第16話最終話
その夜も、神代さん一家は心のこもった食事を用意してくださった。
テーブルには香ばしい肉料理やスープが並び、家族みんなの笑い声が部屋いっぱいに広がっていた。
そしてその晩も、私たちは泊めていただくことになった。
食事の前、私は美月に小声で言った。
「ねえ、二泊も泊めてもらってるし、何かお返ししないと。」
「そうだよね。お金をお渡ししたほうがいいのかな。」
私は思い切って食事の席で尋ねた。
「神代さん、二日間の宿泊や食事代は、どうしたらいいですか?」
神代さんは一瞬サミラさんの方を見て、穏やかに微笑んだ。
「何もいりませんよ。」
その言葉に、私たちは思わず顔を見合わせた。
神代さんは続けた。
「こうして皆さんと楽しい時間を過ごせただけで十分です。それに、今日のお肉は昭人くんからいただいた高級なお肉なんですよ。こんなお肉、私たちもめったに食べられません。」
その瞬間、美月と私は同時に昭人くんの方を見た。
昭人くんは耳まで赤くして、照れくさそうに笑っていた。
「いや、そんな……。」
その姿がおかしくて、みんなの間に温かな笑いが広がった。
私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
お金では測れないものが、確かにここにあった。
私たちは改めて神代さん一家に深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます。帰ったら、日本から何か送らせてください。」
そして昭人くんにも言った。
「昭人くん、本当にありがとう。昭人くんがいなかったら、この旅は全然違うものになってた。」
昭人くんは照れながら、箸を持ったまま小さくうなずいた。
食事がひと段落し、部屋に穏やかな空気が流れたとき、私は神代さんに向かって口を開いた。
「神代さん、今日のお話、本当に心に残りました。」
神代さんは静かに私を見つめた。
「私たちは今、こうして皆さんから温かいもてなしを受けています。でも、今日のお話を聞いて、神様はずっと前から私たちのことをもてなしてくださっていたんだって気づきました。」
自分でも驚くほど自然に言葉があふれてきた。
「ロンドンでも、ローマでも、そしてここエジプトでも。たくさんの出会いがあって、見えない何かに導かれているような気がしていました。でも、それが何なのか、今日ようやく分かった気がします。」
私の声は少し震えていた。
「最初に神代さんたちにお会いしたとき、とても温かいものを感じました。その意味が、今やっと分かりました。」
気づくと、目に涙がにじんでいた。
隣を見ると、美月も静かにうなずいていた。
神代さんも、サミラさんも、ミアちゃんも、ただ優しい笑顔で私たちを見つめていた。
すると、サミラさんが穏やかな声で言った。
「あなたたち三人も、本当に素敵な人たちです。」
その言葉に、私たちは顔を上げた。
「私たちのほうこそ、爽やかな気持ちにさせてもらいました。こちらこそ、ありがとう。」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなった。
その後も、神代さんたちは聖書のさまざまな話を聞かせてくれた。
神様の愛のこと。 人を赦すこと。 見返りを求めずに与えること。
どの話も、これまで聞いたことのある言葉でありながら、この家の温かな空気の中で聞くと、まるで初めて触れる真実のように感じられた。
一方で、昭人くんは相変わらず目の前の料理に夢中だった。
時々「これ、すごくおいしいですね」と言いながら、嬉しそうに食べ続けている。
聖書の話にはあまり関心がなさそうだったが、それでも私は思った。
今回の旅で昭人くんがいなければ、私たちは王家の谷にも来なかっただろうし、神代さん一家と出会うこともなかった。
人にはそれぞれ役割があるのかもしれない。
昭人くんは、知らないうちに私たちをここまで連れてきてくれたのだ。
夜は更けていった。
笑い声と、穏やかな会話。 家族のぬくもり。 そして心の奥に静かに灯り始めた、小さな光。
その晩のひとときは、まるで神様が私たちのために用意してくださった食卓のように思えた。
翌朝、神代さん一家が空港まで送ってくれた。
やがて空港に着き、別れの時がやってきた。
美月はサミラさんと抱き合った瞬間、こらえていた涙を流した。
「また、会えますよね。」
その言葉に、サミラさんは目を潤ませながら何度も頷いた。
神代さんも、言葉にならないまま静かに頷いていた。
そして気がつくと、昭人くんも神代さんとしっかり抱き合っていた。
私もサミラさんと抱き合った。
その温かさに触れた瞬間、胸の奥から感謝の気持ちが込み上げてきた。
「ありがとうございました。」
それだけを言うのが精一杯だった。
ミアちゃんも、私たち一人ひとりにぎゅっと抱きついてくれた。
そして、空港の玄関で私たちは最後に手を振って別れた。
私は、空港へ向かう車の中で神代さんが話してくれた言葉を思い出していた。
「日本にも私たちの仲間はたくさんいます。昨日の“もてなし”の話は、世界中で同じ週に同じ題材で話されているんです。だから、日本に帰って集会に行けば、きっと同じようにもてなされると思いますよ。良かったら、仲間に会いに行ってみてください。」
私は決めていた。
――帰ったら、行ってみよう。
神代さん一家と別れ、飛行機に乗るまで、私たちは誰もあまり口を開かなかった。
それぞれが胸の奥で、何かを静かに整理していたのだと思う。
カイロに戻ったあと、私たちはもう一度ギザのピラミッドを訪れた。
初めて見たときと同じように、巨大な石の山は静かに砂漠の中にそびえ立っていた。
そして博物館では、もう一度ツタンカーメンの黄金のマスクを見た。
相変わらず、息をのむほど美しかった。
三千年以上もの時を超えてなお輝き続けるその姿には、古代文明の重みと人間の営みの壮大さが感じられた。
けれど――。
最初に見たときとは、何かが違っていた。
私は美月と顔を見合わせた。
美月も同じことを感じていたのだろう。
私たちは小さく微笑み合った。
言葉はなかった。
でも、気持ちは分かっていた。
――もっと大切なものを見つけた。
ロンドンで見た古代の写本。
ローマで見た壮麗な絵画。
エジプトで見たピラミッドと黄金の秘宝。
どれも確かに素晴らしかった。
けれど、私たちの心を一番動かしたのは、石でも、金でも、歴史そのものでもなかった。
人の優しさだった。
国も言葉も文化も違うのに、まるで家族のように迎えてくれた人たちの笑顔。
見返りを求めない愛情。
そして、その源にある揺るぎない信仰。
それこそが、この旅で見つけた何よりの宝物だった。
翌朝、私たちはカイロを発った。
長いフライトの末、夕方には成田空港に到着した。
こうして、十日間にわたる卒業旅行は無事に幕を閉じた。
ロンドン、ローマ、エジプト。
世界の偉大な歴史と文化に触れた旅。
けれど、私たちの心に最も深く刻まれたのは、人のぬくもりと、神を信じる人たちの静かな確信だった。
数日後の週末。
私たちは最寄り駅の改札を出ていた。
春の柔らかな風が頬を撫でる。
駅前の喧騒を抜け、住宅街の中を歩きながら、私は胸の鼓動が少しずつ速くなるのを感じていた。
隣を歩く美月も、いつになく口数が少ない。
「……なんか、緊張するね。」
美月が小さくつぶやいた。
「うん。」
私も素直に頷いた。
けれど、不思議と不安はなかった。
あのエジプトで出会った人たちと同じ笑顔に、もう一度会えるような気がしていたからだ。
扉が開くと、そこにはエジプトで出会った神代さん一家と同じような温かな笑顔があった。
「先にお一人来られていますよ。」
まさか。
美月と私は顔を見合わせた。
扉を開けると、そこには昭人くんがいた。
いつもの少し照れたような笑顔で、私たちを迎えていた。
こうして、私は神様を知るようになった。




