第37話:天空の墓場と、見えざる銀の刃
翌朝、リベルタ号のクルーたちを目覚めさせたのは、電子的なアラーム音でも、レンの無愛想な放送でもなかった。
それは、換気口を通じて各部屋へと忍び込んできた、暴力的なまでに食欲をそそる香りの暴力だった。
焦がしたバターの芳醇な甘み。
じっくりと炒められた玉ねぎの香ばしさ。
そして、濃厚なブイヨンの中で踊る肉と野菜が奏でる、渾然一体となったスープの香り。
それらは眠っていた脳を直接揺り動かし、胃袋という臓器に強制起動のコマンドを叩き込む。
「……夢か?」
レンは重いまぶたを擦りながら、ベッドから身を起こした。
スラムの万年Fランク生活が長かった彼にとって、朝というのは空腹と寒さに耐えながら起きるものであり、こんな幸福な匂いと共に迎えるものではなかったからだ。
だが、その香りは夢幻ではなく、確実に食堂の方角から漂ってくる現実だった。
レンが着替えて食堂の扉を開けると、そこはすでに戦場のような活気に満ちていた。
「おはようございます、レンさん! 見てください、このスープ!」
一番乗りしていたリアが、焼きたてのパンを手に興奮気味に振り返る。
彼女の皿には、黄金色に輝くオニオングラタンスープが並々と注がれ、とろけたチーズが縁から滴り落ちていた。
王宮育ちの彼女ですら、こんなに湯気を立てて熱々の状態で朝食をとったことはないだろう。
「おう、起きたか船長! 昨日の残りの深淵猪の骨を、一晩かけて煮込んで出汁を取った特製スープだ! 目覚めの一発には最高だぜ!」
改装されたばかりの『焦熱厨房マークワン』から、バンバが身を乗り出して叫ぶ。
彼の背後では、レンが改造したエンジン直結コンロが青白い炎を上げ、巨大な寸胴鍋を加熱していた。
換気システムも完璧に稼働しており、煙は瞬時に吸い込まれ、代わりに美味しそうな匂いだけを食堂へと還元している。
「……朝から騒がしいな。だが、悪くない目覚めだ」
レンは定位置の席に着き、差し出されたスープを一口啜った。
熱い液体が喉を通り抜けた瞬間、深淵猪の持つ力強い生命力が、身体の末端の細胞まで染み渡っていくのを感じる。
ただ美味いだけではない。魔力回路の巡りすら良くなるような、活力の塊だ。
「成分分析完了。……信じ難いが、深淵素材に含まれる微量な魔素が、カフェイン以上の覚醒作用をもたらしている。しかも副作用はない。バンバ、君は錬金術師の才能もあるんじゃないか?」
白衣姿のヴァイスが、スープをビーカーに移し替えて光にかざしながら感嘆の声を上げる。
隣ではガイウスが、すでに三杯目のスープをおかわりし、パンを千切っては浸して豪快に頬張っていた。
「ぬぅん! 力が漲る! これならドラゴンと素手で殴り合えそうだ!」
キリルはといえば、猫舌なのかフーフーと必死にスープを冷ましながら、それでも待ちきれない様子で尻尾をパタパタと振らせている。
レンはパンを齧りながら、窓の外に広がる雲海を眺めた。
満たされた胃袋、頼もしい仲間、そして最強の船。
かつてゴミ捨て場で空を見上げていた頃には想像もできなかった光景が、今は当たり前の日常としてここにある。
「さて……腹も満たしたことだし、仕事の話をするか」
レンがコーヒーカップを置くと、その場の空気が少しだけ引き締まった。
全員の視線が集まる。
「キリル。昨日、スラムで仕入れてきた情報の精査は終わったか?」
「もちろんニャ。……とびきりのネタがあるニャ」
キリルは口元のスープを拭うと、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
それは地図のようだが、描かれているのは陸地ではない。
風の流れや乱気流のポイントが記された、空の海図だ。
「『天空の墓場』。……船長なら、この噂を聞いたことがあるはずだニャ」
その名が出た瞬間、レンの目が鋭く光った。
天空の墓場。
それは冒険者たちの間ではお伽噺のように語られる、伝説の空域だ。
かつての大戦で撃墜された古代の空中戦艦や、嵐に巻き込まれて行方不明になった輸送船が、海流のような風の流れに乗って吹き溜まる場所。
「ああ。深淵の裂け目の上空、恒常的な雷雲に覆われたエリアにあるというスクラップの山だな」
「正解だニャ。スラムの古株情報屋の話じゃ、最近その墓場の位置がずれて、一時的に結界の隙間ができているらしいニャ。……そこには、今の王国の技術じゃ作れないような、古代文明の遺産が眠ってるって噂だニャ」
ロスト・テクノロジー。
その単語は、レンの職人魂に火をつけるには十分すぎる燃料だった。
「古代の遺産か。……バルデルの屋敷で見たような宝石や金貨には興味ないが、見たこともない合金や、失われた魔導回路となれば話は別だ」
レンは自身の義手を軽く握りしめた。
彼の『クラフト』能力は、素材の質が高ければ高いほど、強力な武具や船の強化パーツを作り出せる。
もし古代の戦艦に使われていた『生体金属』や『重力制御機関』が手に入れば、リベルタ号はさらに進化できる。
「リア、航路の計算は?」
「可能です。……ただ、その空域は『轟雷帯』と呼ばれる激しい雷雲の中です。通常の飛空艇なら一瞬で黒焦げですが……」
リアは言葉を切り、自信たっぷりに微笑んだ。
「私の魔眼と、レンさんの造ったこの船なら、雷の縫い目を飛ぶことだってできます」
「よし、決まりだ」
レンは立ち上がり、ニヤリと不敵に笑った。
「次の目的地は天空の墓場。ゴミ拾いの本領発揮だ。世界中が忘れているお宝を、俺たちが根こそぎ回収してやる」
「おう! 古代の食材とかねえかな! マンモスの肉とかよ!」
「未知の毒草があれば採取したいですね」
「私は……古代の武器があれば、この剣の錆にしたいところだ」
クルーたちがそれぞれの期待を胸に声を上げる。
リベルタ号のエンジン音が高まり、船首がゆっくりと北の空、黒雲が渦巻く雷鳴の彼方へと向けられた。
彼らはまだ気づいていない。
その航路の先に、古代の亡霊だけでなく、彼らの命を狙う現代の死神たちが、音もなく忍び寄っていることに。
一方その頃。
リベルタ号から数キロ後方、雲の切れ間に潜むようにして、三機の奇妙な飛行物体が編隊を組んで追跡していた。
それは鳥のような翼を持つ小型の飛空艇だが、エンジン音も魔力反応も極限まで消されている。
機体は鏡のように磨き上げられた銀色で塗装され、周囲の空の色を反射して風景に溶け込んでいた。
『白銀の騎士』。
大宰相バルカザール直属の、王国の裏処理を一手に担う暗殺部隊である。
先頭を飛ぶ隊長機、コードネーム『銀狼』のコクピットでは、一人の男が冷徹な瞳でモニターを見つめていた。
全身を銀色のボディスーツで包み、顔の半分をバイザーで覆った男、ザイン。
彼はモニターに映る微かな熱源反応――リベルタ号の厨房から排出される排熱の痕跡――を指先でなぞった。
「……見つけたぞ。黒いネズミだ」
通信機から、部下の冷淡な声が響く。
『隊長。ターゲットは北へ進路をとりました。あの空域は……天空の墓場方面です』
「墓場か。自分たちの死に場所を探しに行くとは、感心な心がけだ」
ザインは口元だけで笑った。
彼らに与えられた任務は『完全なる抹消』。
リベルタ号という船だけでなく、乗っているクルー全員を、生きた痕跡すら残さずこの空から消し去ることだ。
「ターゲットには、元王宮魔導師のリアがいる。彼女の魔眼は広範囲の索敵能力を持つ。……通常の接近戦では気づかれるぞ」
『問題ありません。我々の機体には、最新鋭の『魔力遮断塗装』が施されています。それに……』
「ああ。我々の獲物は船ではない。その中にいる人間だ」
ザインはコンソールを操作し、機体の腹部に搭載された特殊兵装のロックを解除した。
それはミサイルや大砲のような派手な武器ではない。
鋭く尖った、銀色の巨大な針のような形状をした『穿孔弾』だった。
「音もなく近づき、船体に穴を穿ち、そこから神経毒を流し込む。……恐怖を感じる暇もなく、眠るように死なせてやるのが、我々の慈悲だ」
ザインの機体が、雲海を利用して音もなく加速する。
彼らの戦法は、騎士の名を冠していながらも、その実態は正々堂々とは程遠い。
見えない位置から、見えない刃で、急所だけを正確に突く。
それが、国家という巨大な怪物が飼う、最も忠実で危険な猟犬のやり方だった。
リベルタ号のブリッジ。
リアは操舵席のモニターに映るレーダー波形を注視していた。
北の空には、壁のようにそびえ立つ積乱雲が迫っている。
雷光が紫色の血管のように雲の中を走り、轟音が腹の底に響いてくる。
「すごいエネルギー密度です。……この中に突っ込むんですか?」
「ああ。墓場はこの嵐の中心、台風の目のような無風地帯にあるらしい。キリル、舵を頼むぞ」
「任せるニャ! 雷なんて、俺の反射神経なら止まって見えるニャ!」
キリルが舵輪を握りしめ、船体を急旋回させる。
その時だった。
ピクリ。
レンの義手の指先が、微かに震えた。
「……?」
レンは眉をひそめ、周囲を見回した。
レーダーには何も映っていない。
リアの魔眼も、前方の嵐に集中しており、周囲への警戒アラートは鳴らしていない。
だが、レンの背筋を冷たいものが走った。
これは殺気ではない。
もっと無機質で、冷徹な……そう、まるで機械が計算結果を弾き出す時のような、感情のない悪意。
「船長、どうしました?」
ガイウスが異変に気づいて声をかける。
レンは義手の平を床に押し当て、船体そのものの振動を感じ取ろうとした。
リベルタ号はレンが造り上げた船だ。いわば彼の体の延長のようなもの。
風の音、エンジンの鼓動、それらに混じって、ごく微かだが『異質なノイズ』が混じっている。
風を切る音にしては鋭すぎる。
エンジンの振動にしては規則的すぎる。
何かが、いる。
すぐ近くに。
目に見えず、音も立てず、魔力すら発しない何かが。
「……リア! 全方位結界展開! 最大出力だ!」
レンが叫んだ、その刹那。
ドォォォォォンッ!!
船尾の装甲が、何の前触れもなく内側へ向かって突き破られた。
爆発音ではない。
巨大な杭が、金属を無理やり貫通したような、耳障りな破砕音。
「きゃあっ!?」
「な、何事だニャ!?」
船体が大きく傾き、食堂にあった皿やコップが床に散乱する。
警報音が鳴り響く中、レンはモニターを睨みつけた。
だが、そこには何も映っていない。
攻撃を受けた船尾のカメラ映像には、ただポッカリと開いた穴と、そこから吹き込む冷気だけが映し出されていた。
「敵襲だ! だが、姿が見えない!」
リアが悲鳴に近い声を上げる。
彼女の魔眼ですら、敵の姿を捉えられないのだ。
「見えないんじゃない。……『見せない』工夫をしているプロだ」
レンは床を蹴り、壁に空いた穴へと走った。
穴の縁には、銀色の金属片が付着している。
レンがそれに触れた瞬間、彼の解析能力が、その正体を暴き出した。
構成物質:ミスリル銀、および光屈折迷彩コーティング。
王宮近衛騎士団、特殊作戦用合金。
「……ハッ、なるほどな」
レンは口元を歪め、獰猛な笑みを浮かべた。
ついに来たか。
お遊びの海賊ごっこは終わりだと言わんばかりの、国からの本気の殺害予告。
「総員、戦闘配置! 客人は透明人間だ! 目じゃなく、肌で感じろ!」
レンの号令と共に、リベルタ号は嵐の手前で急停止し、迎撃態勢へと移行する。
見えざる銀の刃が、再び虚空から振り下ろされようとしていた。




