不思議な森
白いセダンを運転し、母は郊外へと私を連れ出した。母が私とどこかに外出するのは随分久しく、どこかむずがゆい部分もありぎこちなかった。
行き先は教えてくれなかった。ただスカートとかお気に入りの服などを着るのはやめておいた方がいいと言われた。そう告げた当の本人は白いロゴが入った黒のTシャツとジーパンという格好だったので、私も薄黄色のポロシャツに短パンという格好で未知の場所に臨むことにした。
「セツナはさ、休みの日何してるの?」
ハンドルを握り前を向いたまま母が訊ねた。
「休日は本を読んだり、チェキとか友達と出かけたりしてるよ。買い物したりご飯食べに行ったりいろいろだけど」
「そっか。アクティブなのはいいことね。あなたにとっても、チェキにとっても」
「チェキにも?」
母は少し笑みを浮かべたまま頷いた。
「彼は貴方がたまには外に連れ出さないと、引きこもるでしょ」
「確かに」
「あんまり顔をひけらかすのもよろしくはないけど、外の世界に触れることは彼にとっては大事なことだから」
チェキが自主的に外に出向くことは少ない。しかしチェキのことを真剣に考えている母に違和感を覚えた。
「私がチェキのことを心配してるのが変だと思ってるでしょう?」
母はそんな私を見透かしていた。
「よく分かったね」
「セツナはすぐ表情に出るし、その気になれば私は誰の心だって見える」
彼女は少し自嘲気味に笑ったので、私は意味が分からないまま曖昧に頷いた。
「チェキはね、貴方と一緒。私にとっては息子みたいなものだわ」
「息子?」
「そう。昔はとても優秀な執事のような男だなと思っていたけど、蓋を開けてみたら未完成のまま大きくなってしまったんだって分かったの」
夢の中でぐずるチェキを思い出した私は否定も肯定もしなかった。未完成の青年。今の彼からはあまり感じられないが、あの夢が頭の中にこびり付いて離れない。4歳でコアになり、親の愛も知らずに育った孤独なチェキ。
「彼はリヒトしか愛さなかった。彼はリヒトの前でしか、生き物になれなかった」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
腑に落ちない私を差し置いて母は更に言葉を続けた。
「敢えて言うけど、当時の彼なら、もしリヒトが『滝島セツナを殺せ』と言ったら殺してる。そういう男だった」
物騒なことを言う母に笑顔はない。
「私はそんな凶器のような彼にセツナを預けた。貴方の世話を全て任せた。怒る?」
怒るかと訊ねられても困る。私にはチェキがそんな危険人物だという認識がないのだ。私はゆっくりと首を振った。
「怒らないよ」
「そう。私はね、セツナを通して彼に愛を見つけてほしかった。愛は与えられるものではなくて感じるものだって誰かが言ってたけど、私はそうだと思う。チェキにありふれた愛に気付いて、感じてほしかった」
車内にピリピリと張り詰めた空気が立ちこめていた。母は妙に慎重に言った。
「あぁ、なるほど。私をそのための道具に使ったことを『怒るか』と訊いたんだね」
「私はそんなつもりで貴女を産んだつもりはないし、道具だなんて思ってないけどね。当たり前のことを言っておくけど、セツナは私の大切な娘。チェキと貴方の両方が死にそうなら私は貴方を助ける」
「だろうね。チェキは死なないもん」
母は私の多少乱暴にも思われる言葉に苦笑した。中年と呼ぶにはふさわしくないつやつやした肌にくしゃっと皺が寄った。ほんの少し目が潤んでいるように見えたけれど、気のせいかもしれない。
「着いた」
ぽつりと呟き、母は勢いよくハンドブレーキを引いた。青とも緑とも呼べそうなフェンスに寄り添うようにして車を止めた。フェンスの向こうには鬱蒼と繁る木々が見える。そこには何やら重厚な霧がかかっているような奇妙な森があった。
「まさかあの森に?」
私が昔テレビで見た南米に広がる森のようだった。日本の森はほとんど政府の管理下にあり手入れが行き届いた庭園のようである。したがって、あのように木々が絡み合うように密集して生えることはない。湿った空気が顔に当たり頬が僅かに痙攣してしまう。
「森の奥に入りましょう」
久しぶりに母と過ごす時間だというのに、奇妙な森に連れてこられたことに若干の不安はあった。母が私を捨てるために森へと誘ったのではないかと、妙な想像まで浮かんでしまう。母は私の不安な心を汲み取ったのか説明してくれた。
「この森は政府に管理されていないの」
「だろうね。あまりに雑多な感じがする。森の奥に何かあるの?」
母はそびえる暗い森を見据えながら「どうかな」と呟いた。
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
はぐらかしているわけではないらしく、本当に分からないようだ。首を傾げて笑う母は可憐な少女のように見えた。
私達はフェンスを飛び越えて森の入り口に到達した。なんだか悪いことをしている後ろめたさを感じたけれど、どこか満足感に溢れていて、どこかに楽しんでいる自分がいた。昔の映画に登場した死体を探すための旅に出た少年達の心情は、今の私に近いだろう。
深緑色の葉を僅かに揺らしながら、夥しい数の木々が立っていた。侵入者を拒むように、木々は枝を精一杯に伸ばし、根を隆起させて空間を占拠しているように見えた。母は物怖じせずに、見つけた木々の隙間から森に入った。
「大丈夫なの?」
私が問うと母は「銃弾はもう飛んでこない」と謎のことを口にして両腕を広げながら笑った。太陽に照らされた葉の緑色が母の顔に僅かに映っている。私は森に入り、母の歩くコースを辿るように木々の間をすり抜けた。
見たことのない花や実がなっている。歩いていると甘い不思議な香りがしたので母に問うと、樹液の匂いだと言われた。足下は先日の雨のせいかぐちゅぐちゅに弛んでいて、白の私のスニーカーは既に黒い泥をたっぷりと付着させていた。母と話す余裕はなかった。彼女は慣れた足取りで絡み合う木々をすり抜け、私からすると常人とは思えない速さで前進していた。私はついていくのに必死だった。時折都会にはいない奇妙な虫に小さな悲鳴をあげるものの、私は無言のまま彼女の背中を追いかけていた。
何分、何時間歩いただろう。突如木々の群生が途切れ、広場が現れた。
「ここは……」
目の前に広がる景色はあくまで人工のものであり、自然が作り出したものでは決してない。
「村?」
私が訊ねると母はゆっくりと頷いた。
「今はもう誰もいない。若い頃、私はここの人達にとてもお世話になったのよ。その人達の1人があなたの父。ナオトだった」
私は母の横顔を見た。懐かしいのか、彼女の表情は優しかった。母はぽつりと呟いた。
「セツナ」
「何?」
「貴方にお願いがある」
母がこれまでにない真剣な表情で私を見た。
「チェキ達と一緒にセルに入ってほしい。そして更なる悪夢を断ち切ってほしい」
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