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レイが鬱蒼とした目でモクイを見つめる傍ら。スローが手のひらほどの細長い笛を吹いた。どうやらそれは仲間を呼ぶためのものらしく、広い海を素早く駆け抜けるような大きな笛の音が、辺り一面にこだまする。
「――よし」
「いや、『よし』じゃないよね。応援が来るのはいいけど、そっちよりも早くモクイが来るよ? なんでそんなに余裕たっぷりなの? もう少し焦ろう、よ!」
ついにモクイが眼前に現れる。大きなごわごわした毛まみれの腕が降り上げられ、ブオンという風の音と共に、二人の間に落ちてくる。右へ左へ、上へ下へ。大きな図体をしていることを忘れるほどの、モクイの軽い身のこなし。モクイの身体能力は、こちらが想定しているよりもずっと高い。
「これ、よけてるだけじゃ、埒が明かないね!」
「それでも時間稼ぎにはなる。捕まらないよう、シャカシャカ逃げろ」
「人を虫みたいに! ん?」
カチャリと音がした。それは、カガミが玄関ドアを開ける音。
一人では酒樽を運べなかったらしい。カガミと、そしてシルハの二人が一緒になって、酒樽を地面に転がしながら外へ持って出た。その光景に二人がホッとする傍ら、モクイは「新たな敵を見つけた」と言わんばかりに、体の向きをクルリと変える。これまたスムーズに方向転換するものだから、レイも、そしてスローも一拍遅れた反応になってしまう。
「いけません王子、逃げて!」
ダムを襲った大きな腕が真上に迫っていると分かったシルハは「わあ!」と今までに出したことない、年相応の高い声を出す。もちろんスローはすぐに向かうが、いかんせんモクイの動きの方が早い。
もう、ダメか――絶体絶命のシルハ。だが、モクイが腕を振り上げた拍子に舞い上がった風に乗り、顔を歪めるほどの異臭が鼻をつく。しかも、すごく近い所から。
横を見ると、酒樽を押すカガミの手の中に、白いゴツゴツした物が複数ある。どうやら異臭は、そこからしているらしい。
「投げるから、これを切ってくれ!」
モクイの鼻の先に、カガミは白い何かを放り投げる。同時に放った言葉通り、近くにいたスローがスパスパッと二重にも三重にもそれを切り刻んだ。すると一瞬にしてモクイが動きを止め、固まった。そうかと思えばひっくり返り、ダスンダスンと暴れている。見ると、何やら鼻の辺りを必死に手で擦っていた。
妙な反応を示したのは、なにもモクイだけではない。白い何かを切ったスローが「う!」と。自らの腕を遠ざけるように伸ばし、鼻をつまむ。
「剣が、おぞましいほど臭いにおいを放っている。お前、あの白いのはなんだ? 私に何を切らせた?」
「あれはここらでよく採れる島ニンニクだ。モグラはニンニクやネギから放たれる匂いを嫌う。モグラの姿をしたモクイならひょっとして、と思ったが……効果があって良かった」
「そりゃ、そうだが。しかし、この剣の匂いはどうする!」
「酢と水を合わせて洗えば、幾分かは匂いを軽減できる。今は……鞘に戻さず、その辺に転がしておくのがいい。それに、やってもらいたいこともあるしな。まだモクイは眠っていない」
「……わ、わかった」
スローは大人しく剣を砂浜へ置き、酒樽へ近づく。どうやら自分の剣より、シルハの身の安全を優先したらしい。
「今、モクイはちょうどひっくり返っている。酒を流し込むには好機だ」
「三人で運びますので、王子は下がっていてください」
「ちょっと……なんか君、くさいよ?」
後から来たレイが、スローの隣で酒樽を抱えながら、眉をぐにゃりと曲げる。スローも自覚があるらしいが、状況が状況なのでひと睨みして終わった。
みんなで、えっちらおっちら酒樽を運ぶ。その間シルハは「気を付けろ」と言いながら、モクイの動きを観察していた。
「動きが止まった。今だ、一気に流し込め!」
シルハの号令で、大人三人は「おぉ……!」と声をだしながら酒樽を持ち上げる。それはちょうどモクイの上下の歯でガチンと固定され、トプトプと口内へ流し込まれた。さらにシルハがニンニクの実を鼻に詰めると、息がしづらくなったのかモクイが呻く。その拍子に、喉に溜まっていた全ての酒をゴクリと飲み込んだ。
任務完了。あとはモクイが、酔って寝てくれるのを待つだけである。
カガミが言った通り、相当に高い度数の酒らしい。目を白黒させ、既にモクイの意識は混沌としていた。
「は~」と、一同が安堵の息を吐く。
まさか剣ではなく、食べ物で魔物を撃退することになろうとは。
「どうなるかと思ったが……。魔物は、無事に処理できそうだな」
「でもさっき城からの応援を呼んじゃったから、ここは別の意味で、もう安全じゃないよ」
「王子と国王は、どうする?」とレイが問う。カガミ、そして張本人のシルハは苦虫を噛み潰したような顔をした。それに応援が到着する間もなく、目の前にいるスローに城へ連れ戻されるのかもしれないのだ。力づくでも。
一か八か、という顔でシルハが、スローの前に立つ。ほぼ沈みかけた夕日が、二人の顔に影を落とし始めた。
「スロー、僕は……父上に、親孝行をしたいんだ。今まで一人でたくさんのことを背負ってきた父上に、最期は好きなように生きてほしい。父上の好きな物があれば、たくさん食べさせてあげたいんだ。
それは、一国の王子が望んではいけないことかもしれない。しかし国民だけでなく僕たち王族にだって隕石は近づいている。みんな平等に『生の制限時間』があるのだ。その下では身分も、そしてどう余生を過ごしたいかという願いさえも、その全てが対等であらねばならない。国王も国民も関係ない。みんな一人の人間なのだから。
この話をした上で問う。
僕が、父上に親孝行したいと願うのは、いけないことか?」
「……」
スローは何も言わなかった。しかしレイ、そしてカガミを見て、さっき自分が落とした(くさいにおいのする)刀を拾う。
「そこの異国の者は剣の腕が立つようだし、家主は料理が上手いというのなら……守ってもらおう、私の王子と、王子の自由を」
「いや、だから『君の王子』ではないって」
レイがツッコむ横で、シルハが目を輝かせる。
「見逃して、くれるのか?」
パッと明るい表情になったシルハを見て、スローは柔らかな笑みを浮かべる。それはカガミたちが彼女と出会ってから、初めて見る慈愛のこもった笑みだった。
「今は、というだけです。思い出してしまったので。
美味しそうにアイスを食べる王子の笑顔を、私は守りたいと思った。
笑っていてほしい、あなたには、ずっと――その願いをこの手で奪うことは……今の私には、出来かねる」
「スロー……」
シルハは呆気にとられた。しかしスローの言葉をやっと咀嚼し、理解したのだろう。「ありがとう」と、彼女の両手を握り自分の額へ寄せた。もちろん思ってもないことだったらしい。スローは「え」と、夕日ではない「赤」を頬に浮かべる。
「お、王子? どうされましたか?」
「スロー、お前は僕にとって先生のようであり、親であり、姉であり、家族だった。今も、そう思っている」
「先生、親、家族……」
「光栄なことです」も「身に余るお言葉です」とも言わないスロー。なんだか泣きそうな彼女を見て、レイが「あの王子って残酷だね」とカガミに耳打ちする。
「どうして残酷なんだ?」
「……ったく、どいつもこいつも」
珍しくぶっきらぼうな言葉を使うレイを、カガミはやはり不思議そうに見る。
「先生、親、姉、家族――彼女にとっては、そのどれもが嫌なんだよ。それ以外を望んでいるんだ。
王子に秘めた思いを抱いているってことだよ。さっきから彼女を見てたら、それくらい分かるでしょ?」
「近衛が主に……そうなのか、そういう恋もあるんだな」
「気づいてなかったの? あんな風に手を握っておいて『君は恋愛対象外だ』って彼女に突きつけてるわけ、王子は。だから残酷だねって言ったんだよ」
「なるほどな」
「ほんとに分かってるのかな」
完全に日が沈みきった砂浜に、波の音だけが静かに響く。
何か願いでも込めていたのだろうか。しばらくスローの手を握っていたシルハは、「よし」と。ゆっくりと手を広げ、彼女を解放する。
「これから城に帰るのだろう? 気を付けろよ。お前の馬は……見当たらないな」
「ここではない、遠くで応援と落合います。馬は、その時にでも。……王子」
「なんだ?」
「最期の最後に、あなたを迎えに来ます。それまでどうか、ご健勝で」
「……あぁ、わかった。最期は一緒にカニの天ぷらでも食べるか」
その言葉を聞いて、スローは「ぷっ」と噴き出した。呆れたような、だけどシルハに「一緒にいることを認めてもらえて嬉しく思っている」ような、そんな顔だ。
「では、シルハ王子をくれぐれもよろしくお願いします。あぁ、それと、お前」
スローはカガミとレイに向き合う。そうかと思えば、カガミの家の裏から、何やら持って来た。夕日が沈んでしまって、何を持っているかよく見えない。だけど彼女から手渡された時に、その物に触れた時に、ようやく判明した。
これは、盗賊に奪われたシルハたちの私物だ。
「これ、取り返してくれたのか?」
「盗賊なんぞにみすみす奪われるなど、言語道断だ。しかも王子の物をその辺の流れ者に渡すなど……」
「ありがとう、とりあえず中を確認する。シルハ王子」
「わかった」
カガミとシルハが袋の中を改める。暗いから枚数だけ確認することになるが、それでもシルハは違和感を覚えたらしい。
「ハンカチが一枚ないな。小さい物だから、袋から出して盗られたか」
「それは……まぁ、仕方が、ないですね」
シルハの言葉に、スローの声が明らかに動揺した。しかしシルハは「まぁよい」と、口の端をヒョイと上げる。
「これで食べ物に困らなくて済む。スロー、迷惑かけたな。感謝する」
「いえ、王子のためなら、私は。
それより馬の音が聞こえているので、私はこれで。王子、くれぐれも無茶はなさらず」
「あぁ、お前もな」
シルハからの労いを受け、スローはニッと笑った。そうして抜き身の刀を持ったまま、忍者のようにこの場を後にするのだが……その際、カガミだけ気づいた。スローのベルトに、ハンカチが挟まっていることを。あれは、シルハが荷造りした中に入っていたハンカチだ。盗られたと思ったが、彼女が持っていたのか。
「でも、なんでシルハ王子に返さないんだ? 自分が持ってることも言わなかったし」
不思議に思ったカガミだが、さっきレイに「恋だ」と教えてもらったことを思い出す。共にいられないのであれば、せめて好きに思う相手の物を身につけたい――そんな思いが、スローにあるのだろうか。そうして得たハンカチが、彼女の生きる希望になるのだろうか。
その気持ちは、なんだか分かる気がした。
「恐ろしい魔物のモクイがいたとて、俺も家族と過ごしたこの家を離れられないもんな。時に『物』というのは、自分にとって心の拠り所になる……ということか」
持ち前の正義感から、王子へ「スローがハンカチを持っている」と告げようとしたカガミだが、やめた。シルハとダムを城へ連れて行かなかったスローへ対する感謝の意、なのかもしれない。
これからもしばらく四人で過ごせるんだ、あの家で――そう思うと、カガミの心にポッと灯りがともるような、そんな温かな心地がした――次の声を聞くまでは。
「よし。あー、疲れた」
声がする方を見ると、なんとレイが真っ黒に染まっていた。レイは白い服を着ていたから、暗闇でも多少はぼんやり見えるはずだが……。白い服は、どこへやったのだろう?
カガミが尋ねると、レイは気怠そうに答える。
「服は着てるよ。これは、モクイの返り血。あーあ、せっかくの一張羅が台無しだよ」
「モクイの返り血……ってことは、モクイを殺ったのか?」
「ぐうぐう寝てたからね。また起きる前に、って」
「そうか、ありがとう。でも……」
レイが持っているのは、短刀だったはず。あの短い刀身で、モクイの巨体を切断することは不可能だ。シルハの剣を借りたようにも見えない。だったら、どのようにして――
「ねぇ、提案なんだけど」
カガミの思考が、否が応でも途切れてしまう。首と体が離れて横たわるモクイを見たまま、レイがとんでもないことを呟いたからだ。
「今日って晩ご飯がないでしょ? でも、ここに肉の塊があるじゃん?
だったら……やることは一つだと思わない?」
「「え……」」
カガミとシルハの声が重なったのは、言うまでもない。
まさかこの男、魔物の肉を食らう気か?――と声ならぬ声が、互いに聞こえてきそうだった。
「言っておくが、普通のモグラはマズイんだ。主食が虫だからな」
「でもこのモクイは海の近くに住んでいる。ということは魚を食べているんじゃない? 王子たちが乗った馬も食べているなら、モクイの身には脂が乗ってそうだけど」
ジュルッとした舌なめずりをしたのは、もちろんレイだ。「試しに足をカットしてみよう」と、モクイに近づく。しかしモクイは巨体故に、体の向こうで作業するレイの姿が見えない。心配したカガミが近寄ろうとしたが、それより早く、ドンとモクイの肉塊を両手に乗せたレイが戻って来た。
「臭みはあるけど、どの動物も同じだよね! カニみたいにちゃんとした処理すれば食べられるんじゃない? ね、カガミ!」
「あ、えぇっと……そう、なのか?」
レイに押されて頷くと、隣にいたシルハが「バカか、貴様は」と顔を青くする。シルハは王族だ。間違っても「魔物の肉を食べる」なんて経験はしてこなかっただろう。……もっとも、それはカガミも同じだが。
しかし、頷いてしまったものは仕方ない。いっそう目を輝かせたレイが「さっそく調理だ!」と血まみれで家へ入ろうとするものだから、急いでカガミが止めに入る。そうして二人が血を洗い流すため海に向かったのだが……。
その光景を見たシルハが、ポツリと疑問を漏らした。
「結局あの男、何の武器でモクイを切ったんだ?」
腕組みして悩むシルハ。しかしダムを地下収納に入れっぱなしだったと気づき、先んじて家へ戻る。もちろん問題なくダムは息をしており、安らかな寝顔だ。だけどやはり顔色が悪いのを見て、「今晩も何か食べさせないとダメだ」と気づく。
「モクイの肉しか、ないのか……」
シルハの横顔に冷や汗が垂れる。金髪のサラサラの髪は、さっき潮風を浴びたことでギトギトになっていた。そんな自分の髪に手を触れ、深呼吸を一つ。その間、頭の中を流れるのは、いつかレイから言われた言葉だった。
『郷に入っては郷に従え』
『城より一歩外へ出たなら、そこはもう君のテリトリーじゃない』
『いつまでも高飛車な態度をとってないで、この場に合った立ち居振る舞いをするべきだよ』
ふぅと、レイは息を整える。そうして「覚悟を決めよう」と。暗闇の中でも不気味にぽっかり浮かんで見える生々しいモクイの赤身を、窓越しに見つめた。ただの一度も、目を逸らすことなく。




