付箋を貼る人々
「おはようございます。博士」
5日ぶりに書斎に姿を現したのは研究員のハマダだった。いつも白衣を着ている彼が今日はグレーの背広を着ている。
「ハマダか。サハラはどこに行った? 私を呼びに来るのはキミではなく彼だと思ったのだがね」
博士は使いっパシリのハマダに出来るだけの皮肉を込めて言った。しかしハマダはサイボーグのようにピクリとも表情を変えず、自分が情けないほど無力だと痛感しただけだった。
「サハラさんは忙しい方ですから」
ぴしゃりと言って、ハマダは部屋に入ってきた。ハマダに付着していたのか、彼が歩き出すと同時にふわっと1本のワタゲが飛んだ。
「明日ですね。講演会」
彼は締め切ったブラインドを一気に上げた。それと同時に朝日が射し込み、博士は光が目に浸潤するのを感じた。あまりに久しい日の光だったため網膜がやられていないか心配になる。
「サハラはまた狩りをするつもりなのだろう?」
「博士。だから何です? 貴方の求める答えはナンセンスですよ」
自分の半分ほどしか生きていないであろう契約研究員に、偉そうに「ナンセンス」と言われるまでに自分が落ちぶれてしまったことに愕然とした。
「貴方はセルの素晴らしさを人々に語るだけでいい。貴方がセルを開発するのに20年近く費やしたのは、その素晴らしさを信じたからでしょう? 自由に熱く語り、科学の進歩に貢献すればいいのですよ」
博士は顔を歪めて笑った。表情を意識的に動かすのは久しぶりだったせいか、はたまた老化したからか分からないが顔の筋肉が引きつりそうになっている。
「……言いくるめられたのか?」
博士の一言で無表情だったハマダの表情が僅かに和らいだ。博士にはハマダが笑ったのだと分かっていた。彼とは決して短い付き合いではない。表情に乏しい彼の僅かの変化を読みとることは簡単に出来る。
「僕がサハラさんに言いくるめられた? 偉大な科学者でありながら、そういうことはイマイチなんですね。残念です」
決して残念ではなさそうな口調でハマダは言った。
「いつから計画は始まっていたのだ?」
ハマダは射し込む朝日を眺め、普通にしていても細い目をさらに細めながら、「最初からですよ」と言った。
「サハラさんが貴方と出会ったのは18年ほど前でしたよね。僕はその時はまだ人間でした」
目の前の若造が人間ではないことを博士は既に知っていた。彼はコアでありながら、コアを戒める檻の開発に携わっていた。それが博士にはにわかに信じがたいことだった。
「存分に楽しみましょう。セルを開発した博士には膨大なお金と名誉が与えられました。人間が喉から手が出るほど欲しいものを貴方は既に手にしているのですから」
「自由もないのに楽しめるわけないだろう!」
思わず博士は声をあらげた。自分の脳裏に浮かんだのは、博士が単身赴任で未だ実験に明け暮れていると信じて生活している家族の顔だった。
「私は愚かな科学者だ。人類の進歩のためというくだらない理由を掲げ、気がつくとあのような恐ろしく理不尽なものを作ってしまっていた」
「でも博士は多くの人間に以前のような安らぎの生活を提供したのです。卑下する必要はありませんよ」
「その安らぎがヒトの心を歪ませた。彼らは命に付箋をペタペタと貼り始めたのだ。セルの誕生により、人々の悪意は無意識に解放された。虐殺を許可されたように、彼らは手放しで付箋を貼られた者を消去することを望む。それがどのような形であれ命だというのに。彼らは今が悪夢の前だと知らないんだ。着々と時は近付いているのに」
気が立ったからか、博士は胸に締め付けるような痛みを感じた。持病の狭心症のせいだろう。
「先にあるものが悪夢、とは限りませんよ。サハラさんは優しい方だから」
ほんの少しハマダはうっとりするような表情を浮かべて、さらりと言った。
「ただ世界に神が舞い戻るだけです。神話の時代が始まるのです」
口を瞑り奥歯を噛みしめる博士を見つめながら、ハマダは「行きますから準備をして下さい」と告げた。