壊しあう
鷹也くんの甘酸っぱい煩悶をお楽しみください←
東北の夏がやってくる。
日の出が早くなり青白む空を感じて、鷹也は目を覚ました。
身体を起こして天気を確かめる。
(今日は日差しが強くなりそうだな)
最近手伝いに行っている農家のことを考えながら、かたわらで身じろぐ恋人を見下ろした。
起こしてしまったかと思ったが、そうではなかったようだ。眠ったまま鷹也のシャツの裾を探しあて、握りしめる。
あどけない仕草に反して丸い肩からスルリと落ちた、黒いキャミソールの紐は妖艶だ。
もう一緒に暮らし始めて数ヶ月経つが、こんな姿には未だに慣れない。
鷹也は心臓が跳ねるのを自制しながら、そっと肩紐を直してやった。
鷹也にとって凪は初めての女性だ。色々な意味で。
恋人と呼べる存在。
身体が焦がれるような経験。
女性の部屋に泊まったのも凪が初めてだ。
ちなみにこれは、彩の入籍パーティーで飲みつぶれた鷹也を、当時「ユナ」という源氏名で働いていた凪が介抱してくれたことがキッカケだ。
そのときに、鷹也は大変な失態を犯した。
(今でも思い出すと、叫びたくなる)
鷹也は両手でぐしゃぐしゃと髪の毛を掻きまわした。
会って間もない女性の前で、いわゆる健全な青年らしい、朝の生理現象が起こってしまったのである。
彼女は慣れた様子で「元気だねぇ」と笑い飛ばして、あろうことか《手伝い》もしてくれた。
鷹也にとって、それも初めての経験だった。
女性に対する幻想——か弱くて、守るべき存在なのだという憧憬——すべて打ち砕かれた。
鷹也自身、異性との交際経験はゼロ。
長年一途に片想いをこじらせていたのだから、そこは弁明させてほしいところである。
ただし……
(それにしたって、初心者にはハードモード過ぎる相手だろ)
夜の職業に染まりきって、自分とはまったく違う世界を生きてきたサバイバー。
まるで野生の、うつくしい豹のような彼女。魅入られたら一瞬で噛みつかれ、食べられてしまいそうな凄みがあった。
しかし、飢えた女豹は鷹也というごちそうを平らげて、動物園でのんきにあくびをしているような、愛嬌ある一面も見せるようになった。
そのギャップにまんまとやられて、ベタ惚れして、こうして凪の故郷までやって来たのである。
かつておおきな震災が起こった場所。
それでも凪が戻って来たかった場所。
重いバックボーンを持つ凪に対して、自分が相応しい男になれるかはわからなかった。
でも、凪がそばで笑っていてくれるなら、なんでも良かったのだ。
我ながら浮かれていると思う。
(浮かれるくらい、させろよ)
別に誰も非難していないのに、鷹也は心のなかで反論した。
コンロのつまみを捻って火をつける。
片手鍋を乗せて、冷凍庫から出汁キューブを取り出す。カツオと昆布、煮干しで取ったものを、使い切りサイズで冷凍しておくのだ。
ケトルに湯も沸かす。
その間に冷蔵庫から、凪の気に入りの会津味噌を取り出した。
鷹也が丁寧にひいた出汁で、具のない味噌汁を飲む。これが二人の、朝のコーヒー代わりになった。
もともとは、二日酔いの凪に賄いのしじみ汁を作ったことが始まりだった。
その頃はまだ付き合ってもいなかったし、自分の気持ちを自覚してもいなかった。
——鷹也くんの味は、やさしいね。
そんなふうに、寂しそうにほほ笑んだ凪の表情は、今でも忘れられない。
——……誰の味と比べてんすか。
そうして突っけんどんに言い返したのも、今なら幼い嫉妬だったとわかる。
凪は苦笑しながら「誰の味、とかじゃなくて。あたしのふるさとの味は、もっと、ガツンとしてるからさ」と答えた。
彼女の言う《ふるさとの味》が会津味噌だと知ったのは、それから二年以上も経ってからのことだった。
強さの奥に、ふところの深さを感じるような芳醇さ。
——凪さんに似ている。
そう言ったら「妙齢の女性を味噌にたとえるのは、ちょっと渋すぎない?」と怪訝な顔をされた。
東北の厳しい冬と、歴史を思う。
凪と初めて身体を重ね合わせたとき、自分の既成概念が薄氷をパリンと割るように、壊れるのを感じた。
何もスマートに出来ない。
自分がどんなに格好わるい男かを知った。
だけどそんな野暮な男が打ちのめされている枕もとで、凪はあっけらかんと言った。
——鷹也くん、可愛かった。
——はァ!?
——ありがと、私にリードさせてくれて。初めて「抱いた」って、なんか、達成感ある。
——オレ、抱かれたんすか。
凪は心底嬉しそうに「どっちでもいいじゃん」と笑った。
その笑顔を見たら、たしかにどっちでも良いと思った。
結局、肌を重ねるとはそういうことだ。
お互いのエゴをぶつけ合う。
劣情、憤り、悔しさ、そんな負の感情をぜんぶ混ぜこぜにして発散する。
まるで、火の中で食材を一緒くたに炒めるような……
(なんか、中華料理っぽいかも)
火力満点、重い鉄鍋をふるい、出来上がった料理で腹を満たして、眠りにつく。
そんなハイカロリーなやり取りが、鷹也と凪の営みだ。
ぶつかり合った先には、それまでの自分とはちがう、新しい価値観を持った自分が生まれている。
「やべ」
思索に耽っている間に、フツフツと気泡が立っている。慌てて火を止め、味噌をすくう。
タイミング良く、凪の寝息が変わった。
「んう……」
出汁に味噌を溶かしていると、凪がベッドで寝返りを打ったのか、布団カバーのすれる音が聞こえた。
「いいにおい」
「……ちょうど、出来ましたよ」
「たべる」
目をこすりながら起きあがる凪の肩から、またキャミソールの紐が落ちる。
そして凪はとろんとした顔で、両手を鷹也に向かって差し伸べた。
「おこして」
「……起きてるでしょ」
「んー、野暮」
凪の意図するところを察して、鷹也はくちびるを噛んだ。
勘弁してくれ、と思う。
凪はハグを求めているのだ。そして「おはよう」のキスまで。
そこまでしたらもう離せなくなる、と再三伝えているのに、凪は変わらず甘えてくるし、あわよくば鷹也を押し倒す。
しかし今日は、空腹のほうが勝ったようだ。
黒いレースのキャミソールにショーツという、いささか蠱惑的な格好で、ガス台に近づいてくる。
「鷹也くんのお味噌汁、すき」
おもむろにハグされて、そのやわらかい感触に、鷹也はいつまでたっても慣れない。
苦し紛れに、どうでもいいことを口にする。
「その格好、腹冷えますよ」
「やだぁ、おじさんくさぁい」
「ったって凪さん、生理痛重いでしょ」
凪に教育(調教?)されて、頼まれれば近場のドラッグストアで羽つき23cmのナプキンと痛み止めを迷わず買えるくらいには、凪の身体にも詳しくなった。
凪は何が気にさわったのか、くちびるをとがらせて応えた。
「べつに昔からだし、慣れたよ」
「それでも」
鷹也は手のひらを凪の下腹部にあてた。
「凪さんの身体なら、オレにとってはぜんぶ大事です」
「……汚れてても?」
今でも凪は、こういう卑屈な言い方をする。
昔の仕事——性風俗を生業にしていたことを指しているのなら、それは違うと言いたい。
だけど、昔は言えなかった。
実際に「そんな仕事はやめてください」と追い詰めて、結果行方をくらまされたこともある。
そんな経験も経て、鷹也は学んだ。
「生きるための武器だったんでしょ」
震災で家族も戸籍も流されて、生活することすら難しい世の中で、なんとか生きてくれていた。
もうそれだけでいい。
凪を失ってしまったかと思ったときの、苦しさや後悔に比べたら。
「凪さんが生きてんなら、なんでもいい」
抱きしめる。
思うことはたくさんあるのに、ちっとも伝えられない自分が歯がゆい。
だからこうして肌をふれ合わせ、気持ちを伝える。
直通のコミュニケーション。
ケンカも仲直りも、凪と鷹也は最大火力。
だから一緒に、ちがう価値観を超えていける。
「腹巻き買いましょ」
互いの指を絡め合いながら、鷹也は言う。
「そだねぇ……これを機会に、下着も変えちゃおうかな。綿100パーとか、着心地のいいやつ」
「あったかければなんでも」
「色気ないとか、言わない?」
むしろ減らしてください、と答えると、凪が笑った。
曇天を晴らす夏空のように。
《終》




