ネイサン・ヴァレンタイン4
ブライアンが飲ませていた薬は兄の治療薬と同じもの?
そんな疑念を抱え、ネイサンはその日も任務に就いていた。代り映えのしない、同じ風景の元同じ人間を護衛する。それももうすぐ11年経とうとしていた。同期や同年代の者はそれぞれに家庭を持ち、子供にも恵まれ時折妻と些細な喧嘩をして愚痴をこぼし酒を飲んでも、家族が待つ家がある。
そんな彼らを年に一度か二度、無性に羨ましく思うときがある。それでもそんな気持ちはすぐに蓋をしてみなかったことにする。自分は国に忠誠を誓った騎士で、この任務も自分が望んだものだから、と。
蓋をしてきた。
見なかったことにして、気づかなかったことにして、なかった事にした。
だが、コップに水を注ぎ続ければ溢れるように。いつかは溢れ出る。そうして溢れ出てしまえば、取り返しはきかない。
ネイサンは隠し事は苦手だ。
すぐに顔にも態度にも出てしまう。ブライアンに様子がおかしいと指摘されたのはすぐだった。
「ええ、あの薬。特別な薬ですよ。……とても大人しくなったでしょう?」
ニヤァ……と嗤うブライアンのその表情は、これまで見たことがなかった。
普段は好々爺とした年相応の柔らかい笑みを浮かべる執事だ。
だが、目の前にいるこの男は……?
人の悪い、悪魔が獲物を見つけたようなそんな笑顔。
「ふふっ! あなたもおバカさんですねぇ。ようやっとですか。なら、ご自身の兄君の傍にいる女狐の正体はご存じで?」
女狐?
何のことだ。
いや、わかる。
真っ先に浮かんだのは慈愛に満ちたあの女性。
「おや、そちらは確信はなかったようですねぇ。まぁいいでしょう。どうせもう、手遅れですしねぇ」
くすくすと笑うブライアンは顔を引き締め、ネイサンに向き直る。
そこにいたのは老執事ではなく、長年闇に生きてきた男の姿。
「〝アレ〟にはまだ死んでもらう訳にはいきません。あなたは必要以上に感情移入されない方で実に動きやすかったですよ。やはり最初に乳母として姉君を連れてきたのが効きましたか」
混乱する頭にブライアンの声が音としては聞こえても、言葉として意味を理解することが出来ない。
この男は、一体誰だ?
思考がまとまらないネイサンに、ブライアンは一から語り始めた。それは、ネイサンにとって伯爵家にとって、とんでもない真実だった。
「兄君の病は毒によるものですよ。最初はただの風邪でしたがね。
『献身的に夫を支える年若い妻』を演じるうちそれが快感に変わっていった。もっと周囲から健気な妻として認知されたい。その欲が、『夫に毒を盛る悪女』を作り出した。
結果はご存じの通り。伯爵家が傾くほどに彼女の献身は社交界のみならず平民の間でも話題になり、悪女は聖女に祀り上げられた! なんとも愉快なことでしょう!!
治療薬? あれは精神干渉薬ですよ。あれを飲ませた後、耳元で囁けば素直に応じるようになる。実に使い勝手のいい代物だ。まぁ、隣国では禁止薬物認定されていて闇ルートでの購入なので高額なのも事実ですが」
まるで演劇でも見ているかのような気分だった。
目の前にいる役者の男は喜色満面で大袈裟に身振り手振りで立ち回る。部屋の端から端までを使い、本当にここが〝舞台〟であるかのような錯覚さえしてきた。
「あなたには感謝しかない……。これで随分勢力が削られました。それもこれも、ヴァレンタイン家が傾いてくれたおかげです。
実に長かった……。ですが、これもあとは時間の問題。その時がくれば……」
ピタッと歩みを止め、ニンマリ邪悪な笑顔を浮かべるブライアン。その顔は本当に嬉しくて待ちきれないと言わんばかりの表情だ。
「ようやくあの『黒持ち』も処分出来るというもの!! 是非!! その時は私の手でと! そう願っているんですよ。共に過ごしてきた人間に殺されるあの『人間もどき』が!! 絶望を浮かべて命乞いするさまを! あぁっ……、どれほど心待ちにしていることか……!」
狂ってる。
恍惚としたブライアン。全身で歓びを現すその姿に、ネイサンは恐れ慄いた。ここにいる人間は自分とは違う人種なのだと、そう確信した瞬間だった。
ブライアンが語るに、リオネル第一王子殿下を王太子、次代の国王とするべく暗躍していた。だが、ブラッドフォード公爵家の影響力は大きく、メイウェザー公爵家とは拮抗していた。そこで中立派を取り込むことで議会の票をより多く得ようとしたのだ。
それに巻き込まれたのがヴァレンタイン伯爵家。ネイサンの実家だ。
歴史ある名門伯爵家を陣営に取り込めば大きく動く。
取り込むため着々と準備を整えていた。それはアデルハイトが生まれる以前から。どちらに傾こうが、何らかの圧力により伯爵家は取り込まれていただろう。
そしてアデルハイトの誕生。『黒持ち』という事実は極秘事項。これがブラッドフォード陣営に知られればこれまでの準備が全て水泡に帰す。国王陛下により徹底的に秘密厳守とされたが、更に徹底したのがメイウェザー公爵だ。外戚にあたる王子が『黒持ち』だと知れたら公爵家自体の存亡に関わる。だが、ようやく生まれた王妃の第二子。使わない手はなかった。
正当なる王家の後継。
金の髪と藍の瞳。リオネル殿下は瞳の色が問題視された。そのおかげで王太子の座は未だ空席。言い出しっぺの側妃派貴族はさぞかし焦った事だろう。側妃達が生んだ子供は全て、王家の色とは言えないのは明らかなのだから。
そんな中生まれたアデルハイト。『黒持ち』ではあるが瞳はまさに王家の色。
メイウェザー公爵は悩んだ末、アデルハイトをリオネルのスペアとするため生かすことにした。もし、王位継承権に何の関係もない家に生まれていればすでに処分していたことだろう。『黒持ち』など本来なら血のつながりも否定したいのにだ。
そんなアデルハイトはすぐに塔に移された。
〝北の塔〟は侵入も脱出も難しい『王族専用監禁塔』
ここなら一先ず安心だった。
そこは王妃からの暗殺の手を防ぐにも、アデルハイトの姿を隠すにも都合が良かった。
ただ、そんな閉鎖的な空間に『黒持ち』という『人間もどき』と十数年過ごすことは苦痛でしかなかったが。
ネイサンを護衛に付けたのは陛下とオールバンスだがそれはメイウェザー公爵家としては願ったり叶ったりだ。ヴァレンタイン伯爵家を取り込むため、暗躍していたがまだ成果が上がっていなかったからだ。
既に事細かく現伯爵周辺は細かく調べ上げており、付け入る隙を伺っていたのだ。
すかさず姉を乳母として連れ出し、アデルハイトと対面させた。一般的な貴族女性でしかない姉が拒否することは想像通り。そこで同情を誘い、言いくるめて乳母となった姉は心を病んでいく。
ネイサンが逃がすこともブライアンにはお見通し。
療養させる為、塔から離された姉にはオールバンスの邪魔が入りメイウェザーが治療を施すことは出来なかったがネイサンにはいい見せしめとなった。
『アデルハイトは周囲の人間を不幸にする』
実際、ネイサンは一瞬だが考えてしまった。
『殿下が生まれさえしなければ』と。
そして、次に魔の手が迫ったのは長兄。
きっかけは本当にただの風邪だという。少し休み再びぶり返したことで兄嫁の方に悪魔が囁いた。
『まだお若いというのになんと献身的なことでしょう。あなたのような女性は見たことがありません。 きっと聖女様であるに違いません!』
おだてられているだけだとわかっていても、耳心地のいい言葉に兄嫁・クラリッサはつい浮かれてしまった。
夫婦仲は良いが弟であるネイサンと同い年であるクラリッサはどこか夫から妹扱いされているように感じていた。少しばかりの不満。それが周りから『いい妻』『いい嫁』扱いされることで何とも言えない快感を感じた。
夫のフェリックスにはそんなつもりはなく、大切な妻・愛する女性として扱ってきたつもりだったのだが大事にするあまり、夫婦としての夜はクラリッサがどんなに大丈夫だといっても体調を気遣い途中で止めてしまうこともあった。
女性としての魅力に欠けているのかと思い詰めることもあった。
子供も友達はすでに出産しているか妊娠中の者が多く、早い人では二人目が生まれていた。クラリッサの中で焦りが生まれていたのだ。
そこにフェリックスの風邪。
ただ普通に看病をしていただけだ。なのに、フェリックスは熱に浮かされたような瞳で自分を見て愛を囁き口づけを強請った。妹扱いじゃなく妻として、愛する一人の女として見てくれている。
それが彼女を快感の海に沈め、二度と戻れないところまで来てしまった。
体調を崩していたらもっと長く、夫と共に夫婦として居られる。
そう考えたクラリッサは侍医が用意した薬に少しばかりのしびれ薬を混ぜて飲ませた。
常に傍にいたクラリッサは使用人からも聖女のように扱われ、まさか毒を盛っているなど考えもしなかっただろう。
ヴァレンタイン伯爵家を引きずり込むため数年前から使用人を紛れ込ませていた。おかげでようやく突破口が開かれたように感じた。
クラリッサに気づかれないよう、外の仲間と連絡を取り抱え込んだ医者を用意した。原因不明の病に侵された伯爵家嫡男夫人。これがさらにクラリッサを溺れさせる。
隣国で治療経験のある医者は金さえ払えば協力的だった。
そしてクラリッサにアドバイスを行う。
『飲ませたあと、あなたの望みを耳元で囁いてご覧なさい。きっと、ご主人はあなたの望みを叶えてくれますよ』
半信半疑のクラリッサだがその日の夜、試しに囁いてみたらなんて素敵なことでしょう。
弱っていたはずのフェリックスは愛を囁きながら床に就いてなお、自分を求めてくれたのだ。
それはしびれ薬を飲ませていた時とはまるで違う。別人のように、情熱的だった。
こんなことはおかしい。
頭でわかっていても、周囲からの称賛と愛する人から求められることが嬉しくてやめられなかった。
伯爵家がこの薬を用意する為どれだけの私財た投じられたのかもわかっていた。このままでは本当に伯爵家が潰れてしまうとわかっていても。
止めることが出来ない。
義父と義母のみならず、使用人たち全てが自分を信用している。
何処で本当は夫に毒を盛っているか知られないか内心ビクビクしながら過ごす。でも、夜になれば弱った体に鞭打ちながらも求められることがたまらなく嬉しく快感で……
だが、遂に派閥入りした事を知ったフェリックスは己を責めた。
原因不明の病のせいで代々続くヴァレンタイン家の誇りを穢してしまったと。
更にはクラリッサとの離縁も上げてきた。それは絶対に嫌だと以前の話し合いでまとまったというのに。
離縁を持ち出し、細い体を震わせながら涙を流し自分を責める夫の姿に漸く我に返ったクラリッサ。
何とかしようとあの医師に相談するも。
『治療? ご主人は原因不明の病ですよ? あの薬は症状を抑える為のものです。奥様も、ご存じでしょう?』
医師の口ぶりにクラリッサは眩暈がした。自分の仕出かしに今になって恐ろしくなったクラリッサに最後に追い打ちをかける。
『随分長く愛用されていましたからね。もうすでに手遅れです。もってあと一年。早ければ今年中の命でしょう。……強力な分、副作用で消化器系をやられるんですよ。ですが……ご満足頂けたでしょう?』
目の前が真っ暗となりどうやって戻ってきたのかわからなかった。
ただそれでも、夫の元に向かい手を握っていた。涙が溢れて止まらない。
すすり泣く妻の姿に驚き、フェリックスは目覚めた。
涙をぬぐってやろうと手を伸ばすも、もう腕も満足に動かせない。不甲斐ない自分に情けなく思いながらも、手を愛する妻の目元へ。
クラリッサは全てを白状した。
偽りでも妹ではなく、一人の女性として愛して欲しかった。愛を疑ったわけではないが、物足りなかったと。献身的に支えれば支える程、周りは良いように言ってくれた。聖女だ、女神だと。それがとても気持ちが良くて。自分に酔っていた。
薬を使ってあなたに囁けば、あなたは応じてくれた。以前なら柔らかく断ったのに。応じてくれたことが嬉しくて。
ずっと、毒を盛っていた。もう、本当に治療しても手遅れで余命一年だということ。
泣きながらでもしっかり自分の過ちを語ったクラリッサ。
彼女の手を握り締めながら、黙って聞いていたフェリックス。
「なら、これからはその薬はなしだ。……肉体的に、君の望みに応えることは、もう難しいけど……。本当に、君を愛しているから。……家も傾いた。誇りも傷ついた。これで君をも失いたくない……。先は短いが、最期の時まで傍にいてくれるかい」
そうして変わらず優しい笑みを浮かべるフェリックス。
あぁ、どうしてこの人を疑ってしまったのだろう。
クラリッサはちゃんと愛されていた。妹ではなく一人の女性として。
なのに。
その優しさに満足できなくなって取り返しのつかないことをしてしまった……。義両親にも義弟や義妹に顔向けできない。あんなによくしてくれた大切な家族を、大切な人を……! 彼らから奪ってしまうなんて……!
フェリックスはこれから治療はせず、残りの人生を精一杯過ごしたいと願った。クラリッサの犯した罪を公表せず、むしろ死後修道院に入ると聞かないクラリッサに援助として毎年の寄付を約束した。受け取れないというにも、修道院に寄付するのだから何の問題もないと押し切られた。彼女の罪はフェリックスが墓場まで持っていく。これで自分も共犯だと笑って。
そうして残りの時間を大切に過ごした。
病に倒れて11年。
フェリックス・ヴァレンタインは妻に見守られながら、38年の生涯を閉じた。




