老人の涙
汚いアパートの一室に、彼らはいた。
各々が狭い部屋の壁に凭れ掛かるようにして立って、薄汚れた敷布団に寝そべり眠り続けている老人を囲み、見下ろしていた。
「まだ起きないのか」
不機嫌なチェキの顔と口調のせいで、部屋の空気が凍りつくのを感じていた。
「随分長い間眠っている。誰かさんが配慮のない力の使い方をしたんだろうな」
皮肉を存分に込めてチェキは言った。横目でサンデをチラリと見ると、彼は首を竦めて誤魔化すように笑った。
「相手は老人なんだ。セツナとはわけが違うよ」
「セツナは弱っていたから意識を失ったが、こいつは老いていても健康な人間だぞ」
苛立ちを露わにしているチェキを諌めるように、「まぁまぁ」とエソラが間を割って入った。先日は黒く染まっていた髪と瞳は、既に元の赤茶色の猫毛と青い瞳に戻っている。
「言い争いをしていても仕方ないだろう。そもそも、こいつが本当に半身の正体を知っているかも怪しいんだ」
エソラが前園ヨウイチの枕元に寄り、動かなくなった昆虫を弄る幼児のように彼の頬をパシパシと粗雑に叩いている。相当深い眠りなのか、彼は目を開ける事はなかった。
「エソラに再度確認したいのだが、本当にあの場に半身はいなかったのか?」
チェキが訊ねる。
「少なくともあの体育館にはいなかった」
「あの講演中に前園の背後にいたコアは半身の仲間だろう。どうやら半身の肩を持つ輩がいるようだな」
壁に凭れたままのサンデが、壁に拳を叩きつけて小さく舌打ちをした。
「なんで半身の、星の味方をする? あいつについたところで奴隷になるだけだろうが」
サンデが口にした疑問はチェキも抱いた悲痛な思いだった。
チェキもサンデも、かつては星の奴隷だった。望まぬ破壊と望まぬ殺戮に駆り出され、武器として利用されるだけの日々を送っていたあの頃を思い出すだけで、チェキは胸焼けがした。吐き気を覚えることもある。
自らがかつてどれほどのヒトを殺し、食らったのか、チェキはセツナにまだ言えていない。かつて自身が人類の敵であったことも、彼女の両親と敵対するべき立場であったことも、だ。
彼女が何も理解できないような未熟な少女に過ぎなかった頃は、「早すぎる」という言い訳ができた。でも既に彼女は成熟した女性として、様々なことに興味を抱き、いろいろなことを考える年頃になった。そんな彼女にこれまで通用した言い訳は、既に意味を成さないものになりつつある。
「うぅ……」
前園が瞼を疼かせて呻いたので、エソラは更に頬を叩いた。可哀想だが、彼の目覚めを悠長に待っているのも限界だったので、チェキは止めなかった。
「おい。前園。起きろ!」
エソラが耳元で叫ぶと、前園は仰向けになったまま瞳をカッと開いた。悪夢に魘され飛び起きたような、険しい表情だった。彼は辺りを見回しエソラ、サンデ、チェキの順番で顔を確認した。目は見開かれたままだった。
「お前達、誰だ?」
怯えている表情だった。口元は目で確認できるほど震えていた。
「お前達は、コアか?」
続けて前園はそう言ったが、そこにいる誰もが彼の問いに答えることはなかった。沈黙が部屋に充満しそうになった時、何を納得したのか前園は「なるほど」と小さく呟き頷いた。
「サハラの仲間だな」
聞き覚えのない名前に、チェキは思わず開くつもりのない口を開いていた。
「サハラ?」
眉を顰め、首を傾けるチェキの顔を見て前園は「違うのか?」と目を丸くした。
「誰だよ、それ」
サンデが前園の前に立ち、すっとしゃがんで目の高さを合わせた。前園が拉致されたことをそろそろ把握するだろうとチェキは冷めた目で観察していた。そうなれば、騒ぎ出して厄介なことになるかもしれないと思い、背中で控えている拳にぎゅっと力を込めていた。いざとなれば、彼を黙らせる必要がある。
しかし予想に反して、前園はそこで「おぉ」と絞り出すような声を出して、大粒の涙を流した。
「なんだよ、お前。オレ、何もしてないぞ」
何故かサンデはチェキの方を見て、手をヒラヒラさせながら言った。前園は人目も気にせず、声を上げて泣いていた。彼を囲む3人は皆、口を半開きにしたまま、男が噎び泣く姿を見つめていた。
「どういうことだ?おっさん」
前園の泣き声が多少収まったところでエソラが前園の顔を覗き込みながら訊ねた。前園は肩を揺らし鼻を啜りながら「すまない」と言った。
「ちゃんと説明してくれよ。どういうことだ、と訊いてるんだ。あんた、いい大人なんだから、ちゃんと話せるだろ?」
若者に集られて、金を巻き上げられようとしている老人のようだな、とチェキは眺めていた。前園は、自分の呼吸が整うのを待つようにして、ただ頷いているだけだ。
「先に訊ねるが、君達はコアだな」
ようやく落ち着きを取り戻した彼が発した言葉が質問だったことに、サンデは逆上しそうになっていたが、それを掻き消すようにしてチェキは「そうだが」と低い声で言った。
「私を拉致して殺すつもりかもしれないが、私の話を聞いてほしい。落ち着いて聞いてほしいんだ」
「だから聞くっていってるだろうが」
横からヤジを飛ばすサンデを、チェキは頭上から拳で殴った。悶えるサンデに構わず、チェキは「続けろ」と言った。その様子を相変わらず怯えた目で見つめる前園はごくりと唾を呑んだ。
「私は昔、世界の脅威であるコアを駆除する方法について研究していた」
サンデが殴られた頭頂部を押さえながら「昔話かよ」とぼやいたので、チェキは彼の襟元を掴み「黙れ」と静かに睨んだ。
「昔話だよ」
前園は呟いた。
「これは私の、世界の闇にまつわる昔話だ。そして私の懺悔でもある。コアである君達に聞いてほしい。聞いて、好きにしてほしい。君達が望むならば私を殺してくれてもかまわない」