世界中の誰よりも
玄関の扉を開けた時、中から染み出すような鬱蒼とした空気を感じた。それは予感に近かった。自らに秘めた罪悪感など吹き飛ばしてしまうような不吉な気配がそこには満ちていた。
明かりはついているが家には誰もいなかった。母もチェキもいない。携帯電話を確認するが誰からの着信もメールの履歴もなかった。私が玄関に立ったまま首を捻ると同時に、携帯電話の着信が振動と共に高らかに鳴った。電話の主は母だった。
「帰ったみたいね」
私は行動が筒抜けであることに驚き、取り乱した。監視カメラでも付いているのだろうかと辺りを見回した。
「カメラはないわよ。私には分かるの」
当然と言わんばかりに断言する母。私は首を捻る。
「待ってたわ。残念ながら家でのんびり貴女を待っていられる状況ではなくなった」
「え?」
「落ち着いて聞いて。取り乱しても何の得もないからね」
母は慎重に言葉を選びながらそう言った。イヤな予感はこれなのか、と直感で判断した。
「チェキが拉致されたの」
「え?」
私は息を呑んだ。一気に酸素を吸いすぎて噎せるほどに。咳ごむ私に母は淡々と説明を始める。
「チェキとサンデとエソラは、どうやらアパートで前園に事情を聞いていたて、そこで突然何者かに襲撃された。エソラとサンデだけがなんとか逃げ出せたみたいで事情を説明してくれた。拉致した奴はたぶん『星』の手先で相当の強者だったそうよ。おそらく近い内にチェキ達はセルに入れられるわ」
「そんなこと!」
「今、チェキは拘束されてDNAの検査を受けている。明日にはコアであることがばれて、セルに入れられるでしょうね」
「入れられる前に何とかならないの?」
母は息を吐いた。遠くにいるはずなのに、その息には疲労の色が見えた。
「コアが絶対悪であるこの状況で私達が交渉することは無意味だわ。強行突破してセルに入る前のチェキを救い出すこともできなくはないけれど、セルに入れられた後チェキを救い出すことに決まったわ」
「どうして…?!」
「セルに入る前にチェキを助けて、セルの警備が厳重になることは望ましいことじゃない」
私は心臓を直に掴まれるような痛みを感じた。母の口からそのような正論を言われたことに胸が痛い。
「あなたは私を軽蔑するかもしれないけれど、それはもう決まったことなの」
苦しかった。母の声が優しければ優しいほど、それは残酷に私を闇の底へと突き落とした。母はチェキを大切だと言ったではないか。激しく罵倒したい衝動に駆られる。それをぐっと抑えて、私は別の言葉を告げた。
「あなたがやらないなら私がやる」
「セツナ……」
「チェキがセルに入れば記憶を消されてしまう。戻るか分からないのに、じっと待つなんてできない!」
私は携帯電話を閉じてからきびすを返し、玄関を飛び出した。そこには闇を背負うようにして立っているエソラがいた。神妙な表情で私を見つめている。
「そういうわけでちょっと行かないでほしいんだ」
彼は穏やかな口調で私にそう言った。
「エソラ!お母さんに言われてきたのね」
彼は首を竦める。イエスと言いたいようだ。
「お願い。そこをどいて」
声が届いていないのかと疑念を持つほど、エソラは無反応だった。一筋の風が通り過ぎ、それを追いかけるように車が家の前の道を走り抜けた。
「カオルが何故キミに今チェキのことを教えたか分かる?」
「分からないわ。いいからそこをどいて」
私が睨みつけてもエソラは飄々としている。指をパチンとならし「そうなんだよ」と意味不明の発言をした。わざとらしく目を見開き、両腕を広げておどけている。
「おれにもさっぱり分からない。カオルはキミにはチェキのことを知る権利があると言うんだ。それでセツナが無茶をすることは目に見えていたのに」
母の考えが分からなくもない。母はチェキと私に負い目がある。母が世界や国を守るために尽力したことによる犠牲が私で、それを救ってくれたのがチェキだ。チェキは誰よりも私を深く愛し育ててくれた。親よりも。世界中の誰よりも。
「私はチェキを失いたくないの!そこをどいて」
「それはキミの気持ちだ。でも、おれはチェキの心が分かる。チェキはキミに来てほしくない。絶対に」
エソラの断言する内容は私にでも簡単に分かるものだ。チェキが自分のせいで私の手が汚れることを喜ぶわけがない。
「そんなこと分かってる」
「いや、分かってない。そもそもキャンパスに1人でどうやって侵入するつもりなの?今、警官や機動隊に囲まれた彼処に侵入するのは無理だよ。強行突破なら話は別だけど、そんなことをしたらセツナはテロリストだ。どちらが悪いか関係なくね」
神経は高ぶっていたが、単純な現状把握が可能なくらいには頭の中は落ち着いていた。非力な私が何をできるわけでもない。それにより傷つくのは自分であり、チェキであることも認識できている。それでもどうしようもない想いに駆られたのは初めてのことだった。じっとしていられない。じっとソファーに蹲りテレビを眺めている自分など想像できない。チェキが拘束されているのに、自宅の温かいベッドに寝そべり目を閉じ、深い眠りにつく自分など有り得ない。
「でも私は自分よりも、世界よりも大切なヒトを放ってはおけない」
冷静に考えればチェキはヒトではなくコアなのだけれど、私は無意識にそう言っていた。それをエソラは訂正することもなくじっと聞いていた。身動きとれずに硬直状態が続く中、やがてそれを吹き消すようにしてエソラは笑った。
「キミのようなヒトをおれは知っている」
「は?」
「とても意志の強い女性だった。彼女は何よりも誰よりも友人の命を優先し、それにより十字架を背負い生きることになったけれど」
エソラは青い瞳をこちらに向けた。深い海のようなその色に私は溺れそうになる。
「キミは彼女に似ている。だからとても危うい」
哀しみを湛えたその瞳に私は動けなかった。だから、そのまま何も言わずに彼の言葉を待っていた。
彼はふーっと深く溜め息を吐いて、表情をぎゅっと引き締めた。
「仕方ないね。今からT大に行くんだろ?着いて行くよ」
「へ?」
「カオルには1人で勝手な真似をさせるな、と言われてるんだけど、サンデとおれが着いて行くならいいだろ?」
急に態度を翻したことに、不審感を覚えた。
「どうして協力してくれるの?」
「不審に思うだろ? そう。勿論いい話にはそれなりのリスクがあるんだ。おれ達が協力することに条件がある」
「やっぱり」
「チェキを救い出しても救い出せなくても、そのままセルに侵入してほしい。一刻も早く計画を遂行したいからな」
「明後日の計画を前倒しにしたいということ?」
「そうだ」
たったの2日前倒しにすることの意味はよく分からない。しかし、その答えよりも今は協力者がほしかった。どうせ侵入する場所に48時間ほど早く入るだけのこと。
「いいわ」
「よし。じゃあ早速行こうか」
「サンデは?」
エソラは当然と云わんばかりに「T大に張り込んでるよ」と言った。そして私の腕を掴んで足早に歩き出した。
「ねぇ」
私は歩きながら問いかける。
「何?」
「もしかして、最初から私を?」
エソラは私を家から出さないためにここに来たのではなく、むしろ迎えに来たのではないか。だからこそ、既に突入できるようにサンデがT大で待っているのではないか。
エソラは答えなかった。目の前に広がる闇に向かって、「冒険のはじまりだなぁ」と暢気に呟くのが聞こえた。