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朝稽古の踏み込みと、通らない一太刀

翌朝、街がまだ完全には目を覚ましきる前から、涼花たちは宿の裏手にある空き地へ出ていた。


石壁に囲まれた細長い空き地は、朝露を含んだ土がまだ冷たく、端には古い木箱と割れた樽が寄せてある。遠くからは市場の荷下ろしの音がかすかに聞こえ、焼き始めたパンの匂いが風に混じって流れてきた。


明るい朝だった。


けれど、涼花の胸の中には昨夜から引っかかったままの違和感が残っている。


前より通らない。


でも、身体が重いわけではない。足が遅くなったわけでも、怖くて踏み込めないわけでもない。むしろ動きそのものは、前より落ち着いてきている気さえする。


なのに、剣だけが前みたいに深く入らない。


ミレイは空き地の中央へ立つと、木箱の上へ二本の木杭を置いた。


「今日は先に確かめる」


涼花が剣の柄へ手をかける。


「何を?」


「お前が弱くなったのか、剣が噛み合ってないのか」


その言葉に、涼花は一瞬だけ目を見開いた。


ミレイは木剣を肩へ担いだまま続ける。


「昨日から見ていて、足は落ちてない。目も死んでない。むしろ最初の頃より周りは見えてる。なのに通らないなら、怪しいのは別だ」


フィアが壁際の木箱に腰掛ける。


「剣の方、ってこと?」


「たぶんな」


ルクトは少し離れたところで壁にもたれたまま、小さくうなずいた。


「前と、音が違う」


その言い方は曖昧だったが、涼花には分かる気がした。


前は、もっと刃が勝手に前へ抜けていくような瞬間があった。今は当たっても重い。切るというより、押している感触に近い。


ミレイはまず木剣を涼花へ渡した。


「一本目。剣の効きは無視して、動きだけ見る」


「木剣で?」


「そうだ。私に入れてこい」


涼花は木剣を構え、深く息を吸った。


踏み込む。打つ。返す。


朝の冷たい空気の中で、木と木が乾いた音を立てる。二度、三度、四度。涼花は打ち込み、ミレイはそれを受け、立ち位置を少しずつ変えていく。


何度かやったところで、ミレイが木剣を下ろした。


「やっぱりだな」


「何が?」


「お前自身は弱くなってない。少なくとも昨日感じてたほどじゃない」


涼花は息を切らしながら、わずかに肩の力を抜いた。


「本当に?」


「踏み込みは前よりましだ。空振りの入り方も減ってる。木剣なら普通に通る」


フィアが感心したように眉を上げる。


「じゃあ、やっぱり剣の側か」


「たぶん、あいつが前みたいに勝手に乗ってこない」


ミレイはそう言って、今度は本物の剣を涼花へ戻した。


柄を握った瞬間、涼花の中で空気が少し変わる。


白い線が、薄く見えた。


でもそれは相手の急所へ伸びる線じゃない。柄から刃へ向かって、うっすらと細く走る、短い筋のようなものだった。途中で何度か途切れ、先まできれいに繋がっていない。


ミレイが正面に立つ。


「今度はそれで同じ動きをやれ」


涼花はうなずき、踏み込んだ。


打つ。


木剣のときと同じつもりだった。足も、腰も、肩も、揃えたつもりだった。けれど当たった瞬間、刃がわずかに鈍く止まる。重い。通らないわけじゃない。だが、乗らない。


ミレイがすぐに言う。


「もう一回」


二度目。


三度目。


やはり同じだった。動きは崩れていないのに、剣だけがどこかで噛み合わない。


涼花は打ち込みを止め、息を整えながら剣を見下ろした。


「……やっぱり、おかしい」


「ああ」


ミレイは今度はすぐに否定しなかった。


「お前が弱くなったんじゃない。剣の効きが鈍ってる」


その言葉をはっきり言われて、涼花の胸の中で何かがすとんと落ちた。


怖かったのは、自分自身が落ちていたらどうしよう、という不安だったのだ。


でも違う。


自分の足も目も残っている。ただ、剣が前のように応えてくれない。


フィアが木箱の上で頬杖をつく。


「効きが鈍るって、そんなことあるの?」


「あるだろ」


ミレイは当然のように言った。


「道具には癖がある。持ち手との噛み合いもある。前は強く出すぎてたものが、今は抑えられてるのかもしれないし、剣が素直に力を渡してこなくなってるのかもしれない」


ルクトがぽつりと足した。


「前は、勝手に前へ行ってた。今は、ちゃんと呼ばないと来ない」


涼花はその言葉に顔を上げた。


「呼ぶ?」


「うん。今は、持つだけじゃ足りない感じ」


ミレイもそこで短くうなずいた。


「そういうことだろうな。なら修行のやり方も変える」


彼女は涼花の剣先を指で軽く示した。


「今日は強く振るのをやめる。剣の力を引き出すための入り方を探す」


「どうやって?」


「まず握りを変えろ。握り込みすぎるな」


涼花は言われた通り、少しだけ指の力を緩めた。


「それから、踏み込みの瞬間に剣を先に走らせない。足と腰を先に入れて、刃は最後に通す。お前は前の感覚を追うと、剣へ無理やり仕事をさせようとする。それで余計に鈍る」


図星だった。


通らないと感じるたびに、涼花は知らないうちに剣へ力を足していた。もっと前へ、もっと深く、と押し込むように。


でも、それで良くなる気配はなかった。


「もう一回」


ミレイが木剣を上げる。


涼花は息を整えた。


白い線がまた見える。今度は足元だけではなく、柄から刃へ向かう短い筋が、前より少しだけはっきりしている。全部ではない。刃の半ばで掠れ、先端までは届かない。けれど、さっきよりは分かる。


足を入れる。


腰を揃える。


肩を急がせない。


刃は最後。


打つ。


金属が当たる音のあと、手の中の重さが少し変わった。相変わらず深くは通らない。けれど、さっきまでみたいに途中で鈍く止まる感じが薄い。ほんのわずかに、刃が自分から前へ滑った。


ミレイの目が細くなる。


「今のだ」


涼花はすぐに構え直した。


「もう一回」


二度目。


三度目。


同じにはならない。それでも、まったくの偶然でもなかった。握りを緩め、足と腰を先に入れたときだけ、刃の返りが少しだけ軽くなる。


フィアが木箱の上で身を乗り出す。


「さっきと違うね」


「うん……」


涼花自身も、はっきり感じていた。


自分が強くなったという感じではない。


剣が、少しだけ応えたのだ。


ミレイはその違いを逃さず、すぐに次の指示を出した。


「今度は踏み込みを半歩浅くする。深く入ると、お前はまた腕で押す」


「半歩?」


「剣の力を引き出したいなら、お前の力を足しすぎるな。今は混ぜるな。まず剣が通る位置を覚えろ」


言っていることは厳しいのに、筋は通っていた。


自分の腕力や勢いで押し切ろうとするほど、剣の本来の効きが埋もれる。なら逆に、自分が余計なことをしない位置を探すしかない。


涼花は何度も繰り返した。


浅く踏み込み、腰を揃え、最後に刃を通す。


失敗も多い。少し気を抜くと、すぐ前の感覚を追って腕に力が入る。そのたびに剣はまた鈍くなる。


「違う」


「今のは急いだ」


「押すな。通せ」


ミレイの声が飛ぶ。


涼花は歯を食いしばりながら、ひとつずつ直していった。


途中で休憩を挟んだとき、フィアが水袋を差し出した。


「はい。今日は剣と仲直りする日だね」


涼花は苦笑する。


「喧嘩してたつもりはないんだけど」


「向こうはそう思ってたかもよ。“そんな雑に引っ張らないで”って」


冗談めかした言い方だったが、妙に納得できた。


ルクトが壁にもたれたまま言う。


「前は、向こうから来てた。今は、合わせないと来ない」


「合わせる、か……」


涼花は剣を膝に置いて見下ろした。


前みたいに勝手に強くはならない。


でも、だからこそ今必要なのは、自分が剣に合わせることなのかもしれない。


休憩のあと、最後にもう一度だけ打ち込みをした。


踏み込みは浅く。


力みは少なく。


足と腰を先に。


刃は最後。


当たった瞬間、白い線が柄から先へほんの短く繋がった気がした。刃先までは届かない。それでも、今までで一番自然に前へ抜ける。


ミレイが木剣を下ろす。


「今のを覚えろ」


涼花は息を切らしながら目を瞬かせた。


「まだ全然なのに?」


「全然でいい。今のはお前の身体じゃなく、剣の効きが少し戻った打ち方だ。そこを起点にする」


その言葉で、涼花はようやく今日の修行の意味を掴んだ。


自分を強くするだけじゃ足りない。


この剣に、もう一度ちゃんと応えてもらう。


そのための入り方、握り方、通し方を、身体に覚えさせなければならないのだ。


フィアが立ち上がって背伸びをする。


「で、今日はこれで終わり?」


「終わらない」


ミレイはあっさり言った。


「軽い依頼を受ける。今の感覚が、実際の相手にも出せるかを見る」


フィアが顔をしかめる。


「やっぱり休ませる気ないなあ」


「感覚はその日のうちに使わないと逃げる」


その通りだと、涼花も思った。


空き地を出るころには、朝の光はすっかり高くなっていた。市場の喧騒も大きくなり、街は今日の仕事へ向けて完全に動き始めている。


涼花は剣を鞘へ収めながら、そっと柄を撫でた。


自分が弱くなったわけじゃない。


ただ、剣の力を引き出す形を、まだ掴みきれていないだけだ。


なら、掴むしかない。


そう思いながら、涼花は仲間たちと一緒に朝の通りへ足を踏み出した。

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