人の心が分かる者
店には相変わらず客がいなかった。人気はないけれどカウンターには紺色のエプロンをつけて店主のルウが立っていて、私の顔を見るなり「あぁ、あんたは」と顔を綻ばせて私を歓迎した。今は1人なので奥のテーブル席に行かずに、カウンター席に座りルウと向かい合った。
「今日は1人なの?」
「いや2人なんですけど、残念ながら連れはチェキではないです」
私がそう言うと肩を落として「確かに残念だね」と寂しげに笑った。
「チェキは元気?」
訊ねられて私はとっさに頷きそうになるが、躊躇う。チェキと1日会っていないだけで、急に彼が遠い世界へ旅立ってしまったような気がしてしまう。急に寂しさが湧き出すのを感じた。
「どうしたの?」
「いや。元気ですよ」
振り返ると、彼が外泊するのは初めてのことと気づく。たった1日、彼がいないだけでこんなに不安になるなんて思わなかった。
「ルウさんはチェキの友達なんですか?」
「チェキは客。それ以上でもそれ以下でもないよ」
彼女はそう言いながらグラスに入った冷水を差し出した。
「チェキは自分のことをあまり話さないけど、長い付き合いだから彼のことはある程度理解してるつもりだった。なのに、まさかあんたみたいな娘っ子を連れてくるとはね。意外だったよ」
照れくさいような気まずいような奇妙な感覚に陥った。
空気を払拭するように、サハラが店に入ってきた。電話は吉報だったのか、目が少し輝いているように見えた。彼は入ってくるなり、すぐにカウンター席に座っている私の元に駆け寄った。
「電話はもういいんですか?」
私が訊ねるとサハラは曖昧に頷きながら私の隣に座った。
「随分ぶっ飛んでるね」
カウンター越しにルウが笑いながら言った。彼女の人差し指はサハラの頭を指さしている。不躾なことを言うルウに私は驚き顔が強ばってしまったけれど、サハラは憤ることなく苦笑するだけだった。
「この頭を批判する人間は絶えないな」
あなたの容姿に関することですよね、と確認したくなるほど他人事のように彼は言った。
「何を食べようか」
サハラがカウンターに置かれていた見窄らしいメニューに手を伸ばした。彼が目を通している横で私はメニューを見ずに注文を決定した。
「私はゴーヤチャンプルにしようかな」
「は?」
彼はメニューに穴が開きそうなくらい目を凝らして見ている。
「そんなメニューはない」
彼は不思議そうにそう言ったけれど、私はルウに目配せをして注文をする。彼女はウインクをしてそれに応えた。結局彼は日替わり定食を注文した。
「ところで」
「?」
「なんで金髪なんですか?」
私が問うと、彼も首を横に捻って「なんでだろう?」と眉間に皺を作った。
「キミもあんまり?」
「最初はびっくりしたけど、話してみたらそのギャップにまたびっくりしました」
「なるほどね。まぁ俺がこんな姿をしている理由なんてない。残念だけど」
サハラは首を竦めて言った。そしてのんびりした口調で彼は「俺の中身にも外見にも驚いたんだなぁ」と言った。
「ちょっと損してますよ」
「そうかなぁ。これはこれで便利なんだよ。人払いには丁度いい。近付く人間は後腐れのない若者だけ。生憎人付き合いが苦手でね」
「そうなんですか。意外です」
私は率直な意見を述べた。人付き合いが苦手ならば、女子高生の私と数回会っただけでご飯に行くのはおかしいのではないか。
「俺はね、人の心が分からないんだ」
その声は切実な色を帯びていて、私は思わずはっとして顔を上げる。私の表情がおかしかったのか、サハラは吹き出すようにして笑った。それが取り繕ったものである予感がしたので訊ねてみる。
「何かあったんですか?」
彼は少し困ったような顔をして呟くように言った。
「昔、大切な人を傷つけた」
「もしかして、以前言われてた、『心の繋がりを求めた人』ですか?」
「あぁ。何よりも大切な人だったから、俺は彼女を守りたかった。彼女が求める全てを叶えてやりたかった」
「理想の男性、ですね。そんなこと言われてみたいです」
私は少し笑いながら言ってみたけれど、目の前にいるサハラは笑わなかった。ただ懐かしそうな瞳で、ぼんやりと語っている。
「しかし彼女の願いは、いつのまにか変わっていた。180度変わっていた。俺はその願いを叶えるために出来る限りのことをしたのに」
「その彼女が酷い女に思えてきました」
「でもね、彼女は酷い女じゃないんだ。酷いのは俺だよ。人の心が捕まえることの出来ない流動的なものだって、今更になって気付いたんだ。遅すぎた。もう彼女はいない」
「いない?」
彼は口を瞑ったまま頷いた。不吉な予感がしたので、それ以上は聞けなかった。
「本当に人の心を分かる人間がこの世界に何人いるんだろうね」
それは私に投げかけたものなのか、世界に漂う抽象的な何かに投げかけたものなのかは分からないが、私は「どうでしょうね」と首を竦めた。
「人の心は読み取ることはできないから、想像するんですよ。みんなそうです。経験したことや記憶に基いて、人の心を形作る。そしてサハラさんも無意識にそうしてる」
サハラは頬杖をついたまま、テーブルの上の水を口に運んだ。喉仏がごっくんと動いた。
「心を読み取れる人がいたら、私は会ってみたい」
私がそうぼやくと、サハラが笑いながら「神様は?」と訊ねてきた。
「神様はどうだろう?」
「え?」
「神様なら、人の心は分かるだろうか? 全知全能の神様。ヒトを産み出した神様なら」
いい歳をして「神様」を連呼する微笑ましい青年に私は笑ってしまいそうになる。
「神様には絶対分からないだろうなぁ」
私がそう言ったことが意外だったようで、サハラは目を見開き「何故?」と問い質してきた。
「分かりっこないですよ。神様にはちっぽけな人間の嘆きとか悩みとか聞こえない。聞こえたとしても理解はできない。それは人間の悩みであって、神様の悩みじゃないから」
サハラが興味深そうに「面白いことを言うね」と頷いていると、ルウがゴーヤチャンプルと日替わり定食である唐揚げ定食を運んできた。唐揚げのいい匂いも、ゴーヤチャンプルの鰹節の匂いには負けてしまうのだと、初めて知った。
「それがゴーヤチャンプル?」
「まさか、知らなかったんですか?」
私より10年近く生きている男がゴーヤチャンプルを知らないなんて信じられない。最初は冗談を言っているのだと思ったけれど、彼の無垢な表情を見るとどうやら本当らしい。興味津々だったので、私はゴーヤと豆腐を箸で摘んで、彼の唐揚げの隣りに置いてみる。
「ここのゴーヤチャンプルは美味しいですよ。知らなくてもこれから好きになればいいです」
彼は目を丸くしたまま、自分の皿の上のゴーヤチャンプルを見ている。凝視している彼はフリーズして喜びとか感動とかをごちゃまぜにした表情で固まっている。まるで婚約指輪をもらった女性のようだ。
「心も」
「?」
「心も徐々に分かるようになるのかな?正確には想像できるように」
サハラが急に弱弱しくなったので、私は驚く。こんな一回りも年下の私に救いを求める彼は以前の傷が深くて、精神的に弱っているのかもしれない。
「私は高校生なので分かりません。でも、私はサハラさんのこと、人の心が分からない酷いヤツって思わないです」
「そう?」
「神様さえ分からないことを、私達は分かろうとして想像する。随分無理のある背伸びだけど、みんな分かろうして、間違ったりして四苦八苦して生きてるんだし、開き直るしかないですよ。『そんなの知るか』って」
「そんなの知るか?」
私は年上の男性に奇妙なことを口走ったことを深く後悔した。説明を求めるサハラに私は割り箸を渡して、「冷める前に食べましょう」と妙なテンションで言った。自分でも気持ち悪いな、と思うほどに。