釣りの収穫
浮かび上がった人影は完全に輪郭が鮮明になる前に、私に歩み寄り、思いきりよく右手で口を塞いだ。一瞬で身体が強張り、声を上げそうになったけれど、人影の正体が分かった瞬間、安心して腰が抜けそうになった。体の筋肉が弛緩し、そのままペタンと座り込みそうになるほどに。
その焦げ茶色の温かい瞳が私を見つめている。彼の心配の具合がその瞳の色だけで分かった。
「息をとめろ」
彼は口をパクパクさせて、私に指示を出した。私は頷き、理解したことを伝える。
できるだけ音がしないように、私は深く息を吸った。そして生温い空気が私の喉元を通り抜けた瞬間、息を止めた。心臓がとてつもなく早く脈打つのを感じたけれど、できるだけ何も考えないように努めた。
どんなに心を閉ざしても、耳には不穏な足音が届き、それが徐々に近づいてくるのが分かった。
入り口のそこまで足音が迫っているところで、チェキは私を抱き締めた。ふんわりとシトラスの香りがした。彼が普段使っているコロンの香りだということを私は知っている。
チェキに抱き締められてドキドキしているのか、それともこの緊張した場の空気にドキドキしているのか分からなかったけれど、心臓の鼓動がチェキに伝わっていると思うと恥ずかしかった。
幼い頃はチェキはしばしば私の頭を撫で、抱き締めてくれることもあったけれど、私が成長するにしたがって、彼は極力私に触れないようになった。年頃の娘をベタベタ触れるほど、チェキは無神経な男ではない。
だからチェキとこんなに近づくのも随分久しいことだし、そのシトラスの香りもとても新鮮なものに思えた。彼の腕の中で、高ぶった私の心が徐々に落ち着くのが分かった。
しかし、うっとりするのも束の間だった。
チェキの身体に力が入り、急に私の手足に電流が流れるような痛みを感じた。身体がびくんと痙攣し、そのまま意識が遠のいていく。チェキが何か特別な力を使ったことはすぐに分かった。彼が忌み嫌う彼自身の力を、こういう場で敢えて使わせてしまったことに、私の心は少なからず傷んだ。
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ハマダが入り口を確認した時、そこには誰もいなかった。先ほどまでくっきりと感じていた、誰かの気配は不自然なほど突然すっぽりと消えてしまった。
彼は体育館の入り口付近をうろうろと徘徊し、警戒を解くことなく周囲を調べてみたものの誰もそこにはいなかった。ハマダは首を傾けて小さく息を吐いた。
彼はもぬけの殻になってしまった体育館を再度振り返った。突っ伏したままになっているコアに視線をやり、満足そうに微笑んだ。今回の獲物が1匹であったことに多少の落胆はあったものの、ゼロではないことに彼は喜んでいた。
聴衆はおそらく、外で待機しているだろう。もうすぐコア発見の通報を受け、機動隊と呼ばれる犬達がここにやってくる。忠犬達はそこで寝そべっているコアを丁重に運び、セルに放り込むだろう。それが一体誰のためなのかも知らぬままに。
「あ、サハラさん」
ハマダはほんの少し目を輝かせて、体育館のロビーに入ってきた金髪の男の名を呼んだ。
「大した釣りはできなかったみたいだな」
黒いズボンのポケットに手を突っ込んだまま、サハラは言った。
「すいません。1匹は確保しましたが」
「1匹って言っても、コイワシみたいなもんだろう。餌代の方がかかってるだろうが」
サハラが金髪を掻き毟りながら不機嫌そうに言ったので、ハマダは眉をハの字に曲げて「すいません」と消え入りそうな声で謝った。
「それより気になっていることなんだが、お前コアとか前園とか放置して何をやってる?」
サハラの語調が強まり、ハマダがびくっと身体を震わせた。おそるおそる顔を上げると、冷たい漆黒の瞳がハマダを捉えていた。
「前園、いないぞ」
「え?」
ハマダが振り返ってステージの上を確認したが、確かに前園の姿はない。先ほどまでガタガタと震えて青白い顔をしていた白髪の男は既にいなくなっている。彼は自分の顔が蒼白になっていくのを感じた。
「あいつが自分の足で逃げ出す度胸があるとは考えにくいな。あるとすれば、ここに先ほどまで敵がいたという可能性だが」
「敵……」
「心当たりがありすぎて分からないな」
サハラが暢気に笑っているので、ハマダは拍子抜けしてしまう。一瞬彼に合わせて笑おうとしたけれど、すぐに思いとどまり、やめた。サハラは決して笑っていない。それはあの黒く染まった瞳を見れば分かる。
何か気の利いたことを言おうと思って、ハマダは先ほどの奇妙な一件について語った。
「さっきまでここにヒトの気配があったんですが、突然消えたんですよ」
「なんだ。言い訳するのか?」
ハマダは思わず細い目を見開いた。彼の逆鱗に触れることだけは避けたいと思っていたので、ハマダはそれ以上話を続けることを躊躇った。サハラは体育館の扉の側へと歩き出し、警察の鑑識を執り行うように、その場にかがんだ。
「それで?」
意外なことにサハラは話の先を促した。
「それと前園が消えたことに関係はないのでしょうか?」
「さぁ。どうだろう?」
ハマダはサハラがしゃがんだまま、小さな手帳をペラペラと捲っていることに気がついた。彼は先ほどまでは何も持っていなかったはずだ。
「何ですか? それ」
「生徒手帳」
楽しい絵本でも眺めるように、サハラは笑みを浮かべて紺色のカバーが着いた生徒手帳を見ている。何度も何度も、前から後ろへとペラペラ捲っている。
「滝島セツナ」
サハラが生徒手帳の表紙に書かれた持ち主の名前を読み上げた。その響きを楽しむように、サハラはもう一度その名前を口にした。
「知り合いですか?」
「さぁ」
首を傾げるサハラは笑っている。
「滝島、ね・・・」