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ツバメの箏曲 〜耽溺編〜  作者: 秋乃まことゑ


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温めあう

 花吹(はなぶき)(ゆたか)という人は、経験豊富に決まってる。

 それを思うと、妻の(あや)はなんとなく面白くない。


(年上で、振る舞いもスマートで)


 何しろ、彼が職場で入籍を伝えたとき、顔色を失った女性たちの悲鳴がとんでもなかったという。しかも、成人と未成年を問わず。


(それに、何? フランスに留学したことあるって)


 フランスというだけで、なんというか、日本よりも「ジュ・テーム」の国だ。可愛らしいキューピッドの像がそこらじゅうでハートの矢をかまえているイメージ。

 それにあの国の女性たちは、みんな自信がありそうに見える。

 ボディラインにもファッションにも、自分なりの美学を持っていて、それがキラキラ輝いてみえる。


「そんなさ、目の肥えた人がさァ」


 彩は脱衣所で自分の身体を拭う。

 風呂上がりそのままの身体を、洗面の鏡に映して眺めてみる。

 ガリガリに痩せて、それでいて醜悪に肉のついている自分のボディライン。


「って、ちがう、ちがう。認知のゆがみ〜」


 頬をペチペチ叩きながら、最近カウンセリングで言われたことを思い出す。

 彩は摂食障害をわずらっていて、いっしょに醜形恐怖症もある。

 自分の脳は、目で見た情報を書き換えて、鏡に映る自分をひどく醜く見せてくる。

 闘う相手は自分の脳だ。

 人と比べることじゃない。


(っては思うけどさァ、さすがにねェ)


 彩は身体にバスタオルを巻きつけて、リビングをのぞいた。

 まだ帰ってきたときのワイシャツ姿で、ソファにもたれて眠っている(ゆたか)が見える。

 力なく落ちた手からプリントの束が滑り落ちたようだ。

 それを拾い上げながら、彩は優の寝顔を眺めた。


(きっと、胸が大きくて、ウエストがキュッとしまって、脚がスラッと長い、そんな女の人をたくさん見てきたんだろうな)


 そんなことを考えると、ついつい卑屈になってしまう。

 優にとって、自分は魅力的ではないのかもしれない。そんな不安がさざ波のように、引いては返し、引いては返し、彩の心を惑わせる。


(わかってる。大事にしてくれてるのは)


 入籍のお披露目も兼ねてパーティーをしたとき、優は言った。


 ——キスしたらもう我慢できない。めちゃくちゃに抱く。だからおまえにはまだ早い。以上。


 それからもう、一年半が経つだろうか。

 つい先日、キスはした。

 だけど全然襲ってくれない。抱いてくれない。


(めちゃめちゃ我慢づよいじゃん)


「ゆたかさんの、うそつき」


 何気なくこぼれた言葉に、優のまつ毛がふるえた。


「……ん、わりィ」


 目をこすりながら「何か言った?」とかすれた声で尋ねる優に、彩は自分の不満をそっと押しこめる。


「お風呂、あったかいうちに入っておいでよ」

「さんきゅ」


 頭をぽんと撫でられて、それもちょっと子ども扱いではないかと、すねてしまう。


(あーあ、こういうところがなー)


 優が浴室に入る音を聞きながら、彩はすごすごと寝巻きに着替えた。



 *



 優は湯につかりながら、物思いに耽っていた。

 気づかないふりをしたが、実は聞こえていたのだ。


(嘘つき、つってたよな)


 直近の出来事を思い返す。ちいさなケンカはちょいちょいあるが、特に嘘をついた覚えはない。


(——や、あるか)


 それこそ彩と入籍してから、自分の気持ちに嘘をついている。

 肌にふれたい。

 息も奪うようなキスをしたい。

 二人で何も身につけず、素肌のままで愛し合いたい。

 フッと想像がよぎって、優はバシャンとお湯に顔をぶつけた。

 理性が頭の中でうるさく騒ぐ。


(彩は性的暴行のサバイバーだ)

(PTSDもある。フラッシュバックだって起こり得る)

(それに、一番心配なのは……)


 彩の月経が、止まったままであることだ。

 それは体の防衛反応。

 彩の性を司る細胞たちは、まだ、受けた暴力の大きさに凍りついている。


(そんな状態で抱けるかよ)


 痛い思いはさせたくない。

 安心させたい。気持ちよくなってほしい。そんな雄としてのエゴが、優の理性を苦しめる。

 悶々としながら、浴槽から上がった。

 ところがその瞬間——

 目の前が、真っ暗になった。


「——たか、さん」


 フッと気がつくと、自分は脱衣所に倒れていた。

 彩が青い顔でのぞきこんでくる。


「ゆたかッ!!」


 彩は震える声を必死に張り上げて、優の両頬を包む。

 優は「痛ってぇ」とうめきながら、体勢をずらした。バスタオルを掛けてくれていたらしい。


「あ、頭とか、打ってない?」

「んー……だいじょぶ。たぶんのぼせた」


 考える内容も、湯に浸かりながら考えることではなかったと反省する。


「心配かけた。明日は休みだし、今日は早めに寝るわ」

「きゅ、救急車、呼ぶ」

「たいしたことない。今夜は様子見て、なんかあったら、外来行ってくるわ」


 彩の両目からポロポロと涙がこぼれた。

 溢れるように。


「あたし、そんな、頼りない?」

「おい、なんだ——」

「うそつきの言うことなんか、知らないッ!」


 優の上体にかぶさってくる寝巻き姿の彩。

 強気な言葉とは裏腹に、華奢な肩が小刻みに震えている。

 カタカタとゆれる背中。

 細い指先にふれると、ゾッとするほど冷たい。


(……怖がらせたか)


 自分の体も冷えている。

 どれほど倒れていたのだろう。

 そのあいだ、どれほど不安にさせたのだろう。

 情けないやら愛おしいやら、複雑な気持ちで身体を起こし、腰にバスタオルを巻く。

 立てないのは彩のほうだ。


「ん」


 手を差し出すと、恐る恐る、彩の手が重ねられる。

 見上げてくる表情は、目尻が赤く泣き濡れていて、扇情的で……優の理性とわずかな嗜虐心(しぎゃくしん)を鈍く刺した。


(本当は、笑わせたいのに)


 もともと、傷ついている彩を守りたいという自分のエゴで進めた婚姻だ。

 それなのに、こんなに悩ませて、あまつさえ泣かせて。


(カッコわりィ)


 優は黙って彩の手を引き、そのまま寝室に入った。

 マットレスに座った彩を布団でくるみ、掛け布団ごと抱きしめる。

 彩は伴侶のとつぜんの奇怪な行動にポカンとしている。


「あや」


 優の声帯から出たはずの音は、自分でも初めて聞くやわらかさだった。

 愛していなければ出せない声。

 ああ、と今更ながら気がついた。


(——俺が怖かっただけだ)


 彩を思いやる気持ちを言い訳にして、自分の劣情にフタをした。

 誰よりも自分自身が傷つかないように。


「ごめん」


 卑怯者だった。

 自分は愛しいひとより幾年も長く生きてきたくせに、馬鹿みたいに、初めて女性にふれる男のように、拒まれること、失敗することを恐れている。


(拒まれても、いい)


 自分に言い聞かせる。

 こういうことは、ゆっくり、時間をかけて育てていくものだ。

 彩の頬にのこっていた涙を、親指でぬぐう。


「俺、おまえを傷つけるの、怖くて」


 語尾がふるえた。

 彩はまん丸の瞳に光をたたえて、優の声に耳をすませている。


「不安で、でも、抱きたくて」


 優は、自分の耳に熱がこもるのを感じた。


「悩んでたら、のぼせた」


 彩はぽかんと口を開けて、優を見つめ返す。

 そして堪えきれないように笑い出した。


「あはっ、何、それ」

「だよな……俺も自分でちょっと引いてる」

「引かないよ」


 彩は細い両腕を優の首にまわした。


「ちゃんと、そういうことで悩んでくれてて、それがわかって、嬉しい」


 さわって、と彩が言う。

 好きな相手にこんなふうに言われて、歯止めの効く男はいない。


「もし、痛かったり……フラッシュバック、起こったり、したら」

「わかった」


  彩は優の手をにぎり、しっかりと応えた。


「言う。ちゃんと言う」

「——俺、こんな臆病者だったんだな」

「あたしも、怖い、けど」


 にぎりしめた手のひらに、彩の頬がすり寄せられる。

 それが、互いにとっての合図だった。


「くちびる、あけて」


 ちいさな下唇をなぞってねだると、彩はいくぶん緊張した面持ちで、優の指に従った。


(心臓、やばい)


 思春期でもあるまいし。

 高揚、陶酔、焦燥……どんな言葉でも表現できない。心の奥底が熱くなる。

 くちびるに、首すじに、互いの熱を移していく。

 ろうそくの火を繋ぎ灯してゆくように。



 *



 彩はもともと冷え症だった。

 度重なる拒食と過食嘔吐によって、消化器官はボロボロ、自律神経もフラフラ、そんな状態であったところを、(ゆたか)に拾われて救われた。

 痩せっぽっちの猫の毛並みが整ってゆくように、彩は健康を取り戻しつつあった。

 それは自覚があった。


(だけど、こんなのは……)


 知らなかった。

 好きな相手にふれられると、胸の奥がぎゅっと切なく痛むこと。

 身体全体が熱くなり、しっとりと汗ばむこと。

 噛み締めた奥歯のうちから、自分のものとは思えないような、甘い息がもれること。


(じぶんじゃないみたい……)


 彩自身の底に巣食っているはずの、醜形恐怖のモンスターがおとなしい。

 消えはしないが、眠っている。

 叫んだり(わめ)いたりしない。


(ああ、そっか)


 荒くなる息の下で気がついた。


(アンタは、知っているんだね)


 彩の身体が安心しきっていることを。

 誰にも傷つけられてはいない、ということを。


(アンタが叫んでいたのは、あたしが、何も言えなかったから)


 心も体もズタズタに傷つけられた。

 それでも嵐が行き過ぎるのを待つしかできなかった自分。

 醜形恐怖のモンスターは、彩の本音の叫びだった。


 ——あたしを汚さないで。

 ——これ以上、自分を嫌いになりたくない。


 悲痛に泣いていた過去の彩——母親が出て行ったばかりの幼い彩、父から暴力を振るわれていたときの彩が、ふたりで労わりあうように手を繋ぎ、涙目のまま、いまの自分にほほ笑みかける。


「あたし……」


 彩は優の両頬を手のひらで包んだ。

 優のひたいには、前髪が汗で貼りついている。

 それをよけてやりながら、彩は言った。


「ずっと、自分を好きになりたかったんだ」


 言った瞬間、目尻から涙が伝った。


「すき。ゆたか、すき」


 涙と一緒に想いがこぼれる。

 優の熱い両腕に抱きしめられる。

 は、と余裕のない息を吐いたのは優のほうだった。


「あや」


 耳たぶにキスをされる。

 くちびるは震えていた。


「……煽るなよ」


 年上らしくない、まるで命乞いでもしているかのような懇願だった。

 その切羽詰まった表情に、経験豊富なはずの余裕はまったく感じられない。


「——痛くないか?」

「いたくない。きもちいい」


 優が低くうめいた。


「だから、煽るなって」

「あ」


 肌を伝って身震いする感覚に、やさしくふれてくれているんだ、と彩は今さら気がついた。


 ——わかんねえのか。


 脳裏によみがえるのは、まだ同棲するまえの……自分が入院していた頃の、優の声だ。


 ——そんなになるまで、殴られてたって、黙って聞かなきゃいけない俺の気持ちが、わかんねえのか。


 そう言って優は泣いたのだ。

 こんな自分のために、一緒に痛みに耐えてくれた。


(そっか、だから)


 抱いてくれないと思っていたのは、子ども扱いなんかじゃなかった。

 むしろ、彩の身体を大事に大事に思ってくれたからこそ、ずっと耐えていたのだ。


(それで、今もヤセ我慢して)


 痛くないか、と確かめてくれる。

 煽るなよ、と制してくれる。

 そんなパートナーが愛おしくて、彩は優をぎゅっと抱きしめた。


「こまったなぁ」

「どうした」

「優さんに、惚れ直した」


 彩なりに渾身の告白だったが、無言でスルーされる。

 不満をもって顔をのぞきこむと、優の顔は首から真っ赤になっていた。


「ど、したの」

「——ッ、おまえなぁ……!」

「ひゃっ!」



 *



 そうしてひと月後、彩の身体はようやく氷が溶けたのか、子宮から生命活動の証が零れるようになった。


「赤飯炊くか?」


 わりと真面目に訊ねた優に、彩は呆れ半分、笑い半分で答えた。


「ぜったいやめて」





 《Fin.》







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