っていた時にも残る記録です」
「自分一人で行けるとは言わないんですね」
「戦えません。帰り道も守れません」
それはF級判定の正しい部分だ。だから解雇が正しい、とはならないが、現場で否定しても仕方がない。
女性は通信機を取り、地上側の搬送と採取を緊急停止するよう要請した。それから俺へ向き直る。
「白瀬玲奈です。研究所の危険分析官として市の初動へ入っています。あなたの話は仮説として採用します。ただし、私の許可範囲を越えないこと。内部の中止判断は護衛に従うこと」
「分かりました」
「まだ入れるとは言っていません」
規制線の向こうから、甲高い破断音がした。霧が一段高く膨らみ、救助員たちが担架を持って下がる。
白瀬さんは避難表の未確認欄を見た。俺は工具鞄の取っ手を握り直した。仕事を失った日に別の仕事を探すつもりはなかったが、あの壁の向こうには、帰れていない人と、閉じられていない流れがある。
「元栓はどこですか。閉めてきます」




