家族団欒
「セルに侵入する?」
一陣の風が吹いて、私達を囃すように木々が揺れた。私の黒い髪がふんわりと浮かび上がる。
「残念だけどあんまり時間はないの。本当は貴方を巻き込みたくはなかったんだけど、貴方にしかお願いできないの」
「ちょ……ちょっと待って。いきなりすぎてよく分からないんだけど」
母が何故久しぶりの休みに娘を森に連れてきて、そんな突拍子もない質問を投げかけるのか。
「エソラに会ったんでしょ?チェキに聞いたけど」
「え。会ったけど」
「彼に聞いたんでしょ。世界を救うにはエソラに半身を食らわせるか、セルからコアを解き放つしかないって」
母は大きな勘違いしている。私が問いただしたいのは、そういうことではない。
「そうじゃなくて、何でわざわざこんな森の奥でただの人間の私にそんなことをお願いするの?」
私の質問に母はきょとんとしている。やがて何かに気付いたのか、「あぁそっか。順番を間違えたね」言って笑った。
母はそこで急に挙動不審になった。キョロキョロと辺りを見回し、広場にぽつぽつと点在している粗末な小屋を入念に観察している。
「ナオト、来たなら姿を見せなさいよ」
母は少し声量を上げて言った。視線は雲一つない空に向いている。
「さっさと出てこないとアンタのプロポーズの物真似するよ」
母はイタズラな笑みを浮かべている。誰かに似ているなと思ったが、それが私だということに気付くまで数秒かかった。遺伝子とは冷酷と思えるほど忠実にその輪郭をくっきりと残す。私がどのように育てられようと関係なく、だ。
やがて穏やかな風が吹いた。温かい手で頬を撫でられるようだった。そして遺伝子の神秘を感じさせる瞬間に私は遭遇した。目の前に姿を現した男は明らかにその面影から私の親族だと分かった。しかし、長めの黒髪を風に靡かせ白いシャツと破れたジーンズを身につけ立っている男は、明らかに女子高校生の父親にしては若すぎる。私の母も歳にしては若く見えるけれど目の前の男は明らかに高く見積もっても20代に見える。
「余計なことをペラペラ話されるのは好ましいことじゃないな」
男は私の面影をくっきりと刻んでいるものの、桐谷リヒトにも似ていた。リヒトと私の要素をうまく組み合わせたらこのようになるだろう。彼はその黒い瞳をこちらに向けた。娘に向けるものとは思えない、感情のこもらない瞳だった。
「お前がセツナか」
私は目を逸らした。あまりに強い視線に耐えきれなかったからだ。圧迫感すら抱かせるような冷たい眼光を放っている。彼が父親であるならば、何故このように冷酷な目で凝視されなければならないのか。私は頬が強ばり、不快感を顔の全面に表したいという衝動に駆られた。そんな私に気付き、傍らにいた母が大きく溜息をついた。
「ナオト。自分の娘でしょ。そんな物騒な顔をしないで」
彼はひくっと口元を動かしたものの、腹の底に溜まっていた重苦しい空気を吐き出して首を横に振った。
「この状況で笑っていられるほど、俺は楽天家じゃない」
機嫌が悪いのか、性格が悪いのかは判断できないが、私はこの時はっきりと思った。父親とはろくでもないものだ。時間が産み出した溝が原因なのか、それとも今のこの状況が険悪なものを産み出していることが原因なのかは分からないが、いずれにしろ私はこの男が自分の父親だとは受け入れたくないと思った。
「お前をここに連れてきたのはカオルだけど、呼んだのは俺。カオルが仕事を休んで、お前をここに連れてきたのは、重要な責務があったからだ」
ナオトは淡々と語った。表情は動かない。
「そう。で、なんで私は呼ばれたの?」
私はようやく口を開いた。この男は父親ではない、と思い込むことで、私は事務的に問いかけることができた。
「セルに侵入するには、お前の力が必要だから呼んだ」
「その話はここじゃなくてもできる」
「できるが、俺はあまり外の世界に顔を出したくない。サンデの馬鹿みたいにアパートを借りて平凡に暮らすのも趣味じゃない」
2人の素っ気無いやりとりを聞いていた母は堪り兼ねて、ぐんぐんと進む会話を止めた。
「ちゃんと顔を合わしたのは初めてなんだから、もっと楽しいことを話せばいいのに」
母の不満そうな顔を見て、ナオトは口を噤んだ。水が溢れ出していた蛇口に栓を詰めるように。
「セツナ。この人はね」
母が緊迫した白い空気を緩めようと、何かを語ろうとしたが私は「もういいよ」と母の言葉を遮った。
「もういい。この人のことを知りたいとは思わないし、用件だけ知りたい。チェキ達の成そうとしていることに協力できるなら私は協力するし、必要ならセルにだって入る」
「セツナ……」
「私はチェキのためにできることはやる。そうじゃないことはやらない」
父親であるナオトのことを拒絶したことで、母の心を傷つけたことは分かっていた。それは彼女の表情を見ていれば子供にだって分かるだろう。それでも抑えられなかった。心の底に渦巻くもやもやしたものに突き動かされるように、私は前だけを見ていたかった。
「それでいい」
絶句する母に向かい合うように立つナオトは口角を上げてにやっと笑った。
「さっさと話を終わらせよう。俺もそのために今日はここに来た」
「ナオト……!」
「利害関係は一致している。問題はない」
ナオトはチラッと母を見て、有無を言わせぬ強い視線で彼女の口を封じた。
「カオルは警察庁幹部として国の根幹から、俺は世界の裏側から、世界を揺るがすような危険な計画を抑えるように働き続けてきたが、もう限界のところまできている。愚かなこの国は再び強力な兵器を手に入れるために、セルに集められたコア達を凝縮する計画を推し進めている。それを扇動しているのは『星』という邪悪な意志だが、俺達の力ではそれの居場所を突き止めることはできなかった。半身であるエソラの力を以ってしても、それを捕捉することは困難だった」
「そこまでは知ってる」
「セルに封じられたコアを凝縮するには『鍵』が必要のようだが、それの居場所も未だ俺達は把握していない。居場所の分からない星が、居場所の分からない鍵をいつ見つけ出すのかは分からない。世界はいつ脅威を生み出すか分からない状況にある」
これが先ほどナオトの言った「笑っていられない状況」というわけだ。そのような脅威に直面しているという実感がない私には、成長した娘に初めて会う父親がこのように淡々と用件のみを語っている状況の方が笑えない。
「既にこの国は二分している」
母が重々しい口調でそう告げた。
「星が降った日から、日本は世界中から激しく罵倒され虐げられてきた。『ミサイルを撃ち込んだ米国は咎められず、何故日本だけが虐げられなければならないのだ』という意見を持つ者達は、力を求め、強力な兵器を生み出す邪悪な計画に賛同している。一方でそれに対し抗う者達もいる。私は彼らの中心に立ち、過激派を抑えるように働いてきたけれど、既に限界がきている。もうセルを解き放ち、彼らの計画を潰すしかないの」
母が警察官であり、仕事に追われていることは知っていたけれど、彼女がどのような立場に立ち、何をしてきたのかを聞くのは初めてのことだった。入れ替わるようにして、次はナオトが口を開いた。
「セルを解き放つには、セルの中に侵入してその柱を壊すしかない。だが、セルに入られるものは限られている」
「それが私なの?」
私が問うと、ナオトは曖昧に首を振った。
「セルに入られるのは、コアだけだ」
「は?」
意味が分からない。母もこの男も私に「セルに侵入せよ」と言ったはずだ。
「セルにはチェキとサンデを送り込む。だが、セルには厄介な仕掛けがある」
「仕掛け?」
「セルに入れられたコアは記憶を失う。自分がコアであることすら忘れてしまう。だからお前が必要なんだ、セツナ」
ナオトに突然自分の名を呼ばれてドキっとした。
「チェキの記憶をそのままにセルに侵入するためには、お前の存在が不可欠だ。お前なら消えつつあるチェキの記憶を引き戻すことができる。チェキにとってお前はそれほどまでに記憶に影響する者だからだ」
「でも、私はただの人間。セルに入れないよ」
セルに入られる者がコアであるという制限がある以上、ヒトである私は決して侵入できないではないか。そう言いつつ、私はどうしようもない胸騒ぎに気付いていた。目の前にいる男は私の父親でありながら、この異常な若さを保っているではないか。それが何を意味するか、私には容易に想像できる。そしてその娘である私は・・・。
「お前が本当に俺の娘だというなら、残念ながらお前はコアの血を引いているということになる」
私は強張る顔の筋肉をどうすれば解せるのか分からない。ヒクヒクと痙攣しているような頬の動き抑えたくて、私は頭の中をとりあえずからっぽにするように無意識に努めていた。