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マニュアルがない世界でどう生きるか

第1章 高熱と、パジャマと、説明不足の世界

全国大会前日

勝つことに意味がある、とは思っていない。


……いや、正確には違う。

勝った先にしか見えない景色がある、と私は信じている。


だから私は、勝負が好きだ。


勉強だって順位が出るから燃えるし、剣道だって一本の差で世界が変わるから夢中になれる。

逆に言えば、勝ち負けのないことには、あんまり心が動かない。


そういう性格だと、家族には昔から言われていた。


「涼花は、走らせても競わせても、顔つきが変わるなあ」


祖父は笑いながらそう言う。

元オリンピック出場のマラソンランナーで、今は高校生の指導員。七十近いのに背筋がまっすぐで、朝五時にはもう外を走っている怪物だ。


祖母は元保育士で、園長まで務めた人。今は引退して、祖父の食事と生活リズムを完璧に管理している。うちの家系の実質的な司令塔だ。


父は合気道の達人で、自分の道場を持っている。

剣道、空手、合気道を日替わりで教える、ちょっとした武道テーマパークみたいな人だ。


母は小学校の先生。やさしいけど怒ると怖い。

兄は十八歳、高校三年で陸上の国体出場経験あり。

弟は十二歳で、将来はプロ棋士になると本気で言われている。


そんな家の中で、私は十六歳、新井涼花。

七歳から剣道をやっている。


物心ついた頃から、周囲には“本気の人”しかいなかった。

だから努力するのは普通だし、勝ちたいと思うのも普通だった。


明日は全国大会。


個人戦。

中学では届かなかった場所。

高校に入って、ようやくここまで来た。


防具の紐を結び直しながら、私は自分の手を見た。

竹刀だこができた掌。何度も擦り切れて、そのたびに皮が固くなった右手。


「緊張してる?」


道場の入口にもたれて、兄が聞いてきた。


「少しだけ」


「嘘だな。涼花の“少し”は、だいたいかなりだ」


「お兄ちゃんの“いける”は、だいたい根性でどうにかしろでしょ」


「失礼な。八割は正しい」


「二割外してる時点で指導として危険なんだけど」


兄はけらけら笑った。

こういう時、家族は変に気を遣わない。そこがありがたい。


父は道場の中央で腕を組みながら、静かに言った。


「技は足りてる。体もできてる。あとは、相手より先に勝つ未来を掴めるかどうかだ」


「精神論っぽく聞こえるけど?」


「精神論じゃない。勝負は情報の取り合いだ。気で負けると、選択が遅れる」


……そういうところだ。

この家は全員、言ってることがだいたい競技者すぎる。


祖母が湯呑みを置いた。


「難しい話はそのへんにして、今日は早く寝なさい。明日に響くよ」


「はーい」


返事をして立ち上がった瞬間、ふらりと視界が揺れた。


「あれ」


道場の床が、少しだけ遠く見えた。

熱っぽい。喉も痛い。さっきから寒気もある。


けれど、こんなのは気のせいだと思いたかった。

全国大会の前日に体調を崩すなんて、そんな漫画みたいな話、私に限ってあるわけがない。


……あるわけがない、はずだった。


夜、布団に入って一時間もしないうちに、私は自分の認識の甘さを呪うことになる。


熱い。

頭が割れそうに痛い。

なのに寒い。震えが止まらない。


「涼花? ねえ、涼花!」


母の声が遠い。

額に触れた手がひどく冷たく感じた。


「三十九度八分……!? あなた、もっと早く言いなさい!」


「だい……じょうぶ……」


「大丈夫な人はそんな声出さないの!」


その後のことは、半分くらいしか覚えていない。

氷枕、慌ただしい足音、祖母の落ち着いた指示、父が救急に電話する声。兄が毛布を持ってきて、弟が珍しく真顔で隅に立っていた。


世界がぐらぐら揺れる。


明日は全国大会なのに。

ここで寝込むなんて、そんなの、負けと一緒だ。


悔しい。

情けない。

何より、まだ始まってもいないのに終わるなんて、認めたくない。


その時だった。


熱に浮かされた視界の端で、天井のあたりが、ふっと歪んだ。


最初は、幻覚だと思った。

高熱でおかしくなっているんだと。


けれど、歪みの中心から――

白黒の、丸っこい何かが、ひょこっと顔を出した。


「……え?」


パンダだった。


いや、パンダ“みたいな何か。

二足歩行で、妙に人間くさい目をしていて、しかもネクタイを締めている。

見ようによってはサラリーマン。見ようによっては着ぐるみ。


そいつは困ったように頭をかきながら、ぼそっと言った。


「やば。座標、ここで合ってたっけ」


「誰……」


「え、聞こえてる? うそでしょ。通常、転送前って雑音になるんだけど」


「……」


「うわー、地球産の子、感受性高いなあ……」


何を言っているのかわからない。

でも、たぶん大事なのはそこじゃなかった。


そいつは私を見て、申し訳なさそうに耳をぺたんと下げた。


「ごめんね。本当はもう少しちゃんと、段取り踏みたかったんだけど」


「……は?」


「君、ちょっとだけ、こっちに来てもらうね」


意味がわからない。

全然わからない。


なのに、そこで急に、体の熱が遠のいた。


痛みが消えた。

苦しさも、寒気も、息苦しさも、全部。


代わりに、ふわっと身体が軽くなる。


「待って」


思わず声が出た。

家族の顔が見えたからだ。


母が泣きそうな顔をしていた。

父が険しい顔で私を見ていた。

祖父も祖母も、兄も弟も、みんなそこにいた。


私は、まだ何も言っていない。

ありがとうも、行ってきますも、勝ってくるも。


何ひとつ。


「ちょっと待って!」


叫んだ瞬間、世界が裏返った。

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