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双つ鏡を穿つ杭

 寝起きの頭はいつもまどろみの中に浸りたがる。

 あと少し、もう少し、とゴロゴロしたがる。

 だが、ミーシャに叩き起こされたエルの頭の中に、それらは浮んでも来なかった。

「……お嬢様」

 どこか困惑気味なミーシャ。そして同じように扉を見て唖然とする、他の者達。彼らの視線の先にあるのは屋敷の玄関。その扉からはみ出るほど大きく描かれた『魔法陣』だった。


 早朝、ヨハンがこれを見つけたらしい。夜の見回りをした時には何もなかったので、おそらくは彼が目覚める前に書かれたのだろうと思われた。おかげで朝早くに叩き起こされる事になったエルは、不機嫌そうな顔で扉に描かれ淡く光る魔法陣を睨み、腕を組んでいる。

 これは空間を閉鎖、隔離する結界に属する。その中でも特に協力な部類だ。しかし同時にかなり目立つ仕様でもある。多少魔術を嗜んだ程度でも気付くほど、放つ力が大きいのだ。

 ゆえにこの手の魔法陣は在るだけであり、めったに使うものではない。そんな、エルでさえ書物で存在を知っている程度の魔法陣が、屋敷の扉にでかでかと描かれている光景が広がる。

 今、ヨハンとレナの二人が屋敷中の窓や扉をチェックしているようだが、おそらくどこからも外へ出る事はできないだろう。この屋敷の『出入り口』は、この玄関の扉だ。他にどれだけ窓や扉があろうとも、魔術的な要素においては、この扉こそが唯一の『扉』とみなされる。


 ここに結界を張られた以上、他から出る事は叶わないだろう。

 魔法陣を完全に無効化してしまうか、あるいは術者を殺害でもしない限りは。


「これだけの規模の魔法陣……この辺に近い場所にいる魔術師なら、寝ていても存在に気付く事ができるでしょうね。こうして目の前にしていると、影響を受けすぎて気分が悪いわ」

「め、目立つものなのか?」

「これに気付かない魔術師なんて、その言葉の一つとして信用に足らないわね。例えるなら警察の前で強盗を働き、その場にとどまって成果を声高に自慢しているようなものだわ」

 不安そうに話しかけてきたアレンという名の、姪を人殺し呼ばわりしていた男を一瞥もしないまま答えるエル。その後ろでは、彼の妻のサラが薄気味悪そうに扉を見ていた。

「じゃあ、すぐに助けは来るわね! よかったわね、ユーマ!」

「うん」

 我が子と喜びを分かち合う娼婦、ではなく女はセシル。まだ寝ているためここにはいない双子の叔母で、姪の前で壮絶な兄妹争い繰り広げていた片割れだ。そしてその息子のユーマ。

 母親があの有様なので子供もどうかと思ったが、ユーマはごく普通の子供だった。

 寝巻き姿だというのにやはり派手な格好をした女を睨むように振り返り、エルはため息混じりにその喜びを叩き壊す事にする。どうも、こういう女には無条件でいらいらしてしまう。


「何を喜んでいるの? 周りに気付かれる可能性があるモノを使ったという事は、気づかれる前にカタをつけるつもりだろうと、何故思えないの? それに第三者がこの状況に気付くかどうかは、はっきり言って賭けにも近いわ。二重三重に隠されていたら、どうにもならない」


 確かにこの規模の結界は目立つ。しかし隠せないほどではない。たとえば外側から屋敷全体を覆うような形で、徐々に弱くしつつ、いくつか結界を重ねてやればうまく隠せるだろう。

 もっとも、そんな手間のかかる事をやるなど、エルには考えられない。徹底的に結界を重ねて隠したとしても、ここが『ヒトの住む家』である以上、それほど長く隠せはしないのだ。

 しかし、意味が無いわけでも無い。隠しているわずかな時間に何かするのなら、やる価値が充分にある。獲物は逃げないし邪魔も入らない。やりたい放題の環境が出来上がっている。

「ここからじゃ外がどうなっているのかわからないし、外からの救援なんて可能性はいっそ考えない方がいいわ。ここまで派手にやるなら、何かしら策を講じていると見て間違いないし」

「そんな……じゃあ、どうしろというのよ!」

「知らないわ、そんな事。自分の身くらい自分で守ったらいかが?」

「な……! お前は我々の一族と契約した魔女じゃないのか!」

「勘違いなさらないでいただきたいわ。わたしは個人ではなく、ラーヴィスレイドという血統と契約している魔女なの。その名を冠する『血』を絶やさない事が、今のわたしの仕事」

 エルはそこで一旦言葉を切り、扉を背にするように立つ。


「正直、あの姉妹さえ生き残っていれば他がどうなろうと知った事では無いわ。巻き込まれたヨハンやレナさんにはかわいそうな事を言うけど、わたしの中の優先順位は『姉妹』が最上」


 絶句する周囲とそれを当然とする顔つきのヨハン。その対照的な姿が面白い。

 正直、そこの兄妹などどうなろうと知った事ではないが、とりあえず必要最低限は守ってやるつもりではいる。ただし、双子か彼らか、となったら迷わず双子を選ぶというだけだ。

 まぁ、何も殺人沙汰が起こると決まったわけでは無いし、守るも守らないも犯人側からのアクションがどういう方向性か、しっかり見極めてから考えてもかまわない。

 そもそも、閉じ込める事に何の意味があるのか。

 誰も外に出したくない、屋敷に全員を固めておきたい。

 この屋敷にいる誰かには今日、何か重要な用事が控えていたとする。犯人はその誰かが目的を果たす事を良しとしない。だからこうして屋敷ごと閉じ込めて、邪魔をして失敗させる。


 ……ただそれだけのために、これほどの魔法陣を用意するだろうか。


 すぐに思いついたその予測はすぐに破棄した。あまりに単純で子供じみているが、まだ屋敷にいる全てを虐殺するためだ、といわれた方がエルとしては納得しうる動機のように思えた。

 とりあえず、ここにいない双子を起こして、つれてくるべきか……。

 エルがこの現状を何とかすべく思案していると、大広間で紅茶を飲んでいたサラが顔をしかめている。彼女はそばを通りかかったレナを呼び止めると、苛ついたようすで言った。


「ちょっとレナ、あなたちゃんとゴミは棄てているの? 変なにおいがするわよ」

「え? ゴミならまだ薄暗いうちに棄てにいきました……けど」

 おかしいなぁ、とレナは周囲を見回す。確かにほんのわずかに何かが腐ったような、嫌なにおいが漂い始めていた。それは何故かだんだんと強さを増し、匂いの発生源を探していたレナが台所への扉を開いた瞬間、それはまるで洪水のようにエル達へと押し寄せてきた。

 その洪水の直撃を食らったレナは、口や鼻を押さえて扉の前から逃げる。這うように大広間から飛び出して、しゃがみこんだ。咳き込むその背中を傍に寄り添うヨハンが優しく撫でる。

 ちょっとした料理や食材が腐っている、なんて段階ではない。エルとミーシャが大広間へと足を踏み入れると、まるでそれを待っていたかのように床からいくつもの手が突き出した。

「お嬢様、これは」

「……まずい事になったわね」

 呟くエルが見つめる先の床はまるで腐ったかのように茶色く偏食し、そこから人間に似た形の生き物が這い出てくる光景があった。灰色の身体の人間、という説明が一番似合うだろう。

 鼻を突くような腐った肉の匂い。自分を含め誰もが朝食をとっていなかった事を、エルは心の底から感謝していた。少しでも胃に固形物を胃に入れていたら、間違いなく吐いただろう。


 広間の中に集まる腐ったヒト。

 言うならば『亡者』。


 どこからともなく這い出てくるそれらに、サラは声にならない悲鳴を上げる。一番亡者に近い場所にいた彼女は慌てて駆け出そうとするが、その足首を這い出たばかりの亡者の手が絡みつくように掴んだ。近くの椅子をなぎ倒すように倒れた彼女は、逃れようと必死にもがく。

「い、いや……」

 か細い悲鳴を聞いてミーシャが駆け出そうとするが、それをエルは止めた。駆け出そうと身構えたそわずかな間にも、彼女との間に亡者が湧いて視界から姿を掻き消していく。

 今からでは間に合わないどころか、ヘタをすればミーシャさえ餌食だ。

 引き絞った悲鳴――らしき音が聞こえ、骨が噛み砕かれたメロディが流れた。誰一人として声も出せない。その中でエルは増え続ける亡者を睨み、次に何をすべきかだけを考えた。


 一瞬でも油断をすれば、たちまち亡者に貪られて全滅する。


 数は細胞が増殖するように増えていき、室内を覆いつくすのは目に見えていた。ガタガタと震えているだけでは亡者に食われる。ここから出て、どこかに身を隠さないと危ない。

「ヨハン、どこか逃げ込める場所はある? 数が多すぎるわ、とても倒せない」

「近くに空いた部屋がございます。大広間を出て左に曲がってすぐのところに……」

「じゃあ、そこへいくわ。ヨハンはそこのジャマな連中を連れて行って。わたしとミーシャがしばらく相手をして時間を稼ぐわ。歩けないようなら置き去りにしなさい。いいわね」

「かしこまりました……」

 ヨハンは軽く頭を下げ、それから座り込んでいたレナを立たせるとユーマと共に廊下へと追いやる。それから大人二人を半ば引きずるようにして広間から廊下へと誘導していった。

 その間、ミーシャは扉に近寄る亡者を、手当たり次第に遠くへ吹っ飛ばす。魔術により強化された彼女の蹴りが次々と炸裂する中、エルはミーシャの手足に絶えず魔術をかけ続けた。


 ミーシャはメイドとして申し分の無い技術を持っている。

 しかしエルが彼女を雇用している理由は、魔術との親和性が特に高い体質だった。紛いなりにもエルは『魔女』を名乗る。そんなエルに仕える者が、普通のメイドであるはずが無い。


 元々、エルは戦闘に直接使えるような魔術は得意ではなかった。まったく使えないというわけではないのだが、どちらかというと、こういう支援に属する系統の魔術を得意とする。

 なので体術を得意とするミーシャの手や足に、強化系の魔術をかけ『戦う』のだ。エルが無理して攻撃に使える魔術を放つより、ミーシャの援護をしていた方がずっと効率がいい。

 今のミーシャの手足はそこら辺の鉄の棒より硬く、攻撃を当てるたびに亡者の腐って脆くなった骨や肉が砕け千切れる嫌な音が聞こえた。消滅はしないので数は減らないが、時間稼ぎ程度ならコレくらいで充分だ。後は術者を捕まえ、いっそ殺してしまえばカタが付くはず。

 問題はその犯人の目星が付かない事か。

「もういいわね、扉を閉めるわ。ミーシャもこっちへ」

「……」

 声をかけて走り出したエルが振り返ると、そこには動かないミーシャがいた。どこかを見つめて意識を集中させている、あるいは意識をここではないどこかへ飛ばしているような。

 扉の前まで来ていたエルは彼女に向かって、かすかに手を伸ばしかける。けれどその手は躊躇いながら引かれた。ミーシャの前には数を増す亡者の山。扉など、簡単に破られるだろう。

 何をしようとしているのかわかる。そして、それが効果がある事もわかるけれど、それを嫌がる自分が住んでいる。確かにこの状況では逃げ切れないかもしれないけれど、だけど――。


「ここはお任せを」


 彼女は振り返らないまま、淡々とした声でそう言った。

 飛ぶようにエルの前まで後退し、かすかに振り返って――笑った。

「お嬢様は行ってください。私は――」

 その声は扉が閉められる音で掻き消され、最後は聞き取れなかった。悔しげに顔を歪ませたのも束の間、エルは立ち上がってヨハンに目配せすると、彼に案内され部屋に駆け込んだ。

 内側から鍵を閉めて、服のポケットに入れてあったポーチから、白いチョークを取り出して扉に簡易の魔法陣をすばやく描く。そして反対側のポケットに指を伸ばし、扉を睨んだ。

 彼女の背後ではアレンやセシルが壊れたおもちゃのようにガタガタと震え、ヨハンが険しい表情で立っていた。レナの腕に抱きしめられたユーマの喉から、小さな泣き声がもれていく。

「……っ」

 屋敷を揺るがす爆発音。おそらくミーシャが何かやったのだろう。万が一に備え、戦闘時に有効であろう魔術をいくつか教えてある。音からして、かなり派手に使っているようだ。屋敷が軋むような音をたてて細かく揺れるたびに、レナ達が息を飲むようなか細い悲鳴を零した。

 そして、隠れている部屋へ肉が這う亡者の足音が近づく。


 爆発音が小さく小さく消えていく。

 静かになる。

 肉が這う音が遠ざかる。


 周囲をうかがいながらエルは扉を開いた。

 大広間は遠くない。ポケットから手のひらに収まるほどの、小さな銃を取り出す。護身用の簡単なものだが、一応は魔術師が生み出した魔術師用の特別なものだ。

 メーカー品よりもずっと、あの化け物への対抗策として有効な武器になる。

 小さな声で行くな、とか戻れ、など声が聞こえたが無視した。

 あの場所に引きこもっていても何も終わりなどしない。ミーシャも心配だし、三階の寝室にいるという双子の安否も気がかりだ。まずは一番近い場所にいるミーシャの無事を確かめる。

 彼女はあれで弱くは無い。限定的とはいえ、護衛も勤める。

 怪我は負っているかもしれない、でも無事でいてくれれば双子を探す戦力に。


「ミーシャ!」


 大広間へ戻り、その名を叫んだ。床にはまるで井戸のような深い穴があいていた。室内にはまだ腐臭がかすかに残り、つい先ほどまであの亡者がうろついていた事をエルに伝えてくる。

 ぽたり、と穴の中へ吸い込まれる水滴。

 エルはゆっくりと、視線を天井へと向けた。

「……」

 臓物のようなヒモで逆さに吊るされた『メイド』の――右足。切断面から滴る血は真下に開く穴に吸い込まれていき、闇の底にいるミーシャの半開きになった口と腹へと零れていった。


   ■  □  ■


 何度目かの肉の音が通り過ぎ、アレンとセシルが息を吐き出す。ユーマは声も出ないほど恐怖で疲れきっているらしく、レナに寄りかかったままずっとうつむいていた。

 ミーシャを穴の底に見つけた直後に亡者の接近を感じ、ここへ戻ってきて数十分。あの亡者達は巡回する兵士のように、時折部屋の前を通り過ぎていった。その感覚はやけに短く、なかなか外に出られない。エル一人なら別に出てもかまわないが、残される者が気がかりだった。

 思いつく限り魔法陣を描き、ちょっとやそっとでは見つからないだろう。

 しかしいつまでもここに篭り続けていても、終りまでの時間を延ばすだけだ。


 前に進むか、足を止めるか……早く決断しなければいけない。


 そのためにもまずは『亡者』をどうするか、だ。得体の知れない敵よりも、連中の方が明らかに相手としてまずい。あれさえなければすぐにでもここを出て、探しにいけるのだが。

 戦力が自分だけという状態では、敵にたどり着く前に亡者の餌食だ。

 やはりミーシャを失ったのは戦力的にかなり痛い。彼女がいてくれれば敵と一対一にまで持ち込めただろう。仮にも『魔女』を名乗る者を相手にした一騎打ちにおいて、亡者を使役する余裕がある者はそう多くない。全力には全力を返して殺しあう。それが魔術を用いた決闘だ。

 そこまでこち込めば、他のものを守る事は考えずにすむ。

 何より一つ一つ亡者を消す労力も節約できる。

 自然発生にしろ誰かが呼び出したにしろ、その対処は同じようなものだ。

 誰かが消滅させるか元の世界へ追い返すか。

 そのどちらかしか、やつらを完全に始末する方法はない。亡者を消滅させるにはそれなりの道具が要る。準備も何もない今の状態では、やはり召喚者を叩くしかないのだ。さすがに今回の一件を自然発生だとするのは、無理がある。だから術者が必ずどこかに潜んでいるはずだ。

 ――しかし。


 エルはちらりと部屋の中を振り返る。無言でうつむいたままの他の者達。特に幼いユーマの体力はどれだけ持つだろうか。朝食もとれていないし、持ってあと一日……もなさそうだ。

 エルは立ち上がると、扉へと歩み寄る。

「ど、どこへ行く……っ」

「邪魔だから貴方達を外へ叩き出すの。そのための『爆弾』を作るのよ」

 最初から説明するのも面倒で、それだけを言い残すと部屋を出る。後ろからやかましい声が聞こえてくるか全て無視だ。今は必要な材料を手早く集め、爆弾へと加工しなければ。

 ちなみにその『爆弾』とは火薬を使ったもの、というわけではない。そんなものの材料が普通の民家に在るはずがない。エルが作ろうとしているのは、結界を叩き壊すための武器だ。

 破壊ではなく、人が通れる程度の穴を開ければ。

 そこから脱出させて、自分にかかる負担を軽くしたい。一人二人ならともかく、あの人数をたった一人で守るのはかなりの重労働だ。こういう時、やはりミーシャがいない事が辛い。

 もちろん外にも敵が潜んでいる、という可能性はすてきれなかった。しかし、屋敷にこれだけの結界を張り巡らせて亡者を放っているのだ。外まで対処しきれていない可能性が高い。

 何より外で騒げばすぐに気付かれる。ここは山の中の一軒家ではない。

 エルは亡者を避けつつ、キッチンへその身体を滑り込ませる。


「貴族の屋敷は便利ね」


 棚から引っ張り出したのは銀の食器。この国の貴族は誕生日などの節目に、銀で作られた食器を使って夕食をとる慣わしがある。なのでどの家にも家族分の食器が揃えられているのだ。

 続いて棚から取ったのは、料理に使う塩とハーブ、そして水。特にハーブが大量にあったのは嬉しかった。どうやら近々晩餐会の類が行われる予定だったのかもしれない。

 それらを適当に袋へ放り込んだら、キッチンから出る。

 本来ならばどれもこれも特別なものが好ましいが、今はそうも言っていられない。それに全部叩き壊したいわけじゃなく、人が通れる穴をあけられるだけの威力さえあればいいのだ。

 そうなると質よりも弱い場所をいかにつけるか、というところの方が重要になる。

 落ち着いて作業するために、エルは一度あの部屋へ戻った。持ち帰った食器を見て何か言いたそうに口を開きかけたアレン達だったが、エルが一睨みすると不満そうに口を閉ざす。


 銀の皿の上に水を薄く張り、そこへ塩を溶かす。塩水を皿の表面全体に広げるため、くるくるとまわしながら何度も傾けて、均等に広がったのを確かめてから残る中身を適当に棄てた。

 そこへハーブを押し付けながら盛り付けていく。途中、ヨハンに頼んで小さくバラバラにしてもらったスプーンやフォークを並べ、その上にまたハーブを乗せていった。それをばらした食器がなくなるまで続け、最終的には指でつけば簡単に崩れそうな山になっていた。


 次にエルはポーチから赤い液体が入った小瓶を取り出し、水のようにさらさらした中身をハーブの山へ振り掛ける。ビンの中身を全てかけ終わると、エルは皿から離れるよう告げた。

 手のひらで丸を作って魔法陣に見立て、エルは呼吸を沈めながら目を閉じる。

 口の中で小さく呪文をいくつか唱え、体内で眠る魔力を一つの形へ組み立てるイメージを膨らませていった。そっと指先でハーブ触れると、そこから一気に炎が広がって灰に変えた。

 ばらした食器を灰から取り出し、丁寧に布でくるんで袋へ入れる。そして残った灰に水と塩と残ったハーブを混ぜて練る。それはさらに乗せたまま、ヨハンに運ぶよう頼んだ。


「行くわよ。これで結界に穴を開けるわ」

 袋を手に立ち上がったエルは、顔を見合わせる兄妹とメイドと子供に言う。彼らの返答は待たずに、エルは銃を手に再び部屋の外へと出た。ヨハン達は不安そうに後ろを付いてくる。

 ほどなく玄関までやってきた。幸いにも亡者の姿はない。

 エルは扉の前の床に魔法陣を描くと、それを踏まないように立って、練った灰とハーブを扉に擦り付けはじめた。扉に浮ぶ魔法陣に上書きするように、丁寧に丁寧に塗っていく。

 それから床に描いた魔法陣の上へ、燻されて少し変色した食器の欠片を並べた。

 キッチンから帰る時、結界の脆い場所は見つけてある。扉の鍵穴の付近だ。そういうところはどうしても外界との接点が薄く、その辺りを徹底的に叩けば穴くらいは開くとエルは睨む。

 そこには特に念入りに練った灰を塗りたくって、全ての作業は終わった。作業中、わざと見逃されているのでは、と思うほど亡者は寄り付かない。……それが、エルにはありがたいというよりもひたすら気味が悪かった。しかし、今は手を休めるわけにもいかない。

 一通り終わると、魔法陣の中央に練った灰が残る皿を置く。


 深呼吸。


 これほどの結界に、こんな有り合わせの材料で対抗するなんて考えた事もない。少しで意識が乱れれば、貴重なチャンスは完全に失われてしまうだろう。決して失敗は許されない。

 ぱちり、とピースがはまっていく音。頭の中の硝子でできた立体パズルが、ゆっくりと回りながら組み立てられていく。上へ、上へ。それは徐々に球体へと育って、光を宿し始める。

 床の魔法陣が、うっすらと光を放ち始めた。

「ま、まだなのか……!」

「もう終わったわ。後は……時間をかけないと」

 はぁ、と息を吐くエル。術式の手順は全て終わった。あとは、この魔法陣を守りながら成功する事を祈るのみ。勝率は五分五分……あるいは、それよりまだ悪い可能性もある。

 エルはしまっていた銃を取り出した。弾丸は自分の魔力。

 結界に穴が開くのが早いか、それとも自分の全てが尽き果てるのが早いか。扉と魔法陣を背にエルは立った。そばにはヨハン達が周囲をうかがいながら立っている。すると、まるで準備が整うのを待っていたかのように、吐き気を催す腐臭が漂い始め、奴らの登場を知らせた。

「こ、これからどうするんだ!」

「結界に穴が開いたら外へ出なさい。それまではせいぜい死なないよう――」

 柱の影に見えた影を撃ち抜く。崩れ落ちる肉の塊。それを踏み越え新たな肉が迫る。続けざまに三発、そして重なりながら崩れる肉。後から後から湧いて出る、それの相手をしながら。


「自分で自分の身を守りなさい」


 その気になれば椅子なり置物なり、武器にできるものはいくらでもある。現にヨハンはどこで見つけてきたのか、ユーマとレナをかばいながらナイフを手に身構えている。さすがクレスノーマと共に同じ時代を生きて戦ってきただけあって、こういう事にはなれているようだ。

 問題はそれ以外の二人。壁際でガタガタ震えているだけの情けない兄と、我が子の事を忘れただけではなく我が身さえも守れなさそうな母親にして妹。想像以上の役立たずっぷりだ。

 最初から当てにはしてなかったが、自分の身くらい守れると思っていた。この状態ではエルが守らなければいけないのか。しかしどうなるかわからない中、余計な事はできない。

 まぁ、自分の身は自分で守れ、とは言った。

 さすがにこの状況で、余計な荷物を守っている余裕はない。それにああして壁際で怯えていてくれた方が、対処しやすくもある。ヘタに逃げ回って動かれた方がずっと迷惑だ。

 次々と溢れる亡者を撃ち倒す。

 倒した分だけ復活してくるような感覚。終わりが見えない。

 引き金を引く指が疲れて、感覚が麻痺し始めた。数そのものはずっと少ないが、その出現ペースに合間がない。吸った息すら吐くタイミングを得られず、意識さえ朦朧としてくる。

 すでに限界まで引っ張られた糸が、さらに引き伸ばされていく感覚。


 まるでリズムを刻むように銃声が響く中、壁際で妹と震えていたアレンは、自分をじっと見つめる亡者に気付く。それは真新しい布を纏った亡者で、肉も他と比べると新しく見えた。

 それが『妻』だと気付いたのは、どのタイミングだったのか。


 その頃には目の前には着ている服もボロボロの、サラだった物体が迫っていた。その肉塊はまるで救いを求めるように、自らを見て怯える夫にゆっくりとアレンへ這いよっていく。

 夫だった男は必死に逃れようと、立ち上がって壁伝いに移動した。

「くく、く、くるなああああっ」

 逃げないで。そんな声が聞こえるような歪んだ亡者の顔。

 そして怯えて神に祈る余裕すらなくした男の顔。それが口付けを交わすようにゆっくりと近づいて、触れ合い――エルの銃弾が亡者を撃った時には、その頬の肉をかじりとられていた。

 アレンの肌が泡立つように盛り上がり、そして風船がしぼむようにへこむ。

 次に上を向いたと思えば絶叫とも狂気の声とも取れる声を発した。彼、いや彼だったモノは隣で腰を抜かしていた妹へ覆いかぶさり、数秒の後に今度は女の甲高い声が響き渡る。

「……っ」

 エルが続けざまに引き金を引く。

 兄妹だった二つの肉にいくつもの銃弾が埋め込まれ、そのまま壁まで吹き飛んだ。身体を亡者へと変えながら立ち上がるのを、エルは淡々と何度も何度も撃って床にたたきつける。

 ヨハンはユーマの頭を腕の中に抱えて、その光景を見えないようにしていた。

 傍から見れば娼婦かと思うほど派手な格好をした、およそ母親とは思えない女でも、ユーマにとってはたった一人の母だ。母親がバケモノへと変じる姿は、見せたくは無いのだろう。

 再び正面から亡者が溢れ、エルがそれを狙った瞬間。

 かすかに何かが割れるような、ぴしり、という小さな音が聞こえた。

 振り返れば、結界にわずかな亀裂が入っている。

 術式が成功した、と喜ぶのも束の間、エルは扉の前から離れながら叫ぶ。

「扉から離れて! 爆発するわ!」

 エルがそう叫んだ直後、結界の一部が扉ごと吹き飛ぶ。

 その衝撃で危うく吹き飛びかけたエル。その右腕を、大きく開いた穴の向こう側から入ってきた青年が掴んで引き寄せる。気付けばエルは黒服の青年に、軽々と横抱きにされていた。


「お嬢様、遅くなって申し訳ありません。しかし賑やかですね」

「カシス……」


 闇色の髪を少し長く伸ばし、銀の瞳は夜に浮ぶ月のようだった。顔にはまるで仮面のように美しく整えられた笑みを貼り付け、細められた視線がヨハン、ユーマへとうつる。

 最後に亡者を見て、大げさなため息をついた。

「これはこれは、うっとうしいお出迎えで。お嬢様もモテモテですね」

「……冗談言ってる場合?」

 うっかり無防備な笑みが浮びそうになって、慌てて表情を引き締める。こんな時に笑っている場合じゃない、彼が来るのはある程度予測していた事だと、必死に自分へ言い聞かせる。

 彼はエルの『執事』だ。服装もミーシャほど手が入っていない、どこからどう見ても執事にしか思えないデザインになっている。それでもところどころ動きやすく改良したらしいが。

 彼は数日前に別の場所へ向かわせていた。入れ違いになった場合を考え、エルが屋敷に残してきた手紙を読んで駆けつけてくれたのかもしれない。念のために書置きしてよかった。

 彼は傍にミーシャがいないのに気付いて、その理由を問わず少し表情を曇らせた。

 カシスとミーシャは双子で、性格こそ逆だが仲はいい。この状況を見て、彼女に何が起こったのか察したのだろう。険しくなる表情は、悲しみを堪えているようにエルには見えた。

 彼はエルをそっと床に下ろすと、懐から銃を取り出す。

 これもエルの物と同じく、魔術師の手で作られた特注品だ。彼はミーシャよりこういう『魔力を勝てとする道具』を使う才能がある。うまく魔力を引き出せるセンス、とでも言おうか。


「ここからは僕にお任せを」

「……いえ、わたしも戦うわよ。甘い事言ってられないわ」

 エルは落ちていた銃を広い、その感触を確かめるように握り締める。彼がいるのなら自分がわざわざ戦う事はない。だがそれは相手が一人か二人程度だった場合の話だ。

 カシスは援護など必要ないというかもしれないし、実際にエルの援護など必要ないのかもしれない。しかし、この数ではまだ油断などできないだろう。どこから出てくるかわからない。

 エルは振り返るとヨハンに告げる。

「ヨハン、この子達と一緒に外へ行きなさい。長くは開いていられないわ」

「ですが……お嬢様達が」

「その辺りは僕らにお任せを。いいからとっとと外へ」

 やっとの思いでぶち抜いた穴は修復を始めていた。それはエルの想像より速く、迷っていたり相談をする余裕はない。ヨハンはユーマを抱いて外へ出て行く。その後にレナが続いて。


「――危ない!」


 外へ上半身を出した彼女を引き戻すカシス。急速に閉じていく亀裂は、あっという間に人が通れない小さな穴へと変わった。かすかに見える外側に、心配そうなヨハンの顔が見える。

「ヨハン、すぐにこの屋敷から離れて、他の『魔術師』か『魔女』を――」

 叫んだその声は届いただろうか。

 呼んでほしい、と続ける間もなく穴はふさがった。

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