もう一つの心
「先にチェキとセツナを放してくれ」
エソラは掠れた声でそう告げた。脱力したままスーツの男に抱えられているチェキは口を開いて何かを言おうとしたけれど声は聞こえなかった。タテナリは不敵な笑みを浮かべたまま2人のコアに視線をやった。
「とんずらされたらイヤなんだよね。先にエソラ君をいただいてからだね」
彼はしばらく沈黙しタテナリから差し出された手を握った。ただ力なく肩を落とし、青い瞳は輝きを失った。彼は人形へと形を変え、何者かに操作されて動いているように見えた。闇の中にあった僅かな光が失われるという絶望を味わうと共に、心の何処かで安堵しているという矛盾に気付いていた。エソラを差し出せばチェキは救われる。だがそれは核兵器よりも質の悪い、意思のある脅威を生み出すこととなる。
国間で重要な協約を結んだような絵面ができあがった。タテナリは満足そうに笑みを浮かべた。頬が赤くなり呼吸も多少荒くなっている。興奮しているのが伝わってくる。
「俺はサハラさんみたいに気まぐれな性格じゃないから、約束はちゃんと守るよ」
そう言うと、打ち合わせでもしていたのだろうか、2人のコアは私とチェキを手放し解放した。首筋に刃を突きつけられていたせいか、未だに上半身が強ばっている。手は震えていた。チェキはその場に倒れた。
「チェキ!」
私は彼に駆け寄る。既に凝固した赤黒い血液が痛々しい。相変わらず虚ろな瞳のまま、私に視線をやり私の名を囁いた。
「コアは死なない」
誰もが理解している基本事項をタテナリは愉快そうに口にした。
「残念ながら、痛覚は存在するけれど」
更に笑みが広がる。私の背筋が凍る。こんなに非情になれるかつてヒトだった者に、私は身震いした。
「鍵が手に入ったならば、もうあんた達に用はないよ。もうすぐ神様が誕生する。新しい時代が始まるんだよ」
人質が解放されて抑えていた感情が膨れ上がったのか、サンデがタテナリに向かって突進する。いつのまにか彼の手には赤い光の刃が握られていた。
タテナリの笑みは崩れなかった。彼の元にサンデが辿り着く前に、スーツの男がサンデの粗雑な刃を受け止めて代わりに強いエルボーを食らわした。サンデはその攻撃で怯むことなく、再度もう片方の手に握られた赤い刃を突きつける。いつのまにか赤い刃は2本になっていた。
「リヒト様をまた失うわけにはいかない」
強い意志は赤い刃を強固で巨大なものにした。彼は目の前にある壁をただがむしゃらに除けようともがいているように見えた。
「サンデ君。元気だねぇ。でももう手遅れだよ」
タテナリはそう言うなり右手を横に上げた。それを合図にブゥンと低い音が鳴り、黒い等身大の渦が生まれた。
「あんた達はまた光を失う」
そこにいる者達を崖から突き落とすような予言めいた言葉を吐いて、タテナリはエソラと共に黒い渦に飲み込まれた。彼の歪んだ笑みが脳に深く刻まれた気がした。
その場に残されたコア達もタテナリが消えるのを見届けてから姿を消した。不思議な力を使ってどこかへ移動したのだろう。
「待てよ!」
サンデの呼びかけに応えるものはいない。彼以外に取り残されたのは、私と力なく意識を失ったチェキと興味なさそうに佇むサハラだけだったから。
「なんだよっ! くそっ! あいつら」
舌打ち混じりの罵倒の言葉をあれこれ地面に吐き出し、サンデは足を踏みならした。気がつくと大学構内の建物の明かりも消えていた。夜は更に深い闇に覆われ、湿気混じりの暖かい空気も一掃されている。私の腕の中で意識を失ったチェキが息をしているか不安になるほど、場は静寂に包まれている。
「最悪だな」
サンデの言葉は若者がよく吐き出す都合のよい「最悪」ではないことを私は知っていた。最も避けるべき状況であり、最も悪い状況なのだろう。
「リヒト様が失われ、チェキも戦闘不能。残されたのは疲弊した最大の敵。どうしたらいいって言うんだ」
誰に言うわけでもなくサンデは半狂乱で言う。私は自分の腕の中で静かに眠るチェキの姿に心が傷んだ。無力な自分がこんなに悔しいのは生まれて初めてだ。
「お前のせいだぞ! 分かってんのか?」
サンデはサハラの元に駆け寄り襟元を掴んだ。サハラは無表情のまま彼を見つめている。
「勿論分かっている。俺が全て企てたこと。あいつらは俺の築いた基盤にのっかっただけだ」
「ふざけるなよ? お前が……」
そこでサンデは硬直する。急にコンセントを抜かれた電化製品のように、彼はサハラを、サハラのあの輝く澄んだ青色の瞳を見た。私は彼に何が起こったのか理解できなかった。消えたり、出したり、何でもアリのコアの異常を私が理解できるとは到底思えないが。
その異常の原因をサハラは知っていた。少なくとも私にはそう見えた。彼はふっと頬を弛め、逆上して我を失ったサンデを慰めるように微笑んだ。
「そんなことは有り得ない」
唐突にサンデは首を振りながら何かを否定した。無意識に手を離し彼は少し後ずさる。
「有り得ないだろ? 俺ですらそう思うよ」
怪訝な視線を向ける私に気付いたのか、サハラは私の方を見た。そして首を竦めて私に言った。
「鍵はエソラ。それは間違いではないが、正解でもない」
「?」
私は首を傾げる。頭が混乱していて簡素な説明しか処理できそうにない。そんな私の状態に気付いたのか、サハラはふっと息を洩らして続けた。
「俺もリヒトの心の一部を持っている。鍵は2人でひとつなんだよ」
私は口を開けたまま、サハラの悲しげな笑みを見つめていた。
「星とリヒトの心が共存してるなんて、有り得ないよな。青い月が砕けるときに散り散りになったリヒトの心のカケラ。それが俺の中に僅かに存在している。騎士達はそれを知らない。セルの凝縮は失敗だろうな」
サハラは控えめに声を出して笑った。
「チャンスかもね。タテナリ達はきっと今からセルに入るよ」