第38話:燻り出す黒煙、泥にまみれた銀の翼
ドゴォォォォン。
またしても船体が大きく揺れ、食堂の棚から皿が滑り落ちて砕ける音が響いた。
警報音が鳴り響くリベルタ号のブリッジは、見えない死神に弄ばれる恐怖と焦燥感に包まれていた。
北の空を覆う分厚い積乱雲を背景に、リベルタ号は逃げ場のない鼠のように空中で踊らされている。
敵の姿は、肉眼ではおろか、レーダーにも、魔力探知にも一切映らない。
ただ突然、虚空から不可視の衝撃が襲いかかり、船の装甲を鋭利な爪で抉り取っていくのだ。
くそっ、また右舷後方がやられたニャ。あいつら、わざとエンジンやブリッジを外して、じわじわとなぶり殺しにする気だニャ。
キリルが舵輪にしがみつきながら悲鳴を上げる。
彼の獣人としての野生の勘を持ってしても、殺気の発生源を特定することができない。
敵は完全に気配を殺し、風の音に紛れ、雲の切れ間から冷徹な一撃を加えては即座に離脱している。
リア、まだ見つけられないのか。
レンがモニターを睨みつけながら問う。
リアは操縦席にしがみつき、黄金の瞳から血が滲むほどに見開いて周囲の空域を走査していた。
彼女の額には脂汗が浮かび、呼吸が乱れている。
ごめんなさい、レンさん。敵の光学迷彩は、光だけでなく魔力の波長すら湾曲させています。私の魔眼で違和感を捉えた時には、もう攻撃が終わって移動した後なんです。
リアの声に悔しさが滲む。
王宮最高峰の技術で作られたステルス迷彩。それは、リアという元王宮魔導師の知識すら凌駕する、闇の技術の結晶だった。
ガギィィィッ。
不快な金属音が頭上で響いた。
今度は天井の装甲が貫かれ、そこから銀色の鋭い杭が顔を覗かせた。
杭の先端からはシューッという音と共に、紫色のガスが噴射される。
毒ガスだ。換気システムを逆転させろ。
レンが叫び、ヴァイスが素早くコンソールを操作して外気を遮断する。
敵は、リベルタ号を撃墜するのではなく、中の人間だけを確実に殺すつもりだ。
その陰湿で完璧な手口に、ガイウスが怒りで拳を震わせた。
おのれ、姿も見せずに卑怯な。騎士の名折れだぞ。正々堂々と姿を現して剣を交えんか。
無理だな。あいつらは騎士じゃない。騎士の皮を被った掃除屋だ。ゴミ掃除に名乗りを上げる馬鹿はいないさ。
レンは冷ややかに言い放ち、しかしその目は忙しなく船内図面と外の状況を確認していた。
敵は三機。
連携は完璧。
こちらの攻撃手段である魔導砲は、標的が見えなければただの飾りだ。
だが、レンの表情に絶望の色はなかった。
彼はむしろ、この理不尽な状況を楽しんでいるかのように、口の端をニヤリと釣り上げた。
綺麗好きな連中だ。俺たちの船に触れることすら嫌がって、遠くから杭を打ち込んでくる。……なら、その綺麗な鎧を、少しばかり汚してやろうじゃないか。
レン、何か策があるの。
リアが希望を込めて見上げる。
レンはブリッジの通信機を掴み、大声で怒鳴った。
おいバンバ、聞こえるか。厨房の状況はどうだ。
通信機越しに、激しい金属音とバンバの怒号が返ってきた。
状況もクソもあるか。揺れすぎてスープがこぼれそうだぜ。せっかくの極上スープを床に飲ませるなんざ、食材への冒涜だぞコラ。
スープはもういい。今からメニューを変更する。
レンは一呼吸置き、凶悪な命令を下した。
今ある廃油、焦げた生ゴミ、香辛料のカス、それから倉庫にあるタールと塗料。燃えるゴミなら何でもいい。全部あの中華鍋にぶち込んで、最大火力で炒めろ。
は。
バンバが呆気に取られた声を出す。
何言ってんだ船長。そんなもん炒めたら、食い物じゃなくて産業廃棄物ができるぞ。
それでいい。この船一番の、特濃の産業廃棄物を作れ。……極上の煙幕で、空を黒く染めてやるんだ。
レンの意図を察した瞬間、バンバの声色が歓喜に変わった。
ギャハハハ。なるほどな、燻製料理ってわけか。得意分野だぜ。俺の店じゃ、近所から煙が臭いって苦情が来るのが日常茶飯事だったからな。
よし。キリル、船を急上昇させろ。雲の上まで逃げると見せかけて、敵を排気口の真後ろに誘い込むんだ。
合点だニャ。
リベルタ号のエンジンが唸りを上げ、機首を垂直に近い角度で持ち上げた。
重力が背中にかかり、船体は軋みながら上昇を開始する。
一方、リベルタ号を追跡する白銀の騎士隊長機、銀狼のコクピット。
隊長ザインは、モニターに映るリベルタ号の急上昇を見て、冷笑を浮かべていた。
愚かな。上昇して雲を抜ければ、太陽光を背負って完全に的になるだけだというのに。……所詮は素人の操船か。
ザインは編隊の部下に指示を送った。
各機、フォーメーション・デルタ。ターゲットの下方に潜り込み、腹部を穿孔弾で串刺しにする。これで終わりだ。
三機の銀色の機体が、音もなくリベルタ号の死角へと滑り込む。
彼らの機体は最新鋭の魔導迷彩によって、周囲の景色を透過し、完全に透明化していた。
完璧なステルス。
誰にも見つからず、誰にも認識されず、一方的に命を奪う神の如き力。
ザインはその優越感に浸りながら、発射トリガーに指をかけた。
その時だった。
リベルタ号の船尾、厨房に直結した巨大な排気ダクトが、突然ガコンと音を立てて変形した。
レンが遠隔操作でダクトの形状を改造し、拡散ノズルを取り付けたのだ。
食事の時間だ、お上品な騎士様たち。スラムの味をたっぷりと吸い込みな。
レンの呟きと共に、ダクトから爆発的な噴射が行われた。
ボォォォォォッ。
吐き出されたのは、炎ではない。
どす黒く、粘り気を帯びた、漆黒の煙だった。
バンバが廃油とタール、そして刺激臭のする香辛料を限界まで加熱して生み出した、特製の汚染スモークだ。
それは単なる煙幕ではなく、空気中の水分と結びついてベタリと張り付く、空飛ぶヘドロのような代物だった。
な、なんだこれは。視界が。
ザインが驚愕の声を上げる。
黒煙は瞬く間に広がり、追跡していた三機の機体を飲み込んだ。
洗練された空力ボディに、油と煤の混ざった黒い粒子が容赦なくこびりつく。
センサーが汚れでエラーを吐き出し、コクピットのガラスが真っ黒に塗りつぶされる。
だが、本当の恐怖はそこではなかった。
見えた。
リベルタ号のブリッジで、レンが叫んだ。
黒煙の中に、ぽっかりと浮かび上がる三つのシルエット。
光学迷彩は、光を屈折させて姿を消す技術だ。
だが、機体の表面に物理的な汚れが付着してしまえば、光の屈折率は狂い、迷彩機能は強制的に解除される。
いや、それどころか、黒煙の中で銀色の機体だけが不自然に景色を歪ませ、逆にその存在を際立たせていた。
そこだ、リア。
はい。座標固定。逃がしません。
リアの黄金の瞳が、黒く汚れた銀の翼を正確にロックオンする。
もはや魔眼を使うまでもない。空に浮かぶ黒い煤まみれの塊は、格好の的だった。
ガイウス、撃て。
承知。騎士の礼儀として、正面から叩き潰してくれる。
ガイウスが甲板の魔導砲座に飛び乗り、トリガーを引き絞った。
リベルタ号の主砲が火を噴く。
かつてオズワルドの旗艦から奪い取った魔導回路を、レンが改造して出力を倍増させた特製ビームだ。
ズドォォォォン。
閃光が黒煙を切り裂き、一機の白銀の騎士の翼を直撃した。
ぐあっ。被弾。馬鹿な、見えているのか。
無線から悲鳴が聞こえる。
ステルスという鎧を剥がされた彼らの機体は、防御力においては紙同然だった。
翼を失った一機が、きりもみ回転しながら雲海の下へと墜落していく。
糞ッ、散開しろ。煙から出るんだ。
隊長機ザインが叫び、急旋回して煙の領域から脱出しようとする。
だが、機体にこびりついた廃油は、風圧程度では落ちない。
銀色に輝いていた美しい機体は、今は見る影もなく薄汚れ、まるでドブ川から引き上げられた鉄屑のようだった。
逃がすかよ。キリル、寄せろ。
レンはブリッジを飛び出し、強風の吹き荒れる甲板へと出た。
その手には、ワイヤー付きのアンカー射出機が握られている。
キリルが絶妙な操舵で、敵の隊長機へと船体を幅寄せする。
距離、五十メートル。
俺の船を穴だらけにしてくれた礼だ。その機体のパーツ、慰謝料代わりに貰い受けるぞ。
レンがアンカーを発射した。
鋭い鉤爪が空を裂き、ザインの機体の装甲にガギンと食い込む。
衝撃で敵機が大きく揺れる。
レンはワイヤーを義手に巻き付け、青白い魔力を流し込んだ。
クラフト・強制接続。
ワイヤーを通じて、レンの意識が敵機へと侵入する。
ミスリル銀の構造、エンジンの出力、そしてステルス回路の仕組み。
すべてがレンの脳内に設計図として展開される。
なるほど、いい素材を使ってるじゃないか。だが、設計思想が貧弱だ。隠れることばかり考えて、打たれ強さが足りないんだよ。
レンの手の中で、ワイヤーが脈打つ。
敵機の装甲が、まるでレンの意思に応えるようにミシミシと悲鳴を上げ、結合部から外れ始めた。
き、貴様、何をする気だ。私の機体が、分解されていく。
ザインが恐怖にかられて叫ぶ。
コクピットの計器が次々と警告音を鳴らし、装甲板が剥がれ落ちていく。
レンは空中で敵機を解体しながら、冷酷に笑った。
リサイクルだよ。お前らの自慢の隠れ蓑は、俺たちの船の新しい皮膚になる。ありがたく使わせてもらうぜ。
バキィィン。
決定的な破砕音が響き、ザインの機体の右翼エンジンが根元からへし折られた。
制御を失った銀狼は、黒い煙を引きながら、リベルタ号から引き剥がされるように落下していく。
覚えておけ。次に来る時は、汚れの落ちる洗剤でも持ってきな。
レンがワイヤーを切り離す。
墜落していくザインの機体は、もはや美しい白銀の騎士ではなく、ただの薄汚れたスクラップだった。
残ったもう一機の敵機も、隊長の敗北を見て戦意を喪失し、雲の中へと逃げ去っていった。
戦闘終了。
リベルタ号の周囲には、まだバンバの作った黒煙が漂っている。
その臭いは強烈だが、今のレンたちにとっては、勝利の凱歌の香りそのものだった。
ふぅ、片付いたか。……おいバンバ、換気扇を最強にしてくれ。このままじゃ俺たちが燻製になっちまう。
レンが通信機でぼやくと、厨房からバンバの豪快な笑い声が返ってきた。
ギャハハハ。どうだ船長、俺の特製スモークの味は。これで分かっただろ、一番強い武器は剣でも大砲でもねえ、食欲と排気ガスだってな。
違いない。
レンは甲板に散らばった敵機の残骸――ワイヤーで引きちぎり、回収したミスリルの装甲板を拾い上げた。
まだ熱を帯びているその金属は、ギラギラと銀色に輝いている。
これを加工すれば、リベルタ号にステルス機能を追加できるかもしれない。
あるいは、リアの魔眼を強化するレンズの枠にするのもいい。
さて、天空の墓場まであと少しだ。
レンは北の空、雷雲の渦を見据えた。
そこには、こんな小手先のステルス技術など比較にならない、古代の英知が眠っている。
白銀の騎士を撃退した今、彼らの行く手を阻むものは、もう自然の猛威だけだった。




