セイル冒険者ギルドと、朝の市場
朝の光が支局の石段を白く照らしはじめたころ、涼花たちはようやく北側から少し離れた中庭へ出ていた。
夜のあいだ張りつめていた空気は、朝になったからといってすぐに消えるわけではない。けれど、空が明るいだけで呼吸は少し楽になる。兵たちは交代の気配を見せ、記録係は板を抱えて行き来し、どこか遠くでは炊き出しの匂いまで流れてきていた。
サナは石段の下で足を止め、四人を振り返った。
「北側の記録照合は、いったんこちらで引き取ります」
そう言ってから、サナは涼花の青い剣へ一瞬だけ目を向ける。
「だからといって、終わったとは思わないでください。ですが、ずっと支局の中に置いておく理由もありません」
「外へ出ていいんですか」と涼花が聞く。
「ええ。ただし遠出はしないこと。連絡がつく範囲で。呼ぶ可能性はあります」
フィアが肩の力を抜くみたいに息をついた。
「やっと外の空気だあ」
「空気だけ吸って腹がふくれるなら苦労しないけどな」とミレイが言う。
その一言で、現実が急に近くなる。
昨夜は支局の保護下で寝場所も灯りも確保された。けれど、それがずっと続くわけではない。涼花は無意識に腰の袋へ手をやった。重みは軽い。街道を越えてここまで来るあいだに使った分もあるし、食費も薬代も、装備の補修も馬鹿にならない。
サナはそんな空気を読んだのか、少しだけ言葉をやわらげた。
「午前のうちは南側の街区が安全です。市場も開いています。必要なものを揃えるなら今のうちに」
「仕事を探す場所はありますか」とミレイが聞く。
「あります。セイル冒険者ギルドです」
その言葉に、フィアがぱっと顔を上げた。
「ちゃんとギルドあるんだ」
「ありますよ」とサナは少しだけ目を細めた。「支局と護衛組合は別ですが、討伐や採取、護衛の中小依頼はギルドを通すのがいちばん早い。街で稼ぐなら、まずそこへ行くのが自然です」
涼花も思わず少し身を乗り出した。
「冒険者ギルド……」
旅の途中で名前くらいは何度も聞いた。けれど、きちんと足を踏み入れるのはまだ初めてに近い。
サナは短く道順を伝える。
「南市の中央通りを抜けて、鍛冶通りの手前です。大きな丸盾の看板が出ています」
「助かります」とミレイが言った。
サナはうなずき、最後に短く付け足した。
「楽しめるところは楽しんでください。張りつめたままでは、見えるものまで狭くなる」
そう言い残して、彼女は再び支局の奥へ戻っていった。
支局の門を出た瞬間、街の音が一気に押し寄せてきた。
石畳を打つ荷車の音。
店を開ける木戸のきしみ。
魚を並べる声。
焼き台に火が入る匂い。
港のほうから流れてくる湿った風。
布を広げる音、値切る声、笑い声。
セイルの朝は、街道沿いの宿場の朝とはまるで違った。ひとつひとつの音が大きいのではない。音の数そのものが多い。人がいる。物が動く。今日一日を稼ぐための手つきが、街全体に広がっていた。
「わあ……」と、最初に声を漏らしたのはフィアだった。「ちゃんと大きい街だねえ」
「ちゃんと、って何だ」とミレイが呆れたように言う。
「だって支局のまわりだけだと、固くて静かで、もっと息苦しい感じかと思ってたもん」
フィアはそう言いながら、すでに視線を露店の並びへ向けている。布を吊った店先には焼き串、丸いパン、干し果実、色の強い布、木の小物、鉄具の山まで並んでいた。
涼花も思わず立ち止まりかける。
正直、少し楽しかった。
昨夜まで、影だの接点だの、見えないものばかり追っていた。なのに今、目の前にあるのは焼きたての匂いと、値段を書いた札と、客引きの声だ。あまりにも普通で、だからこそ少しほっとする。
「涼花」とミレイが言った。
「はい?」
「顔がゆるんでる」
言われて涼花は慌てて口元を引き締めたが、フィアがくすくす笑う。
「いいじゃん。せっかく街に出たんだし。ちょっとくらい浮かれても」
その横で、ルクトは人通りの真ん中ではなく、通りの端を見ていた。露店よりも、そこから少し外れた細い横道や、建物の影になった場所を自然に選んで目で追っている。
「ルクト、何見てるの」とフィアが聞く。
「安い飯の匂い」とルクトは言った。
ミレイが即座に乗る。
「それは大事だ。案内しろ」
結果的に、一番最初に立ち寄ったのは派手な露店ではなく、通りを一本入った先の小さな汁物屋だった。大鍋で煮た豆と肉の薄い煮込みに、硬いが温かいパンがつく。観光客向けではないぶん値段が安い。
「なんで分かったの」と涼花が聞くと、ルクトは肩をすくめた。
「なんとなく」
「それ、すごい便利だねえ」とフィアが笑う。
店の外の粗い台に四人で腰を下ろし、朝の湯気を囲む。
豆の煮込みは塩気が強く、疲れた体にはちょうどよかった。パンは固いが、汁に浸せばちゃんと食べられる。豪華ではない。けれど、こういう食事が街で働く人間の朝なのだと思うと、不思議と気分が整った。
涼花は木匙を止めて、通りを行き交う人々を見た。
肩に縄をかけた荷運び。
桶を提げた女。
革鎧のまま朝飯をかきこむ護衛。
露店の前で値切る老人。
どの顔も、自分の今日をちゃんと知っているみたいに見えた。
「……なんか、いいですね」と涼花がぽつりと言う。
「何が?」とフィアが聞く。
「この街。まだ全然知らないのに、ちゃんと暮らしてる感じがする」
フィアがにっと笑った。
「わかる。ちょっと好きかも、こういうとこ」
ミレイは器の底を見ながら現実的な声を出す。
「好きになるのは勝手だが、宿代は待ってくれん」
その一言で、また現実が戻ってくる。
食事を終えたあと、四人は通りの相場札と宿の掲げ板をざっと見て回った。支局近くの宿はどこもそれなりに高い。剣の手入れにかかる銀貨、フィアが使う薬草と灯材、外套の繕い、保存食。必要なものを数えるたび、袋の中身が頼りなくなっていく。
「減るねえ」とフィアが言う。
「減る」とミレイが即答する。「そして減るだけでは済まん。補充しなければ次の移動で詰む」
「つまり」と涼花が言う。
「働く」とミレイが言った。
その流れで向かったのは、南市の中央通りを抜けた先にある、セイル冒険者ギルドだった。
大きな丸盾を模した木看板が、朝の陽を受けて揺れている。建物は二階建てで、正面の扉は広い。石と木を組み合わせた丈夫そうな造りで、脇には武器立て、入口横には依頼札の写しが何枚も貼られていた。
中へ入ると、空気が変わる。
酒場ほど騒がしくはない。けれど静かでもない。
革鎧の擦れる音。
椅子を引く音。
紙をめくる音。
依頼の説明を受ける声。
受付で貨幣を数える乾いた音。
壁には討伐、採取、護衛、運搬、雑務の区分札。奥には簡単な休憩卓、横には武器の預かり棚まである。
「……ほんとにギルドだ」と涼花が小さく言う。
フィアが笑う。
「何その感想。絵本の中みたいに思ってた?」
「ちょっとだけ」
ミレイはすでに依頼板の前へ立っていた。
「観光はあとだ。まず仕事を見る」
受付の女がこちらに気づき、慣れた声を飛ばしてくる。
「新顔かい? 登録証があるなら見せて。ないなら簡易受注扱いでも通せるよ」
ミレイが前へ出て手続きを進めるあいだ、涼花は依頼板を見上げた。
札が多い。
そして思ったよりも普通だ。
南水路の掃除補助。
荷崩れ街道脇の灰牙兎の群れ払い。
外れ畑の石背猪二頭。
荷運び護衛。
薬草採取の同行。
倉庫鼠の駆除。
世界の裏側に触れるような話は、ここにはひとつもない。
「こういうの、逆に新鮮ですね」と涼花が言う。
受付を終えたミレイが戻ってきて、うなずいた。
「こういうので食っていくのが本来の冒険者だ」
フィアが石背猪の札を読み上げる。
「これ、報酬は悪くないね。畑荒らしの駆除。二頭」
「二頭だけならな」とミレイが言う。
そこでルクトが、札を見たまま少しだけ眉を寄せた。
「二頭だけじゃない気がする」
「増えてるかもしれん、という意味か?」とミレイが聞く。
「うん。たぶん。でも、すぐ死ぬ感じではない」
曖昧だが、無視するには惜しい言い方だった。
ミレイは少し考えてから石背猪の札を取る。
「これにする。無理だと判断したら引く。今日は金を稼ぎに行くのであって、意地を張りに行くんじゃない」
受付で依頼札を通し、四人はギルドをあとにした。
新しい街の朝は、楽しい。
けれど、その楽しさを味わうにも、まず稼がなければならない。
その現実を、セイル冒険者ギルドの丸盾看板は、やけにまっすぐ教えてくる気がした。




